今まで運動部にも所属せず、不良とも関わりなく、さりとて模範的な成長も出来なかったぼくらのようなきまりのわるい人間の遊び場は、もっぱら書店なんだと思う。


そりゃ、中学時代にひとりでうらぶれたゲーセンに通い、フードを目深くかぶっては壁にもたれかかり、人のプレイを眺める「できる奴」として振る舞っていた頃もある(塾をサボってた)
が、やっぱりそれがイタいってことにも薄々気付き始めたら、やっぱり書店に行くと思う。


そんなぼくにとってね、書店で出会った最高の漫画に関われるのは、もう、自分の生き方を肯定されたような気分になれるの。


何をしたのかって、売野機子先生の新作「ルポルタージュ」にコメントを書かせてもらったのね。
http://www.gentosha-comics.net/event/r.html
この特設サイトで読める!
しかもルポルタージュの試し読みも出来るんじゃよ。


一言コメントどころではなく、長文のコメントを書いてしまった(本当はサイトに載ってる3倍近い文量書いてしまって、たくさん削った)


コメントに書いてあることに尽きるけど、素晴らしい作品なのでやっぱり手にとって読んでほしいなと思う。


挫・人間って下卑たパブリックイメージがあるのに、こんなに美しい作品に関わらせてもらえて、嬉しい反面、「ほんとに?大丈夫??」という気持ち。
だからこそ出来るだけカッコつけずに自分の言葉をちゃんと選んだつもり……。
このブログにアクセスしたんなら、もう特設サイトにもこのまま飛んじゃってください。



%%%%%%%%%%%%%



「最近はもっぱら『薔薇だって書けるよ』がよかった」


と、その日も体育の授業のサッカーでキーパーとディフェンスの間の邪魔にならないポジションに吸い込まれるのと同じように書店に吸い込まれた憐れな人類代表 梶原笙(パーマ以前)が、ぼくにそう言ったのが売野機子先生の作品に出会うキッカケだった。


「薔薇だって書けるよ」


タイトルを口にするだけでしびれた。
即購入して読んで、完全にハマった……。


それから短編集三作に、ロンリープラネット、MAMA、かんぺきな街、クリスマスプレゼントなんていらない、売野機子のハートビート……とにかく読み漁った。


デボラの履いているバレエシューズが綺麗で、reppetoの靴を買ったりしたな……ソールが薄くてあんまり履かないけど。


青間飛行も、そのあと発売の「売野機子のハートビート」に収録されるだろうなとわかっていてもフィールヤングを買って、カラーの扉絵の鮮やかさをあの判型で読めるってだけで買って正解だったよな、と梶原と話した。
これを待ち受けにしようにもiPhoneのカメラや拾いものの画像ではなんとなく色味が違くて、お月さまみたいだな……と思った。


というファンエピソードがごろごろ出てくるほど普通にファンだったので、お話がもらえてビックリしちゃったの。
しかもルポルタージュの発売日は、挫・人間のワンマンと同じ6月24日なのよね。


漫画って好き嫌いあるし、実際少女漫画なんて読んだことないってひともいるらしいから、あまり漫画を人に勧めたことってないのだけど、ぼくにとって売野先生って、「あわなかった」とかはあるかもしれないけど、「良くなかった」とは思って欲しくない漫画を書く人なのよね。


やっぱり良くないな、と思う漫画ってぼくにもあって、それはもう色んな要因が重なってそうなるわけなんですけど……、でも売野先生の漫画を読んで「良くなかった」って言われたらおれ、超かなしいなと思う。どんなひとでもこの漫画に感動できるところがあるならぼくはもう少し人間をすきになれるから。


なんか微妙なニュアンスの話をしてしまった……とりあえずぼくの周りの人間が良くなかったって言ってたことないので、このブログを読んでる人はもう、間違いないんじゃないでしょうか……。


なんか、そう考えたら「あわなかった」も言ってほしくねーな。


なんというか、そういう思い入れのあるお話にコメントを書くってなったので緊張したけど、やれてよかったーと思ったので改めてブログに書いた。
ルポルタージュについてはぼく、特設サイトにコメント載ってるんでそっち読んでください。
http://www.gentosha-comics.net/event/r.html


まぁ……なんというか、そういう宣伝です。ついでに言うとワンマンのチケット、ぴあは売り切れました。e+かローチケでお求めください。WWW Xって700人くらい入るっぽいからドキドキしてる。いいライブにするね。


以上。今からワンマンのための練習にいってきまーす。

ゴッホって黄色の絵の具がすぐなくなっちゃうんだってさ、


と、聞いてぼろぼろと涙がこぼれたことがある。


ぎょっとした相手は引きつった顔で
「これだからバンドマンは」と心の中で叫んだ。ぜったいにそう、おれには聞こえた。




ゴッホ好きでさ、Tシャツも持ってんの。
_var_mobile_Media_DCIM_149APPLE_IMG_9772.JPG
これ、プリントどんどん剥がれてくんの、ほんとムカつくよね。


まぁ、どうでもいいんですけど。
ぼくははじめて買ってもらったゲームボーイポケットの色が黄色だったときから黄色が好きだったから幼稚園の頃通ってた絵画教室でも黄色の絵の具がすぐなくなってた。


いつもその日の塗りたい色が必ずあって、それ以外の色を使うのは、褒められようとしてるみたいで嫌、なんて気分で絵を描いてたことを覚えてる。
カエルを黄色に塗って怒られたことがある。「カエルが緑色だってことくらい分かってる」と、思った。
幼少期に描いた絵があるから、載せる。


_var_mobile_Media_DCIM_125APPLE_IMG_5618.JPG


…………。

いや、でもこの頃が一番明るかったんですよ、ぼく。





高校生になる頃には絵を描くことはなくなり(気持ち悪いとか不気味って不評だった)、バンドに夢中になった(気持ち悪いとか不気味って評判)そんな頃に美術の授業でゴッホのひまわりをみた。


ひまわり、これが有名なヤツか、くらいの感想。エロゲーをやり続けた91年生まれは、ひまわりを見ると条件反射で切なくなるが、ゴッホのひまわりはそういう印象を感じさせなかった。
本で読んだ話によると、ゴッホにとって黄色は希望の色らしい。


ゴッホは死後評価された不遇の作家、みたいなエピソードもあるから過剰に絵画に感情移入してしまって、なんだかひどく下卑たことをしてる気分になってダメだ。それでもよく見るゴッホの絵。自画像、夜の街、橋、畑、太陽。どこもゴッホには黄色にみえているようだった。自分の見たままに色を塗ってるみたいで、なんかカッコいいな、と思った。


不遇の作家、twitter上に存在するゴッホのbotは、数時間おきに弱音を吐く。おれのtwitterとほとんど同じだ。
それでもゴッホは街の至る所に、朝に、花瓶のひまわりに、希望をみていたんだなと思った。わからない、もしかしたらぜんぜんそんなことなかったかもしれない。でも見出したかったんじゃないか。そこに存在しないものが希望にだってなり得ればいい。まるで祈ってるみたいだ、と思った。


下川くん、みんなカエルを緑色に塗ってるけど、なんで黄色に塗ってるの?に対して黄色が好きだから、と答えると変人扱いされることくらいわかっていたので
「笑えるかなと思って」と答える。
別に何かに反発心があったわけじゃない。でも一面真っ黄色になるような世界をずっと見てみたい。


ゴッホって黄色の絵の具がすぐなくなっちゃうんだって話を聞いて、そんな思い出が一瞬にして蘇りうれしくなった。
まじ、よかったね。黄色をたくさん残せて。


何か色を塗るともう戻れない。そこに色を重ねても元の色には戻れない。ぼくはまみずのような透明さを持つことが出来なかった人間だから、せめて自分の筆先を、自分の好きな黄色だらけにしたいと思った。ゴッホみたいなヤツが黄色を塗り続けていた事実が今の卑屈な自分を励ますから。おれは黄色を選ぶ、それがキチガイの色でも、スズメバチの色でもハルヒのリボンでもいい。黄色を選びたい、と思った。それはきっとキレイだと幼少のぼくは思うだろうから。


さー今日はライブだ。
おれのションベンで真っ黄色に染めてやるから来いよ。

手紙を書いた 時がとまるように
電話をかけた 忘れませんように


というのはぼくが高校生のときにかいた「犬にかみつかれても」という曲(7分ある)の冒頭の歌詞なのだけど、ここから今になって自覚できるのは高校生のぼくの、手紙に対する歪んだ感情だ。


ぼくは手紙というのは差し出す相手への卑屈な感情を込めればそのひとをコントロールできる呪いのようなツールになると思い込んでいたんじゃないだろうか、それこそ、時すらとめられるような。


最近熊本で行われた「HAPPY JACK」というサーキットフェスに出たので、ついでに数日帰省した。
自分の部屋の引き出しを漁るとそこから大量に出てくる呪いの手紙に、ぼくは思わず身体が凍るのを感じた。


呪いの手紙と言ってもキャラクターから想像されるような
「鍵の位置を変えましたね。危険な人が侵入してくるかもしれないと思い、前と同じ場所に置いておいたけど、気づいたかな?いつも見てます。」
みたいな、わかりやすい類のものでは決してない。


でも、引き出しを開けたとき、ほこりっぽいにおいと一緒に溢れてきたのは「はじめてお手紙を書きます」で始まる汚い字で書かれた手紙のいくつか。
それと、ぼくの持ったこともない綺麗な水色の蛍光ペンで書かれた女物の字の一枚の手紙だけだ。


その手紙は水色のくだけた文章のあとで、そこだけ別の人間が書いたみたいに流れに関係なく「ごめんネ」と結ばれていた。


引き出しを開けて眺めていると、とまった時間がまた流れて今にも朽ちてしまうようだった。
ぼくはこの引き出しをしめるだけでまた時間を止められるような錯覚に陥ってしまって、思わず閉めた引き出しに指を挟んでしまった。


ぼくは手紙をたくさん書いても一度も出せたことはない。


とあるバンドマンがツイートしているのを見た。詳しく覚えているわけではないが大体の内容はこうだ。
「ライブハウスにて懐かしい人と会う。自分は今まで自分のことを見つけてくれたひとのことを全部覚えているから、これからも君たちのことを忘れずに歌っていく所存」
という決意表明だった。


はっきり言うと、今まで挫・人間観に来てくれたひとのこと、ぼくは結構覚えてないと思う。


例えば強烈な格好でライブに参戦するひと(今の挫・人間Tシャツ着てるとただでさえ強烈な格好だけどな)とか、何度もライブで会って今でもまだ顔をみることができるひとのこととか、よくライブ来てくれて、ナイスな表情でこっちをみてるひととかはわりとわかる。


でも、長いこと会ってないひととか、ライブハウスで一度見て、面白かったから物販買ってってくれて、ってひとがいたとして、例えばそのひとがそれきりライブに来てなかったら、ぼくはそのひとが他のライブに来てくれるひとと同じような気持ちでぼくらのことを好きでいてくれても、「君たち一人一人のこと覚えてる」なんてぜったいに言うことはできない。それは、ぼくの場合嘘になるからだ。


どデカい嘘を突き通すならそれは本当になると偉大なバンドマンは言ったが、どデカい嘘とは騙す相手もどデカくあってほしいと思う。
そりゃ少し前はそういった、理想的な嘘つくヤツとか、何かに不満を持ってるフリをしてるヤツとか、そういったことが事実であるかどうかは関係なく、そう見えるってだけでワタクシ自らの手で粉々にしてやりたいと思っていましたが、今は各自いろはすで入水自殺してくださいって感じであります(エコ)


しかし、嘘をつくヤツに比べて嘘をつかないヤツが正しいかというと、別にそういうわけでもない。そいつの嘘が必要なヤツもいるし、「真実を言う」といういかにも全面的に正しいという体面をとったハラスメント的攻撃を仕掛けてくる人間(ぼくはちがいますね)もいるから結局全員クソみたいな話なんだけど、ぼくはそんな嘘では満足出来ないし、そんな嘘を信じてる自分がひどく惨めになるので、少なくともバンドではやりたくない(決意表明ですね)


そんなぼくにとって手紙というのは嘘に似ている。


ラブレターは宛名を書くと宛先で愛を愛で返せとせがむ乞食のようになるだろう。だからできるだけなんでもないような事を書きたかった。
「彼女ができました」
なんでそんな嘘をつくんだ?バカだな、もっとあるだろ。
「多分、今後もずっと君に会いたくないと思います」
それも、嘘だ。しかもすごく、卑怯な嘘。
「楽しかったこと、覚えてるかな、僕は全部覚えているんだけど」
本当のことだ、でも、嘘のあとにそれを言うのは、ひどい不誠実だ。
「いつか2人で牛乳をのんだりとか、くだらないテレビをみたりとかしたかったけど」
何が言いたいんだ?徹底的に惨めだ。絶望的だ。ぜんぜんそのこに相手にされたわけでもないって今では認められる。じゃあ、今は本当に本当だって言えるか?嘘をつかなければ本当なのか?ズルはしてないか?不安にまかせて都合よく振る舞うことを賢さだって言うなら、そこで生じるセンチメンタルに酔ったりするべきじゃない、0.01秒も省みるな、自分に耐えられなくなるからって罪を重ねたって何もゆるされないんだぞ、
それでも、それでも、それでも何度も書いてしまった手紙が引き出しの中からぼくを見ていた。
「君は僕を好きかい」「君のことは忘れると思う」「僕のことなんてどうでもいいでしょ」「今は大人の恋でぼくを忘れたかい」「もしも僕にお金があったら」「ごめんネ ってなんだったの」


……出せない。10年近く前の手紙は歳をとるほど出せないものになっていく。
出して、どうするんだ、どう思って欲しいんだ、愛してくれって言うのか。離れないでって言われたら満足か。ぼくのありとあらゆる思いが夜には卑屈さになって、ぼくの字で手紙になっていく。ぼくは手紙を一度も出したことがない。


ファンレターをよくいただく。ライブのときスタッフに渡してくれたり、あるいは事務所に送ってくれたり。すごくうれしいのですべて読んでいる。


例えば、あなたの歌が生活における自分の救いだとか、熊本も香川も挫・人間と一緒に遠征して観に行って良かった、とか。


「すごく嬉しくなるので返事を書きたくなるが、返事は出せないの」(上記のような理由ではないけど)
みたいなことを一度ツイートしたら、昨日いただいた手紙に
「むしろ手紙を出すことで下川くんから受けとったものに対しての返事を出している気持ちです」というようなことが書いてあった。


考えたことがなかったがそう言われると、今まで出さずに腐って風化していくだけだったぼくの手紙たちは歌になっていて、ぼくはそれをばら撒いているのだなと思えた。


嘘をつきたくないからなんて格好いい理由じゃない。格好悪い自分を嘘だと思ってほしかったからぼくは手紙を出さなかった。それでも手紙はうまれてどこかに行きたがる。人間ひとりぶんの手紙、その手紙には返事が届くのだ。同じように手紙の形で、或いはライブハウスのフロアからあげた声という形で、伸ばした腕という形で、時には直接目を見て。
今も別に何もわかってない、嘘ついてるかもしんない、でも「ほんとう」はある。「ほんとう」があるとしたら、ぼくはそれが欲しい。ぼくの「ほんとう」は常に限りなくニセモノみたいに見えるものばかりで、それでもそんな汚いとしか思えないようなものの中にだけきらめくそれをぼくは「ほんとう」だと信じてしまえるのだと思う。そしてその「ほんとう」だけを伝えていきたい。君が人混みに混ざってゆく、それでも、それでもおれは君に「ほんとう」を伝えたい。おれはきっと誰でも会えなくなったら思い出さなくなるような人間なんだろう。みんなのこと忘れずに歌ってくなんて約束はしたくない。でも守れなくても約束はしたい、守りたくなるような約束、
それは思わずニヒルに気取ってしまうような、クソみたいな真実ではない。そういう間抜けな真実や現実みたいなものの中で「ほんとう」があるということだけがまったき事実として地面と垂直にきらめきぶっ刺さっているということを言ってしまいたい、たとえそれが嘘だとしても突き通らないはずがない。何故ならぼくの歌が手紙だとするならば、引き出しの中で時間を止めた返事の手紙のように、忘れてしまっても、ぜったいに残り続けるからだ。

↑このページのトップへ