「告白するの?」帰りに寄った豊中の花屋で、お会計のときに、案の定、おばちゃんが訊いてきた。
「まあ」私は曖昧に答える。
「でも本数まで電話で指定してきたということは、もちろん意味を知ってるのね」
「はい、以前聞いたことがあって」あなたから。何度も。
「やるじゃない。成功することを願ってるわ」
「ありがとうございます」
 今回はしつこくバラの本数の意味を説明されることもなかった。私は丁寧に包んでもらった花束を持って、約束の場所に向かう。
 その道中で、脳内の記憶を整理する。
 今日は金曜日。実感としては先週の金曜日だ。つまり、私たちは今朝のプリンの一件で喧嘩をしている状態なのだ。だとすると、瑞希は私の電話を仲直りの為のものだと思っているかもしれない。
 この後の展開を頭の中でシミュレーションしてみたが、どうにも上手くいかない。こんなときこそ「バイブル」の出番ではないかと思ってしまう。
 
 午後八時、瑞希が待ち合わせ場所にやってきた。
「どうしたの、わざわざこんなところに呼び出して」
 そこは豊中駅の南側出口を出て、左に曲がったところにある広場の、中央階段の中二階部分だった。広場の中央には大きな傘型のガラスの屋根があり、その下には一階に下りるためのエスカレーターとエレベーターと階段がある。この階段の中二階部分は音が綺麗に反響し、上から吹き抜けのように覗き込めるようになっているので、取り締まりが厳しくなる前は様々なストリートミュージシャンがよく歌っていた。
 私たちにとっては、ここが思い出の場所なのだ。
 瑞希との三回目のデートで、そろそろ私から告白しなければいけないと思いながらも、なかなか言い出せず、夜、別れ際になって、ようやく「何か言いたいことがあるのなら言いなよ」と瑞希が痺れを切らしたのが、この階段の中二階部分だった。
 今、その思い出の場所で瑞希と向かい合っている。私の後ろ手には十二本の赤いバラがあった。一八〇度の視界の反対側に何もなかったとしても世界は成り立つ、と考えていたが、そんなことはないかもしれない。この後ろ手に持っている十二本の赤いバラが、私たちの人生において大変重要な意味を持つのだ。その重要さを考え始めると、私はなかなか最初の言葉を紡げずにいた。
「え、何? 寒いんだけど」瑞希が両手を擦り合わせている。吐く息は白かった。
「俺は」勇気を振り絞って声を発した。思った以上に反響した自分の声に驚く。「瑞希といるときが一番幸せだし、生きてる喜びを実感できる。俺は瑞希が笑っていられる世界を一緒に作っていきたい」そして両手を前に出し、片膝をつく。私と瑞希の間に十二本の赤いバラを掲げ、「俺と結婚してください」と叫んだ。
 ただならぬ空気を察し、通行人は階段を避けてくれていたが、隣のエスカレーターや上の方からはたくさんの視線を感じていた。それでも私の視線は真っ直ぐ瑞希の目を向いている。
 瑞希は嬉しそうな笑みを浮かべ、赤いバラを見つめた。だが、花束を受け取ってくれない。吹き抜ける風が冷たく、私の頬を叩くようにして通り過ぎていく。
その静寂は永遠のように思えた。
すると、瑞希が「十二本それぞれの意味、全部言えたら結婚してあげる」と言い放った。
 予期せぬ展開だった。だがこの台詞には聞き覚えがある。確か「バイブル」の中の瑞希が言っていたのではなかったか。
「え?」と私は思わず訊き返す。
「十二本を選んだということは、ちゃんと意味を解ってるんでしょ?」
「うん、まあ」
 まずい。駅前の書店で読んだ夢占いに背中を押され、勢いで花屋に向かったのだ。よりによって、今回、おばちゃんは十二本それぞれの意味を説明してくれなかった。まさにマーフィーの法則ではないか。「大事なときに花屋のおばちゃんは十二本の赤いバラの意味を説明してくれない。どうでもいいときは細かく説明したがるくせに」だ。いっそのこと一〇八本買ってしまえばよかったと思ったが、もう遅い。
必死で記憶を辿る。脳内にある記憶の引き出しを開けて回った。現実の引き出しも、仮想現実の引き出しも全てだ。全部開けっ放しにして、中身を取り出し、奥の方まで探す。部屋をすぐ散らかしてしまう私は、脳内も同じように散らかっていた。
 そのとき私は閃いた。
十二本の花束の中から、三本のバラを取り出し、「愛している」と言って、瑞希に差し出す。残りの九本で「いつまでも一緒に」なので、プロポーズに相応しいではないか。
しかし、瑞希は受け取ってくれない。
「愛の分割払いは受け付けておりません」と言うと、すぐに自分で矛盾に気が付き、「十二回払いのみのお取り扱いとなっております」と付け加えた。
「何だよ、それ」
「え、言えないの? わざわざその本数を選んだのに?」わざと試すような言い方をしてくる。「わたしが大事にしてほしいものが詰まってるのになー」
「言えるよ」むきになってしまった。
「本当に? わたし、割と本気で言ってるからね」と釘を刺してくる。その目を見る限り、嘘ではなさそうだ。
 覚悟を決めた。私が大事にしていきたいと思うことから伝えよう。
まず「愛情」と言って、一本のバラを差し出す。瑞希は白い歯を見せ、それを受け取った。
続いて「感謝」という言葉とともに二本目のバラを差し出すと、それも喜んで受け取ってもらえた。
さらに「尊敬」という言葉で三本目、「誠実」で四本目、「希望」で五本目を手渡す。
今のところ全て正解のようだ。ここまで来たら、何としてでも全て正しく手渡さなければならない。
記憶の引き出しを再度ひっくり返す。
少し間を空けて、「幸福」で六本目、「信頼」で七本目、「努力」で八本目を手渡した。
瑞希の胸には赤いバラが増えていく。その表情には喜びと期待と、ほんの少しの不安が垣間見えた。彼女の期待を裏切るわけにはいかない。
いつの間にか上の方には数人の人だかりができていた。一組のカップルの人生の節目を優しく見守るというよりは、ただの野次馬で、「もし見知らぬ男がプロポーズを失敗しようものなら笑える」というような好奇の眼差しがほとんどだった。失敗するわけにはいかない。中途半端に終わらせるわけにもいかない。全部正解させるしか道はなかった。
だが脳内で必死に記憶の引き出しの中を探して回っても、そろそろ限界を感じ始めていた。
あと四本。そのたった四本で私の人生の歯車は狂ってしまうのだろうか。
竜也の「あとで振り返ってみると、きっかけは些細なことだったというようなことは山ほどある」という台詞が聞こえてくる。
どうしよう。何も出てこない。野次馬の嘲笑が目に付いた。サラリーマンや高校生たちの嘲りが聞こえてくる。スマホのカメラをこちらに向けている女子高生までいた。苛立ちと焦りが脳内をかき混ぜ、記憶の中身をまき散らしてしまう。正解からさらに遠のいた気がした。
そのとき、私は目を疑った。いるはずのない人がそこにいる。
野次馬の中で一際、異彩を放っていたのはレオ姐だった。
いつからそこにいたのだろう。この寒い日にも、コートの下には迷彩柄のタンクトップ一枚だけだった。周りの野次馬にはレオ姐が見えていないのだろうか。それともレオ姐以上に、今、この場所では私の方が面白い対象なのだろうか。
「あとは?」瑞希が私を急かす。
「あとは――」考えてみても出てくる気配がない。視界の中に入ってくるレオ姐がとても邪魔だった。今の私にとっては余計な情報だ。
 だがよく見ると、レオ姐は必死で何かを訴えていた。ピンク色の腫れぼったい唇を大袈裟に動かしている。その口の動きが、私の脳内で音に変換された。
私は「情熱」と言って、九本目を手渡す。瑞希が頷いて受け取る。野次馬から「おー」という歓声が上がった。私はほっと胸を撫で下ろす。
 続けて、レオ姐のヒントを基に、「永遠」と言って十本目を手渡した。瑞希が受け取ると、ぱらぱらと拍手が起こり始める。
あと二本だ。
レオ姐の口の動きを見ると、どうしても「栄養」と言っているように見える。この並びに「栄養」が来るだろうか。確かにそれは大事だと思うが、絶対に正解ではないという自信があった。
何度かレオ姐の口の動きを読んだあとで、ようやく答えに辿り着いた。
私は「栄光」という言葉とともに十一本目のバラを差し出す。瑞希が受け取って、大きな拍手が巻き起こった。レオ姐も大きく頷いている。
私の手には一本の赤いバラが残っていた。最後の一本だ。これが私たちの人生を左右する。未来の景色を変えてしまう。それほど重要な意味を持っていた。
救いを求めて、レオ姐のピンク色の唇を見つめる。
その口は横に引き伸ばされ、閉じて、また横に引き伸ばされ、最後にすぼめられた。
だが何度見ても、私の脳内で音に変換されない。私もレオ姐と同じように小さく口を動かしてみるが、思い当たる言葉が音として発せられない。
「ラストだよ」と瑞希が私の手にあるバラを指さす。「コウちゃんが大事にしたいものを言ってみて」
 そう言われても、ここで間違えるわけにはいかないのだ。
 もう一度、脳内の引き出しを整理し直し、落ち着いて探す。
すると、竜也の顔が浮かんだ。それは無愛想な竜也の顔ではなく、不器用ながらも無邪気なあの笑顔だった。
 そのとき、頭の中に声が聞こえた。
 私は最後の一本を瑞希に差し出し、冷たい空気をたっぷり吸い込むと、渾身の一言に力を込める。
「真実」
 私の声が反響する。その残響の長さから、自分が思っていた以上に大きな声が出ていたことに気付く。
 瑞希はニカッと白い歯を見せた。口角が上がって下がり、またゆっくり上がる。目から思わず溢れ出しそうになった液体に困惑し、表情が定まっていないようだ。頬は赤く染まっている。
そして瑞希は、最後の一本を受け取ると、「よろしくお願いします」と言った。
 周りからは今日一番大きな拍手が巻き起こった。歓声も聞こえる。
 私は立ち上がり、瑞希の今までで一番美しい顔を見つめると、強く抱きしめた。瑞希の温もりを感じる。そして今、私の背中には瑞希が左手に持った十二本の赤いバラがある。
「コウちゃんの背中にはバラがあるよ」瑞希が耳元で囁いた。
「知ってるよ」私も小さい声で答える。
「視界に映らない世界はなくても成り立つんでしょ?」
「そうだな」
「でも私が『絶対』と言ったら信じる?」
「うん、信じるよ。この世界は『絶対』なんだろ?」
 瑞希は答えなかった。
代わりに微笑んで、優しい口づけをくれた。それは仄かに甘いチョコの味がした。
賑やかな声や、闇を切り裂く口笛の音とともに、拍手が続いている。
顔を上げると、いつの間にかレオ姐はいなくなっていた。
冷たい夜風に乗って、瑞希の甘い香りが私の鼻腔に届く。
腕の中には小さくて柔らかい瑞希の身体がある。
 私は五感全てでもって、瑞希を抱きしめていた。
 この瞬間、ほんの一瞬だけ、今なら死んでもいいと思った。
この不確かな世界を断つなら今だ、と。
でも私はやっぱり未来を見てみたい。たくさんの些細なきっかけが、どういう景色に繋がっていくのかを見届けたい。
どうせいつかは死ぬのだ。ならばこの世界で足掻いてみようじゃないか。
 この瞬間を永遠に刻み込むようにそっと目を瞑ると、瞼の裏がぱっと輝いた。


昨日の夜、瑞希は落ち着きを取り戻すと、恐怖の感情が徐々に怒りへと形を変え、その矛先が私に向けられた。私はひたすら謝り続け、最終的に、生きている実感を彼女に味わわせるということで決着がついた。
 そういうわけで今日はケーキ屋に寄り、高級チョコケーキを買って帰った。瑞希の生きている実感とは「甘さ」なのだ。
「結局自分勝手だよ」その夜、瑞希がチョコケーキを食べ終えると、そう言い放った。「子どもが親より先に死ぬなんて、とんでもない親不孝だから」
 私が竜也の最期について話した直後のことだった。
 つい先程までチョコケーキを頬張りながら、満面の笑みを浮かべて、「幸せ! わたし、生きてる」と言っていたのに、また私は怒りのスイッチを押してしまったようだ。
「それはそうだけど、竜也の苦しみは想像を絶するよ」
「コウちゃんは自殺を肯定するの?」
「そういうわけではないけど。でも自殺する瞬間の人の気持ちって、やっぱりどうしてもその人にしか解らないと思うんだよね」
「猟奇的な殺人鬼の気持ちもその人にしか解らないから赦してもいいの?」
「赦してもいいとは思ってないよ。でもその人にしか解らないとは思う。もしかしたら自殺する瞬間の竜也は幸せだったかもしれない」
「だとしても、残された人たちの悲しみはどうなるの?」
「確かにそれを思うと自分勝手だな。でも竜也のことを思うと、俺は強く否定できない」
「なんで?」瑞希の口調がさらに感情的なものになる。「人は赤ちゃんのとき、みんなお腹が空いたり、痛みを感じたりすると泣いてた。それは生きようとしていたからでしょ。誰だって生きようとして生まれてきてるんだよ。それがいつの間にか、この世界に生きる意味を見出せなくなったとか言って、自殺する人がたくさん出てくる。意味なんて後からついてくるんだよ。そんな人が自殺なんかに意味を見出すなよ」
瑞希は怒涛の勢いで言葉を並べた。私はその勢いに圧倒されてしまった。
「自殺に意味はないと?」
「ないよ。わたしには考えられない。昨日、わたしが殺されるかもしれないと思ったとき、恐怖よりも怒りが湧いてきたの。『何でわたしなんだよ』って。『自殺したい人がこの世にはたくさんいるんだから、そいつを選べよ』って。でもそのとき思った。自殺って贅沢品なんだって」
「贅沢品?」
「そう。人は生きてる間に色んなことを望みすぎると、いつの間にか全てを手放すことまでも望んでしまうんだよ」
「じゃあ自殺にも意味があるじゃないか」
「ん?」瑞希が怪訝そうな目を向ける。
「自殺したいということは、生きてるということの実感だ」
「そういう捏ね繰り回した理屈は大っ嫌い」瑞希はずっと苛々していた。
 すると瑞希は、「あー、甘さが足りない」と言って、冷蔵庫からチョコレートを取り出してきた。小さな袋を開け、一つ口の中に入れると、「うん、甘い」と満足げな声を発した。
瑞希がお風呂に入っているとき、私はソファに座ってテレビを見ていたのだが、ふと部屋の中に人の気配を感じた。ここ数日、過敏になっている警戒心がすぐにそれを察知し、私はさっと後ろを振り向いた。
「元気にしてるー?」そこにいたのはレオ姐だった。
「なんだ、あんたか」私は一瞥し、またテレビに向き直る。いつの間にかレオ姐の存在を受け入れていた。いつ、どこから入ってきたのか、という野暮な質問はしない。
「なーに、そのつれない態度?」この粘っこい口調も最初ほど不快ではなくなっていた。慣れというのは恐ろしい。「心配して会いに来てあげたんじゃなーい」
「それはどうも」
「冷たいのね」
「疲れてるんだよ」
「それはそうと」レオ姐は私を労ることなく続ける。「アナタもそろそろこの世界を終わりにしたらどう?」
「何を言ってるんだ?」
「竜也ぼっちゃんもいなくなっちゃったんだし、目を瞑ってしまえばあっという間に終わるのよ」
「何だと?」
「アナタのために言ってるのよ」
「それはどうも。大きなお世話だ」
 するとレオ姐が私の上にのしかかってきた。私はソファの上で身動きを取れなくなる。
「ワタシの助言は聞きなさいよ、いいわね?」レオ姐の図太い声には有無を言わさぬ迫力があった。それは助言という名の命令だった。
「は、はい」
 そのとき、瑞希がお風呂から戻ってきた。「どうしたの、コウちゃん」
「いや、なんでもない」慌てて体裁を整える。
 レオ姐はあっという間にいなくなっていた。
 私はベッドの上で、竜也に思いを馳せていた。
 もしかすると竜也は「バイブル」の中で、過去ではなく未来を見ていたのかもしれない。自分が栗田実だということに気付き、それを踏まえた上で、次に取るべき行動をシミュレーションしていたのではないだろうか。もちろん未来はほんの些細なきっかけで大きく変わる。どれだけ論理的に考えたところで、人の心理までは読めない。それは「バイブル」も同じだ。だからこそ竜也にも不安要素がいくつかあり、私に「嫌な予感がする」と溢していたのだろう。
 どこまでが竜也の想定通りだったのかは分からないが、結果、私たちは助かった。
これからも竜也のことを忘れることはないだろう。そのことまで竜也は想定していただろうか?
 生まれ変わりなんてものがあるのなら、また竜也に会いたい。次は花だろうか、鳥だろうか、虫だろうか、飛車の駒だろうか、弓だろうか、それとも矢だろうか。どこかに竜也の魂が宿るかもしれないと思うと、全てを愛おしく思えるような気がした。
 私は瞼の裏に竜也の不器用な笑顔を思い浮かべながら、ゆっくりと眠りに就いた。
「以上で『バイブル』実践編を終了いたします。またのご利用をお待ちしております」
 急に音声が聞こえてきた。私は突然の出来事に驚き、目を開けようとするが、何も見えない。五秒ほどすると目の前に「バイブル」のブースの光景が広がった。
「ご利用ありがとうございました」声のする方を見ると、環奈が丁寧に頭を下げている。
「環奈、これはどういうことだ?」
「はい? どうされましたか?」環奈はやけに他人行儀だった。
「俺はここにどれくらいの時間いたんだ?」
「お客様は二十分間ほどこちらで体験されてましたよ」
「えっ」理解が追いつかない。「ところで、環奈だよな?」と恐る恐る確認する。
「えーっと、私、赤井菜月と申します」
「え?」いったいどういうことだ。私が今、何を分かっていて、何を分かっていないのかも分からない。
「今日は何月何日?」と訊ねると、赤井菜月は「その質問、よくされるんです」というような薄笑いを浮かべ、今日の日付を答えた。それは私が最初に「バイブル」を体験した日だった。
 預けていた鞄とコートと、たくさんの疑問を両手に抱えながら、ブースの外に出ようとしたときに、後ろから「清水さん」と声をかけられた。振り向くとそこには脳科学者の川辺誠氏が立っていた。
「いくつか質問をしたいことがあるので、こちらの部屋に来ていただけますか?」川辺誠氏がブースの奥を手で示す。私も訊きたいことがたくさんあったので、戸惑いながらもついていった。
 深海環奈、もとい赤井菜月の横を通り、テントのブースの仕切りを抜けると、四畳ほどの狭い部屋があった。そこには大きなモニターが三つ並んでおり、様々な数値や波形が表示されている。
「この度は『バイブル』を体験していただき、誠にありがとうございます」川辺誠氏が「誠に」と言うのが少しだけ気になったが受け流す。「実はこちらで皆さんの脳波をチェックさせてもらっていたのですが、清水さんの脳波が独特な反応を示していたので、お話を伺いたいと思い、声をかけさせてもらいました」
「はい」独特な反応という言葉に少し恐怖を感じる。
「まず初めに、『バイブル』の中では何日間過ごされましたか?」
 まるで「ハワイで何日間過ごされましたか?」というような質問だ。
私は記憶を辿る。金曜日に最初に「バイブル」を体験して、日曜日にも竜也と体験して、と考えたところで思考が行き詰まる。待てよ、今日が金曜日ではないか。どういうことだ。
とにかく最後は一週間後の日曜日だったので、全部で九泊十日の旅行ということになるだろうか。でもよく考えてみると「泊」の記憶があまりない。
「多分、十日間だと思います」自信が持てなかった。
「随分と長い時間を過ごされていましたね」川辺誠氏が愉快そうに言った。私はまるで有給休暇を取りすぎたことで上司に皮肉を言われているような気分になる。「『バイブル』では脳内のある部分を刺激することで、実感を伴った夢を見ているような状態を作り出しているのですが、清水さんの場合はその部分の脳波の数値が異常に大きくなったんです」
「それはどういう意味ですか?」
「私の推測では、おそらく『バイブル』の中で、眠りに就き、そこで夢を見たのではないかと」
「『バイブル』の中で夢を?」
「ええ。普通の夢であればすぐに覚めるのですが、既に『バイブル』で夢を見るような状態を作り出しているので、ある脳内物質が過剰に分泌され、より深い夢の中へと潜り込んだのではないかと考えております」
 初めて「バイブル」を体験したときに眠りに就いた記憶はある。でもすぐに「バイブル」体験終了の音声が流れてきたと認識していたが、実はその時点でさらに深い夢に潜り込んでいたということか。だとしたら、それから先の記憶は全て夢だったということになってしまう。
「確かに割と初めのほうで眠った記憶があります」
「ですよね。ただ感覚は現実世界と変わらないものだったと思います。そして、ご本人の記憶を基に、人工知能であらゆるシミュレーションをして夢の世界を構築しているので、実際に会ったことのある人物が出てきますし、現実で起こり得る展開も多々あって、かなりリアルに感じられたのではないでしょうか」
「あ、はい」私は頭が上手く働かず、疲れを感じ始めていた。最新の機械の凄さを誇るような川辺誠氏の話しぶりも鼻に付いた。
「そこで出てきた知識や情報も全て、現実世界のどこかで清水さんが既に知っていたことなのです」
「そんな」あり得ない、と思ったところで、竜也の話を思い出す。そうか、脳内の記憶の引き出しには入っているが、開け方が分からないものもあるということか。
「そこで生まれたストーリーは既に持っていた知識や情報を基に構築されています。ただ夢は夢なので、場面も断片的なものだったかと思います。それを脳内で並べることで、時間が流れていると勝手に錯覚したのです」川辺誠氏が得意げに話す。
 確かにそうだった。そして思い返そうとすればするほど、自分の記憶が不確かで頼りないものに思えてきて、恐ろしくなる。
「あと清水さんの脳波を見ていると、かなり恐怖を感じているようでしたが、思い当たる節はありますか?」
「えーっと」思い当たる節だらけだった。この十日間、正しくは「バイブル」の中での十日間は予期せぬことの連続で、恐ろしい場面もたくさんあった。現に、たった今も私は恐怖を感じている。
そこでレオ姐のことを思い出した。「マッチョなオネエが出てきました」
「マッチョなオネエですか」川辺誠氏が不意を突かれて笑う。権威ある学者の口から飛び出すワードとしては違和感があり、私も笑いそうになった。
「はい、ことあるごとに出てきて、助言や注意をされました」
「ああ」川辺誠氏が手を叩く。「それなら『バイブル』が生み出したものですね」
「『バイブル』が生み出したもの?」私は鸚鵡返しにする。
「ええ。仮想現実とはいえ、秩序を保たなければ人工知能も暴走し、正しい世界を構築できなくなるので、注意を促すキャラクターを登場させるようにプログラミングしているんです」
 私は「正しい世界」という言葉に何とも言えない不気味さを感じた。何をもって「正しい」と言えるのだろうか。それは見る角度によって形を変える。どのメーターで測るかによって「正しさ」は悪にもなるのだ。
だが、レオ姐の不気味さはさらに群を抜いていた。「それでマッチョなオネエが?」
「それは人それぞれです。体験者が最も恐れるような姿で現れるようになっています」
 私は思わず破顔した。それでマッチョなオネエが。
「それにしても『バイブル』って、終わりたいときはどうすればよかったんですか?」
「それは用紙の注意事項にも書いてありますし、最初に音声の説明もあったはずですが」
 注意事項は私が見落としていたとしても、音声の説明などなかったはずだ。「音声の説明なんてありましたか?」
「あったはずですが、もし聞いた覚えがないのであれば、清水さんが途中で遮って、次に進んでしまったのかもしれないですね」
 私は記憶を手繰り寄せる。実感としては十日も前の記憶なので、随分奥の方に眠っていた。確かあのとき、音声の説明が流れた後に、私はその性能に驚いて、もう一度説明が流れ始め、その途中で私は地下鉄の改札の場面に降り立ったのだ。
 もしかすると、私が「なんだと!」と驚いたせいだろうか。これを人工知能が「訊き返された」と判断して、説明の途中で再度最初から言い直したのかもしれない。そのせいで大事な説明を聞き逃していたのだとすれば説明が付く。
「終わりたい」と強く念じれば、終わることができるのではなかったかとも思ったが、それは「バイブル」の中での記憶だったと思い出す。つまり私の脳が勝手に作り出した情報だ。私の脳内にある記憶の引き出しは、もはや現実と仮想現実の中身がごちゃ混ぜになっていた。それを整理し直そうと考え始めると、胸やけを起こしそうな気分になり、視界が暗くなった。
「じゃあどうやって私はこの世界に戻ってこられたのでしょう?」
「最後に目を十五秒間瞑ったんじゃないですか?」
「ああ」私はベッドの上の光景を思い出す。「確かに眠ろうと思って」
「それですね。おそらく最初に『バイブル』の中で目を瞑ったときは、十五秒経つ前に眠りに就いてしまったのでしょう。そのせいで『バイブル』から抜け出せずに、さらに深い夢の中へ潜り込んでしまったのだと考えられます」
「なるほど」
「あまり長い時間『バイブル』の中にいると脳への悪影響を及ぼすので、途中で注意を受けるはずです。おそらく清水さんの場合はその――」
「マッチョなオネエが」私は権威ある脳科学者に、もうこの陳腐な言葉を吐かせてはならないと思い、慌てて遮る。
しかし、川辺誠氏は「そう、そのマッチョなオネエが注意に来たはずです」と私の心遣いを台無しにした。この権威ある脳科学者はその言葉の響きを気に入っているようにも思える。
確かに最後にレオ姐は私の前に姿を現した。「この世界を終わらせる」とは自殺することではなく、「バイブル」から抜け出すということだったのか。そして、レオ姐が言っていた「この世界を創ったお方」とは川辺誠氏のことだったのだ。
少しずつ謎が解けてきた。
だが私は同時に恐怖も感じていた。川辺誠氏の発言を基に今の私の世界は成り立っている。もし川辺誠氏に「これは『バイブル』の中の世界で、エラーを起こして現実世界に戻れなくなりました」と言われたら、「そうなのか」と信じ込んでしまいそうだった。
そのとき、またもやブライアン・ウィルソンが頭をよぎった。
ブライアン・ウィルソンは七〇年代、酒とドラッグ、過食におぼれ、肥満化していき、精神科医ユージン・ランディの監視下で徹底的に生活を改善させられた。しかし、ビーチ・ボーイズの他のメンバーとの軋轢から、一旦ユージン・ランディは解雇されるものの、再び八十年代にはブライアン・ウィルソンを監視下に置き、体質改善を促していく。結果、一五〇キログラムまで増えていた体重は減少し、ブライアン・ウィルソンはソロアルバムを作れるまでになっていったのだが、そのアルバムにさえもユージン・ランディは口を出した。彼は実際にブライアン・ウィルソンを助けてはいたのだが、たちの悪いことに、薬を多量に投与し、精神的にも自分に依存するように仕向けていた。そのような企みにも気付かず、ブライアン・ウィルソンはユージン・ランディの言うことが正しいと思い込んでいたのだ。一種の洗脳のようにも思える。
九〇年代に入ると、ビーチ・ボーイズのメンバーは、ユージン・ランディがその地位を利用し、ブライアン・ウィルソンをメンバーから引き離して、金づるとして利用していたとして、訴えを起こす。その結果、ビーチ・ボーイズ側が勝訴し、ブライアン・ウィルソンをユージン・ランディから引き離す事に成功した。
私はそのときのブライアン・ウィルソンのような立場にあるのではないかという怖さを感じていた。何が怖いかというと、自分自身がそのことに気付いていないということだ。
私は川辺誠氏の発言を信じていいものかどうか判断しかねていた。
それどころか、この世界を、この宇宙を、この命を、いったい何で判断していいのか分からなくなってしまった。
今私が見ている世界は、本当に現実世界なのだろうか。
五感だけで判断していいものなのだろうか。
「バイブル」を経験したことによって、私の価値観は揺らぎ始めていた。
 十五分ほど川辺誠氏と話をして、ブースからようやく出てきた。腕時計を見ると、まだブースに入ってから四十分しか経っておらず、時差ぼけを起こしたような気持ち悪さを感じる。もちろんスマートフォンの画面も確認したので、時計が壊れているわけではない。壊れているのは私の頭の方だ。過去にタイムスリップしてきたような感覚に陥る。「私は未来からやってきたのだ」と誰かに話を聞いてほしくなった。
 大型ビジョンには「十一位 みずがめ座 予期せぬアクシデントに巻き込まれそう」と表示されていた。懐かしさすら覚える。確かに私は予期せぬアクシデントに巻き込まれた。
 アインシュタインの「現実は単なる幻想にすぎない。非常にしつこいものではあるが」という言葉が脳裏を過ぎる。本当に現実はしつこい。今では心の底からそう思える。
ラッキーアイテムがタンクトップであることを確認し、帰ろうとすると、「十二位 うお座」と表示された。私の記憶では十二位はいて座のはずだったが、よく考えると、それも「バイブル」の中での記憶だった。とりあえず十二位が瑞希のいて座じゃなくてラッキーだったと、前向きに捉える。
 私は一階の書店に入った。夢占いの本のコーナーに行き、分厚い一冊を手に取る。「バイブル」が夢の状態を作り出しているのであれば、そこでの出来事にも夢占いが適用されるはずだ。私は確かな何かを不確かなものの中に見つけ出そうとしていた。
本の中に「チョコレート」の項目を見つけた。そこには「既にお付き合いをしている相手にチョコレートを贈っていたなら、相手との絆が一層深まる事を意味します」と書かれている。もし都合の悪いことが書いてあれば、私は見ないふりをしたに違いない。だが嬉しいことが書いてあったので、丸ごと鵜呑みにする。
 私は書店を出ると、すぐにスマートフォンを取り出し、二か所に電話をかけた。

十五分ほどで庄内に着いた。工場はたくさんあったが、環奈からもらっていたメールの地図を頼りに、すぐ見つけられた。私は車を目の前に停めると、急いで入口に向かう。
そのとき、発砲音が聞こえた。
工場の内部に入る。工場内には昔ここで使われていたと思われる金属加工の機械がいくつもあり、カバーがかかったまま放置されていた。どれもが埃を被っており、その年月の長さを思わせる。工場はL字の形をしていた。私は様々な機械の隙間を抜け、L字の角の部分を右に曲がる。
 そこに広がっていた光景は私の予期せぬものだった。目から入ってきた情報を頭の中で整理するのにかなりの時間を要した。
 十メートル先に、二つの死体が転がっており、一つはアルファードに乗っていた長身の男、もう一つは竜也だった。私はすぐに竜也の下に駆け寄ろうとしたが、そこで両脚が固まる。
そして、私は両手を挙げた。
「これはどういうことだ?」私は自分が置かれている状況を理解できないでいた。
「わたしが訊きたいです」震える声で環奈が言う。二つの死体の真ん中に立っている彼女の手には拳銃が握られていた。その銃口は私に向けられている。「いったいどういうことですか?」
「わからない。俺も今、驚いている」鼓動が速くなる。
「清水さんが竜也に何か指示したんじゃないんですか?」
「何を言ってるんだ? 俺は竜也に言われた通りに、伊丹の空き倉庫に行って、今ここに」
「それも嘘でしょ? 最初からメールの通りにここに来ていれば、竜也はこんな風にならずに済んだんじゃないですか?」環奈は錯乱状態に陥っていた。
「落ち着いて。状況を整理しよう」私は挙げた両手で空気を押すようにして環奈を宥めようとしたが、彼女の耳には届かなかった。
「もう何も信じられない!」環奈が泣き叫び、引鉄を引いた。
 
「久しぶりだな、須磨」工場の古びた灰色の壁の前に長身の男が立っている。
「お前が本当に栗田なのか?」手前には竜也の脚が見えた。
「そうだ」
 私が思った通りだった。今の「そうだ」という台詞は竜也が発したものだ。
 竜也の前世は須磨達郎ではなく、栗田実だったのだ。
「十年前のクリスマスに」竜也が続ける。「俺たちは取引を終え、帰り道で事故を起こした」
 長身の男が目を大きく見開く。
「そのとき自首しようとした俺をお前は殺した。そして俺は奇しくも、そのとき轢かれた男の息子として再びこの世に生まれた。俺は自分の罪から逃げたくて、知らぬ間に記憶を書き換えていたんだ。つまり、俺の前世は須磨達郎で、事故を起こした栗田実に殺されたんだ、と思い込んでいた」
 長身の男は黙ったまま、竜也の話に耳を傾けていた。
「前世の記憶を頼りに、メールを見つけたときも、お前は栗田実の名前で取引をしていたから、何とも思わなかったんだ。お前にとっては栗田の名前の方が都合が良かったんだろ?」
「そうだよ。どの連中も栗田の名前のほうを恐れていたからな。俺が政治的に『栗田実』を引き継いで利用させてもらった。俺は相棒のお前を尊敬していたんだよ。いつも冷酷で、頭が切れて、どんな状況でも正しい判断を下す。誰も殺してなんかいないのに、お前は情報を上手く操作して、噂を一人歩きさせ、誰もが恐れる『栗田実』像を作っていったんだ。だからこそ、お前があの事故を引き起こしたとき、自首しようと言い出したのには呆れたよ。いつの間にそんな腑抜けになっちまったんだって」
「当時は悪事をしでかすことに対して麻痺していた。俺にとってはただのゲームだったんだ。頭を使って、悪い奴らから金を巻き取るゲーム。でも、麻痺するということはつまらないということなんだ。もう俺は飽きていたんだよ」
「馬鹿馬鹿しい。でもそんな頭の切れる奴が、運転中、飴玉を口に入れようとよそ見した瞬間に人を轢き、人生を狂わせるとは哀しいもんだな」
 飴玉? 私は梅田のビッグマン広場で竜也に飴玉を渡した場面を思い出した。
「別に言い訳をするつもりはないが、どんな小さなものでも、大事故の引鉄になり得るってことだ。あとで振り返ってみると、きっかけは些細なことだったというようなことは山ほどある。でも俺はその飴玉のお蔭で正しい記憶を呼び起こすことができたんだよ」
 そうか。あのとき既に竜也は自分が栗田実だったということに気付いていたのか。
「俺はその飴玉をきっかけに起きた事故をきっかけに、お前を殺して、お前の名前を利用しようと思い付いた。たとえ姿を見せなくても、栗田実という名前がちらつくだけで相手は怖気づくからな」
「ふん、それは便利な名前だ」竜也は鼻で笑った。「でも今日、こんな小さな身体だが、俺は栗田実として姿を見せた。俺はけりをつけるためにお前とここにいる」
「そんな身体でどうするつもりだ?」
「まずは外にいるお前の部下たちを伊丹の空き倉庫に向かわせたほうがいい。袴田たちがそこにいる」袴田というのがベン三の苗字なのだろう。だからといって、今更私の脳内でベン三の名前のアップデートはされない。「袴田にはお前たちの情報を全てリークしている。外部との繋がりや取引の情報、交通事故と栗田殺し、メールのパスワードや銀行口座の情報も全てだ。早く奴らを仕留めないと、お前はこの世界ではやっていけなくなるだろうな」
 須磨達郎が眉間に皺を寄せる。「袴田が既にその情報を外部に洩らしている可能性は?」
「あいつは欲深くて慎重な男だ。このチャンスを独り占めしようとしている。洩らしているわけがない」
「そうか」
「そして袴田はお前をつぶそうとしている」
須磨達郎は五秒ほど考え、「まあお前の言う通りにするしかなさそうだな」と言うと、携帯電話を取り出し、部下に指示を出した。
「それでいい」竜也が頷く。
「で、俺にどうしてほしいんだ?」
「自首をしろ」
「そいつは無理な相談だな」須磨達郎の陽気な笑い声が工場内に反響した。「俺がこの世界でやっていけるようにとアドバイスした直後に自首を勧めるなんておかしな話だよ。大体、もうあの事故は時効だろ?」
「そっちは時効でも、俺を殺した罪が残ってる」
「それはばれることはない」
「俺の死体を隠した場所に自信があるのか?」
「そうだ」
「でも俺は知っている」
「何を馬鹿なこと言ってるんだ?」須磨達郎の顔は笑っているが、少しぎこちない。余裕にも翳りが見えた。
「魂がいつどうやって抜けるかを知らないんだろ? お前はまだ死んだことがないからな」竜也は自分の台詞を面白がっているようだ。「俺の死体の場所なら俺が知っている」
「ならばお前を殺すまでだ」
「俺は今日死ぬつもりで来ている。別に怖くはない。ただ」竜也がわざとらしく間を空ける。須磨達郎は眉をひそめた。「もし俺が殺されたら、ある男がお前のことを徹底的に追い詰めるだろう」
「ある男?」
「袴田以外にもう一人、お前のことを話している。その男はなかなかしつこいから、お前はただじゃ済まないだろうな」その男というのは私のことか、と気付く。
竜也は嘘の織り交ぜ方が抜群に上手かった。相手の反応を見ながら、こう来たらこう返すというシミュレーションが頭の中で何パターンもできているようだ。それは前世からの才能なのかもしれないし、もしかすると将棋が強いという父親から受け継いだ遺伝なのかもしれない。
竜也の戦法は、詰将棋のように王手を続けて確実に攻めるというものではなく、相手にここに駒を置くと嫌なことが起こるかもしれないと思わせるポイントをいくつも作ることで、消去法的にじわじわと追い込んでいくものだった。
今の竜也には、まるで敵陣に入って王の動きも手にした竜のような隙のなさと最強の攻撃力があった。
「相変わらずお前は頭が切れるよ、栗田」須磨達郎はお手上げといった素振りを見せた。
 すると竜也が上着のポケットから紙のようなものを取り出し、須磨達郎の足下に手裏剣を投げるように放った。須磨達郎がしゃがみ、それを拾って、顔に近付ける。
「それが今の俺の父親、つまりあの事故の被害者だ」それは竜也の父親の写真のようだ。須磨達郎は無言でその写真を見つめている。「あの事故で脳に障害を抱え、記憶が十分しか持たなくなった。そのせいで、家族は苦しんでいる」
「だから何だ?」
「お前にその苦しみがわかるか?」
須磨達郎の返事はない。
「俺は間近でそれを見てきた。今の法律では、もうその罪を誰も裁くことができない。だからせめて自首して、俺を殺した罪とともに、償いの姿勢を見せてくれ」
「あの事故を起こしたのは栗田、お前だろ」
「だから俺は苦しんでいる。あのとき自首しようとした俺をお前は殺した。そのせいで、今もなお、俺の魂は償いきれない苦しみに囚われ続けているんだ」
「じゃあお前が死んで償えばいいじゃないか」
「分かってる!」竜也が声を荒らげた。「でもあの事故のとき、すぐ助けに向かっていれば、脳の障害はもっと軽いものだったかもしれない。その可能性を思うと、お前の罪も重い。だからせめて俺が死ぬ前に、最後にお前の良心を見せてくれ」
 須磨達郎の顔からは表情が消えていた。
 しばらく沈黙が続く。
 一分ほどして、ようやく須磨達郎が口を開いた。「分かったよ、栗田」
「よかった」
「だが自首はできない」
「何?」
「自首した後の未来に俺は楽しみを見出せないからな」
「じゃあどうするつもりだ?」
「ここで一緒に死のう」須磨達郎は拳銃を取り出し、竜也に向かって放り投げた。そして、須磨達郎自身ももう一丁の拳銃を手にしている。「最後は一緒にクリスマスのクラッカーを盛大に鳴らそうじゃないか」と喚いて、彼は豪快に笑った。
 そのとき、竜也はその拳銃を目の前に投げ捨てた。
 須磨達郎が竜也の行動を訝る。「どうした?」
 直後、竜也はコートのポケットから拳銃を取り出すと、西部劇に出てくるガンマンのようなスピードで須磨達郎の胸を打ち抜いた。そして、彼の下に歩み寄ると、「残念だ」と言い捨て、頭にもう一発、銃弾を撃ち込む。慣れた手つきだった。即座に血が溢れ出し、彼の顔は真っ赤に染められた。
 竜也は手前に戻ってくると、その場にしゃがみ込んだ。視界が持ち上げられ、そこで初めて竜也の表情が見える。いつも通りの無愛想な表情ではあったが、少し力が抜けていて、暗い印象は受けなかった。
そして、ゆっくりと竜也が口を開く。
「お父さん、お母さん。こんな息子に生まれてごめんなさい。本当ならもっと違う形で出会いたかったです。もしも来世があるとしたら、次こそはどんな姿で生まれたとしても、二人の幸せの為に全力を尽くします。そして、お姉ちゃん。こんな僕を心配してくれて、色々動き回ってくれてありがとう。嬉しかったよ」
 私の隣で環奈が大粒の涙を流している。
「そして、先生」急に呼ばれて私は居住まいを正す。「僕のことを信じてくれてありがとう。先生みたいな大人に会えて良かった」
 私は竜也と過ごした短い時間を思い出して、目頭が熱くなるのを感じた。
 すると、また視界が低くなり、竜也の顔が見えなくなった。代わりに須磨達郎の血塗れの顔が見えて、ぎょっとする。
 そして、銃声が聞こえ、竜也の身体が地面に横たわった。
 その直後、画面の中に環奈が走って入ってきたところで、私はビデオカメラの停止ボタンを押した。小型の液晶画面を閉じる。
「これが真実みたいだな」私は環奈にそう告げた。
「そうなんですね」環奈が現実を受け入れるには、まだまだ時間がかかりそうだ。だが彼女は「疑ってしまってごめんなさい」と泣きながらも素直に謝った。
 私は今、環奈の部屋にいる。
 昨日、庄内の廃工場で環奈が持っていた銃から弾は発射されなかった。その銃は須磨達郎が竜也に渡したものだったが、後で警察に聞いたところによると、弾丸の火薬が発火しないように撃針が削られていたようだ。見た目には細工されていることは判らないので、竜也は須磨達郎の性格を考慮した上でその銃を捨てていたということになる。
 私は横たわる竜也の脇に置かれたリュックサックを見つけ、その中のビデオカメラに気付いた。それを取り出すと、停止ボタンを押して録画を中断し、私のコートのポケットに入れた。竜也からのメッセージかもしれないと勘が働いたのだ。そして、警察が駆けつける前に軽自動車の中に持ち帰った。この行動は正しかったと思う。前世の話など、大人がまともに取り合ってくれるはずがないのだ。だが誰も信じないとしても世間は面白がるので、週刊誌記者が食いついて、記事にすべく、深海家を執拗に追いかけるに違いない。ただでさえ悲しみに暮れる深海家をこれ以上追い込むのだけは勘弁してほしい。
私の行動は証拠隠滅罪に問われるものかもしれない。ただ私は自分の中の正義に従ったまでだ。何も後悔はしていない。
今日の午後一時、私はビデオカメラを返すために深海家を訪れていた。玄関で出迎えてくれた環奈は、「見てほしいものがあるんです」と言って、私を招き入れてくれた。両親は通夜の会場で準備をしており、家には環奈一人しかいなかった。
ビデオカメラの中に映像が残っている、と伝えると、環奈は「今すぐ見せてください」と言って、まず私を彼女の部屋に案内した。私もこのときはまだ映像を全部見ていなかったので、早く確認したいと思っていたのだ。
そして、映像を見終わり、環奈の気持ちが落ち着くと、次は父親の部屋に案内された。六畳ほどの部屋の壁はたくさんの写真で埋め尽くされている。家族全員の様々な表情が切り取られており、全ての写真にペンで日付と場所が記されていた。
「これ、見てください」環奈が右の壁の膝の高さのところにある写真を指さす。
「嘘だろ」私は目を疑った。そこには満面の笑みで映る竜也の顔があったのだ。一度も見たことがない表情だった。それは環奈にとってもそうだったらしい。そして日付を見る。「これ、昨日だ」
「そうなんです。昨日の朝、竜也は最後に父親と会話を交わし、この笑顔の写真を撮っていたみたいなんです。もちろん父はそのことを覚えていませんが。遺影にはこの写真を使うことになりました」
 竜也はそのとき何を考えていたのだろう。父親に一度でも笑顔を見せたいと思って笑ったのか、それとも父親との会話で自然に笑ったのか。細い目をさらに細めて、不器用に顔をくしゃっとさせた竜也の笑顔からは、どちらか判断が付かなかった。だが、どちらであっても嬉しいことだと思った。
それはまるで梅雨の時期の晴れ間のような出来事だった。
「ただ父は昨日からずっと『竜也は筋が良い』と繰り返しているんです」
「筋が良い?」私は口にしながらその言葉を咀嚼する。
「はい」
「もしかして」私の頭の中にある思考の豆電球が灯った。「竜也はお父さんと将棋を指していたんじゃないかな」
「将棋?」
「対局の間は会話ができるし、記憶が十分しか持たないとしても、対局相手の竜也とは盤面を通してコミュニケーションを取り続けられる」
「そういうもんなんですか?」将棋を知らない環奈にはあまりピンとこないようだ。
「あくまで俺の想像だけどね。『筋が良い』というのは、将棋の世界でよく使われる言葉なんだ」
「センスがあるということですか?」
「まあ、そんな感じかな」
「血は争えないですね」環奈は嬉しそうに目を細めた。
 私はそのとき中背さんから聞いた話を思い出した。
「栗田実について分かったことがあるんだ」と告げると、環奈は「それはもう知らなくていいです。わたしが知りたかったのは、竜也についてなので」と言って掌をこちらに向けた。
「そうだな」と言って、私は微笑んだ。
 
栗田実はもともと警察官だったようだ。若い時から優秀だった彼は、ある重要な極秘任務を任されることになる。それが反社会組織への潜入だった。完全に悪に成りすまし、内部から騙して、様々な組織を壊滅に追いやったという。しかも彼は武器ではなく、知恵を使ってそれを成し遂げた。血を流さずに、汚れた金を巻き上げ、それを最初は警察組織に渡していたが、そのうち内部の人間に横領されていることを知ると、独断で様々な寄付に充てていたらしい。
そしてあの事故が起きた。
警察も最初は念入りに捜査をしていたが、進めるうちに栗田実が怪しいということに気付き始めた。彼と連絡が取れなくなった時期と重なったからだ。
もし栗田実が事故を起こしたとすると、極秘任務の内容が明るみに出る。警察の責任も大いに問われることになるだろう。横領についても世間にばれるかもしれない。そう悟った警察は捜査から手を引き始めた。警察内部でも彼についての話はタブーになっていたらしい。
中背さんは栗田実の死を嘆き、警察組織への疑念を抱きながらも成す術がなかったのだという。そこでインターネットの掲示板などに書き込みを行って、栗田実という男の存在を大きくし、注目を集めることで、周辺の情報を集めようとしていたようだ。
栗田実がまた人として生まれ変わったのは必然だったのだ。それが分かって安堵の気持ちが沸き起こるのと同時に、竜也が死んでしまったことへの無念さが募った。

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