やはり長蛇の列ができている。
日曜日の午後五時半、家にいるときはいつも国民的大喜利番組を見ている時間帯だが、今日は、というか今日も、梅田のビッグマン広場に来ていた。そして竜也とともに「バイブル」の列に並んでいる。竜也は相変わらずの無表情で、最先端の科学に興奮や興味を示すこともない。ただその細い目の奥に一抹の不安が揺らめいているのを見つけた。その不安を隠すためか、竜也の口は滑らかに動き続けた。輪廻転生によるダライ・ラマの選び方の政治的悪用の話、二〇一一年に発表された「転生に関する詔勅」の話、ダライ・ラマ十四世が「次は金髪の元気な娘になるかもしれない」と答えたという話など、どれも興味深かったのだが、竜也の口数が増えれば増えるほど、落ち着きのなさが伝わってきて、私の胸の中はざわついた。
車の中にいたときは、まだ平気な顔をしていたのに。
「おじさん、僕をどこへ連れて行くつもり?」チョコアイスを食べてご機嫌な竜也が、助手席でわざと声を震わせる。もちろん表情は恐ろしいほど全く怯えていない。
「俺はまだおじさんじゃないだろ」少しだけむきになった。
「おじさんって呼んだ方が誘拐感出るでしょ?」
「妙なところでリアルを追求するなよ」私は呆れながら、仕方なく笑う。そして、「『バイブル』って知ってる?」と尋ねた。
「必読書のこと? 僕の人生のバイブルは『人間失格』だよ」
私は思わず、お前は人間に合格したからまた人間になれたんだろ、とツッコミを入れたくなる。「そのバイブルじゃなくて、今話題の最新VRのことだよ」
「ああ、それならネットニュースで見たことがあるよ。五感で体験するVRでしょ?」
「そう。今からそれを体験しに行く」
「えー、それ梅田でしょ? 僕、人混み嫌いだよ」竜也は急に子どもらしさを前面に押し出してくる。
「これは誘拐だから、竜也に決める権限はないんだよ」
「おじさん、こわーい」竜也がわざとらしく両手で顔を覆う。
 私は「人間失格」に出てくる竹一の「ワザ。ワザ」という台詞を引用して、低い声で呟いた。
「なんだ。先生も読んだことあったんだ」その声色には喜びも落胆も込められていない。ただ事実を認識したというだけだ。「で、なんでその『バイブル』を今から体験しに行くの?」
「さっき竜也が『前世の記憶が脳内の引き出しに入ってる』って言ってただろ。『バイブル』は夢を見ている状態を意図的に作り出して、脳内にある記憶や最新の人工知能を基に、過去や未来を疑似体験できるんだよ。ということは前世の記憶から何か分かることがあるんじゃないかと思って」
「なるほどね」竜也は両脚をぶらぶらさせながら思案し、「まあ、やるだけやってみるよ」と言った。
列に並びながら、ぼんやりと大型ビジョンを見つめる。丁度そのタイミングで「十位 みずがめ座 疲れが溜まる一日」と出てきた。その文字を見て、私はまたどっと疲れてしまう。何故こうも不運な日が続くのか。
そして画面が切り替わり、「ラッキーアイテム 飴」と表示された。私は右手をコートのポケットに突っ込み、飴があと三つあることを確認すると、そのうちの二つを無造作に掴み取り、そのうちの一つを竜也に渡した。
「ありがとう。この飴、懐かしい。昔から大好きなんだよね」竜也は飴を受け取ると、すぐさま袋を開け、口に入れた。その瞬間、竜也は細い目を見開いた。そして、一切口を開かなくなった。
私もそれに倣う。爽やかで優しいパイナップルの味が口の中に滲み出し、気分が少し上向いた。竜也の言う「昔」が小さい頃のことなのか、前世のことなのかは判らないが、須磨達郎一世が生まれたとき、すなわち約四十年前の時点で既にこの飴は世に出回っていた。世代を超えて愛されるというのは本当に凄い。
待っている間、竜也も喋らなくなったので、私はポケットからスマートフォンを取り出し、「栗田実」と検索してみる。すると竜也の言う通り、様々な情報や憶測が錯綜していた。殺してきた人数は百を超える、警察とも繋がっていて捕まることはない、実はハーバード大学を出ている超エリート、実はオカマ、実は様々な寄付やボランティアに参加している、など、もはや都市伝説のように語られており、栗田実のまとめサイトまであった。熱狂的なファンも多いらしい。中には死亡説や目撃証言もあったが、容姿の特徴には一貫性がなく、どれも信憑性に欠けた。
栗田実という男の実像に近付こうと思って調べたのだが、余計に遠ざかったように感じる。覗き込んだ虫眼鏡が映し出したのは虚像ばかりだった。
四十分ほど待ってようやくブースの中に入ることができた。そのとき一番奥のソファの横に勤務中の永井玲奈を見つけたが、私に気が付くと、彼女は眉を少し上げ、軽く会釈をして、気まずそうに目を背けた。
入口付近に立つ別の女性スタッフに誘導され、五つあるソファのうち、竜也は手前から二番目、私は少し遅れて一番奥に座る。
永井玲奈が側に立ち、「昨日はどうも」と囁いた。
「こちらこそ」私も小声で答える。今日は荷物がなかったし、コートを脱ぐのも面倒だったので、来たままの恰好で座っていた。
「上手くいきましたか?」
「上手くはいってない。でも彼との心の距離は近付いてると思う」
「そうですか。でも心の距離が近付くだけでは駄目ですからね。引き続きよろしくお願いします」
「分かってるよ」
 例の如く用紙に個人情報の記入を済ませると、ヘッドセットを装着した。
 外界の音が遮断される。心臓が脈を打つのを感じる。二度目の体験とはいえ、疲れを忘れるほどの高揚感を味わっていた。こんなに早く、また「バイブル」を体験できるとは夢にも思っていなかったのだ。何度もトーストを落としてやろうかとも考えたが、今回はもっと大事なことがあったので、渋々諦めた。
UFOに吸い込まれるような効果音が聴こえ、目の前がぱっと明るくなり、すぐに真っ暗になる。
「清水幸一様 二十五歳 高校教師でお間違いありませんか?」という音声が流れてきた。「正しければ『はい』、間違いが――」途中で途切れ、「かしこまりました」という音声が流れる。すぐに「はい」と強く念じていたのだ。早く次に進め、と気持ちが先走る。
「それでは、清水幸一様。まずは『バイブル』の世界に慣れてもらうためのシミュレーションを行います」という音声とともに、前と同じコッツウォルズのような草原が眼前にぱっと広がった。
「一分間自由に動き回ってみてください」
 私は勢いよく左側へ駆け出した。
左側には蜂蜜色の石でできた家が建ち並び、すぐ側に小川が流れている。私の足はやはりしっかりと大地を踏みしめていた。足の裏で地面の柔らかな力強さを感じ、上半身に爽やかな風を受けながら、一番近い三階建ての家に駆け込む。蜂蜜色の煉瓦で造られた、煙突のある、「格式高い」という言葉がぴったりの家だ。
 今回、私はこの一分間のシミュレーションで試してみたいことがあった。無論、トーストをカーペットに落とす実験ではない。
 家の中に入ると、玄関から真っ直ぐ行ったところに螺旋階段を見つけた。脇目も振らずに直進し、階段を駆け上る。時間が限られているのだ。階段の軋む音や、一階にいた貴婦人の騒ぐ声が聞こえるが、気にしない。もしかすると、ブランチ中の貴婦人が突然の侵入者に驚き、高級なカーペットにトーストを落としてしまったかもしれないが、気にしない。私は二階を通り過ぎ、そのまま三階へと上った。階段から一番近い部屋のドアを開ける。真正面に長方形の大きな窓を見つけ、駆け寄ると、カーテンを乱雑にスライドさせ、窓を両側に開け放つ。
そして窓枠に足をかけ、頭から飛び降りた。落下したと言った方が正確かもしれない。
私はもし「バイブル」の中で死んでしまったらどうなるのだろう、ということを検証してみたかったのだ。
私の肉体は重力を嘲るように宙を舞う。
鳥はいつもこんな風に世界を見ているのだろうか。
こんなに自由を謳歌しているのだろうか。
日頃から感じている疑問、不安、怒り、しがらみ、運命など、私を縛る全てのものから解放されたような気分だった。
ただ、体内では突然の無重力状態にあらゆる臓器が戸惑っている。
血液もいつも通り流れることができない。
そして無意識に頭を守ろうと、身体が一回転してしまう。
まずい。即死でなければ困るのだ。痛いのは死んでもごめんだ。
必死に身体を動かし、手足をばたつかせて、頭部が下に来るように調整する。
目前に石畳の地面が迫る。
危ない。いや、これでいいのだ、と思い直したところで、凄まじい衝撃が全身を襲う。
窓枠に足をかけてからほんの二秒足らずの出来事だった。
視界に火花が散ったように感じた後、突然暗くなったかと思うと、真っ白な世界が広がった。何もない。ただ一面真っ白の空間。一面とは言ったものの、壁や地面があるのかも認識できない。私は寝ているわけでも、立っているわけでもないが、その空間に存在している。特別な浮遊感はないが、何かに触れている安定感もない。
そして、つい先程の落下による痛みは全く感じていない。これが天国なのだろうか。
そのとき、急に視界がぱっと明るくなり、目を閉じた。
ゆっくり目を開けると、そこにはなんとレオ姐が立っていた。
 相変わらず毛皮のコートの内側は、迷彩柄のタンクトップ一枚だ。
私は予期せぬ出現に恐れ戦き、後ずさりした。つもりだったが、身体は全く動かず、レオ姐と私の位置関係にも変化がない。
「アナタ、なんてヒドいことするのお?」やはり低くて、粘っこい口調だ。
「いや、その、実験してみたくなって」
「実験ってなあに? 自殺することが実験なの?」
「いや、『バイブル』の中で死んじゃったらどうなるのかなって」
「『バイブル』って聖書のこと? ならばどーしてそんな考えが出てくるのかしら。自殺するのは加害者と被害者が同じっていうだけで、立派な殺人なんだから。罪よ、罪。人がいつ死ぬかを決めるのは神だけなの。だから殺人は神への冒涜よ」
 一気に捲し立てられた。ピンク色の腫れぼったい唇が必要以上に動いているように見える。燃費の悪い車のような喋り方だ。顔がさっきよりも近付いてきており、かなり不快だが、私は全く動けない。まるで金縛りにあったときのような恐怖を感じた。
「いや、神とかそういうことを言ってるんじゃ――」
「さっきから『いや、いや』ばっかり言って。そんな否定から入る男はイヤんなっちゃうわ」
「いや、だって――」
「ほら、またー。いい? 死ぬなんてバカみたいなことは考えないこと。分かったわね?」
「はい」レオ姐の顔の圧力に押しつぶされそうになりながら答えた。
「以上でシミュレーションを終了します」という機械音声が流れる。一瞬、レオ姐が喋ったのかと思ったが、全く声が違う。ただの無機質な機械音声がやけに爽やかに聞こえた。同時に目の前がぱっと明るくなって、真っ暗になる。レオ姐は姿を消していた。
「『バイブル』の世界はいかがでしたか? 違和感なく楽しめたという方は『はい』、思ったように動けなかった、もしくは『バイブル』を終了したいという方は『いいえ』と強く念じてください」
 私はしばらく固まってしまった。楽しめたが違和感はあったし、思ったように動けなくなって、恐怖も感じていた。しかし、まだ「バイブル」で試してみたいことが残っているので、頭の中で「はい」と強く念じる。
「それではいよいよ『バイブル』の実践編に参りましょう。今日の出来事を思い返してみてください。ある場面を強く思い浮かべると、清水幸一様はその地点に降り立つことができます――」
 
私は「バイブル」のブースに入る前に、一つだけ竜也に助言をしておいた。
「シミュレーションが終わったら、次は実践編で『今日の出来事を思い返してみてください』って言われるから、そこで今日のことじゃなく、前世のことを思い返してみるんだ。そうすると、その場面からの出来事を疑似体験できるはずだから、何か分からなかったことが分かるようになるかもしれない」
「そんなに上手くいくかな?」珍しく竜也が弱気になっている。
「記憶は脳の中にあるんだろ」
「そうだけど」声のボリュームが小さい。
「さてはお前、前世なんて話、全部嘘だったんじゃないのか?」
「そんなわけないでしょ。先生はそんなこと言わない大人だと思ったから、全部正直に話したんだよ」
「そっか、悪かった」
 また竜也を怒らせてしまった。先生に同じことで怒られた生徒のような気持ちになる。
さて、かく言う私は、今日の午後一時前の風景、すなわち取引の行われる空き倉庫の場面を思い浮かべていた。
波型スレートの茶色い錆、半分開いたシャッター、アスファルトの割れ目から生えている雑草、それらの景色が徐々にはっきりとした輪郭を見せてくる。飛行機のエンジン音が徐々に聞こえてきて再び静かになると、強い風が吹き、シャッターがカタカタと音を立てた。
私は既に車を停めている。そのとき竜也が歩いているのを見つけた。窓を開け、「竜也」と声をかける。
 彼は驚く様子も見せず、すっと立ち止まった。「お兄さん、誰?」
そうか、と思い当たる。まだ竜也は私のことを知らないのか。「えっと、君を助けるために未来からやってきたんだ」この発言は今なら正しいように思えた。
「そんなの、今時、小学生でも信じないよ」涼しい顔をして、竜也が言う。
「いや、君は信じないかもしれないけど、今回は本当なんだ」
「今回は?」
「あ、えーっと、違うな」
「大丈夫。僕、お兄さんのこと知ってるよ」
「あ、そうなの?」素っ頓狂な声を上げてしまった。竜也の「バイブル」とネットワーク連携して、その後の記憶も反映されているということだろうか。
「嘘だよ。お兄さん、面白いね」
 単にからかわれただけだった。「先生って絶対に人間一回目だよね」という竜也の声が聞こえてきそうだ。
 突然、竜也が後部座席のドアを開け、急いで飛び乗る。
例の如く、黒いベンツが私たちの脇を通り過ぎ、倉庫の目の前の路肩に停車した。私たちは彼らに怪しまれないように、車内から様子を窺う。
ベンツからは三人の男が降りてきて、倉庫のシャッターに近付くと、身を屈めて、次々と中に入っていった。
そして三分後、反対側から黒いアルファードがやってきて、倉庫の入口より十メートルほど奥の路肩に停車し、またもや三人組が出てきて、倉庫の中へと消えた。
「お兄さんは車で待ってて」
「いや、そういうわけにはいかないんだよ」
「後でちゃんとお兄さんに誘拐されてあげるから」そう言って、後部座席のドアを開けようとする竜也に向かって、「待て!」と語気を荒げる。
バックミラーを覗くと、竜也がきょとんとした顔をしていた。
「まだもう一人いる」私は顎を動かし、奥のアルファードを示した。
「何でわかるの?」
「未来からやってきたからだよ」真顔で答える。
 そのとき、奥のアルファードのスライドドアが開き、黒いロングコートを着た身長一八〇センチメートル以上の男が降りてきた。そして倉庫に向かってくる。
「ほらね」「本当だ」私と竜也は同時に言葉を発した。
 そこで私は思い出したように、コートのポケットに右手を突っ込む。飴はまだたくさん入っていた。得した気分になる。さすが本日のラッキーアイテムだ。一つ取り出し、袋を開け、口に入れる。
 竜也は軽やかな身のこなしで後部座席から助手席に移動すると、リュックサックの中からビデオカメラを取り出し、長身の男にばれないように、リュックサックを盾にしてこっそり撮影していた。左手で小型の液晶画面の角度を調節し、ビデオカメラの右上にあるズームのつまみを指で何度も動かしている。
 長身の男はシャッターに近付くと、腰を大きく曲げ、倉庫の中に入っていった。
「どういうこと?」突然助手席から竜也の声が聞こえる。得体の知れないものに怯えるような、か細く震えた声だった。
「竜也、どうしたんだ?」問い質すが返事はない。
 確かに長身の男は周りを威圧するような空気を醸し出しており、十歳の子どもにとっては恐怖以外の何物でもないかもしれないが、「どういうこと?」という発言が気になった。それに、いつも冷めた目で斜に構えている竜也が、これほどまでに取り乱しているという状況が私の心を一層かき混ぜる。
「何か映っていたのか?」
私が覗こうとすると、竜也は左手で液晶画面を閉じ、ビデオカメラの電源を切って、リュックサックの中に放り込んでしまった。そして、ぼんやりと宙を見つめる。その目はおそらく視界に入るものを何一つ捉えていない。その代わり、竜也の脳内ではあらゆる神経がフル稼働で信号を伝達し、目の前の謎を解き明かそうとしているのだろう。焦りと不安が僅かに寄せられた眉間に表れている。邪魔をしてはいけないと感じ、私はそれ以上何も話しかけなかった。
 すると助手席のドアが開き、無言のまま竜也が車を降りた。そして倉庫とは反対側へ歩いていく。
 私も慌てて車を降り、後を追う。
「おい、何があったんだよ」竜也の背中に言葉をぶつけるが、何の反応も返ってこない。続く言葉を慎重に探しながらも、なかなか見つからず、竜也と私は二メートルほどの間隔を保ったまま二十メートルほど歩いた。
 不穏な沈黙を破ったのは竜也の声だった。
「今日はもう帰るから、誘拐ならまた今度にして」と竜也が前を向いたまま言う。冗談めかしてくれたのがせめてもの救いだった。竜也なりの気遣いかもしれない。だがその声には有無を言わさぬ力強さと疲弊が混じっていたので、「わかった」と答えて、私は車に戻った。
 運転席に座り、ハンドルを右手で力任せに叩く。「ボン」という鈍い音とともに、軽い車体が少しだけ揺れた。そのまま額をハンドルにくっつける。「バイブル」を通して、竜也が彼らの悪事を警察に伝えることが出来たらどうなるかをシミュレーションしようと思っていたのに、私はいったい何をしているのだろう。
「いったい何をしているんだ?」
 強く念じるあまり、心の声が音として聞こえてきた。
 いや、そんなわけがない。
 顔を上げると、バックミラーに男の笑った顔が映り、そこで初めて、後部座席から聞こえてきた音だったということに気付く。
「ひいっ」と反射的に情けない声が漏れた。心臓がきゅっと締め付けられる。まるでサウナを出てすぐ水風呂に入ったときのような感覚だった。
 先程慌てて竜也を追いかけたため、車のロックをかけるのを忘れていたのだ。
「ロックをかけるのを忘れていました」質問の答えにはなっていない。思考の内容がそのまま口から洩れてしまった。
「そっかー。ロックは大事だよー」男は長身ではなく、小太りで、色のついた眼鏡をかけており、顔のパーツはどれも大きく、顔面の上で主張し合っていた。彼はおそらくベンツから降りてきて、三番目に倉庫に入っていった男だ。脳内の記憶の引き出しに入っていた彼の顔写真に「ベン三」と書き込む。「かけ忘れるなんてもってのほかだよねー」ベン三はコメディ映画に出てきてもおかしくないほど表情のバリエーションが豊かだった。ただ見た目には害がないのだが、右手に黒くて物騒なものを持っている。
「そ、そうですよね」
「ロックはいつでもかけておかないとー」
「はい、すみません」迷惑をかけたつもりはないが、とりあえず謝る。
「ビーチ・ボーイズはロックだと思うかい?」
「え?」ベン三の突然の質問に思わず困惑する。私は少し間を置いて、ベン三が音楽のロックとかけているのだということに気付いた。「あ、ロックだと思います! ブライアン・ウィルソンは特にロックです!」
「君、判る奴だねー。そうなんだよ、ロックなんだよ。あれがロックじゃないなんていう馬鹿な奴がこの世にはのさばってるからねー」
「考えられないですね」
「考えられないよー。まー、それは置いといて。ここで君は何をしているんだ?」
「ロックについて語っています」
「殺されたいのかい?」ベン三が右手を揺らす。笑顔が逆に怖い。
「いやいや、すみません」慌てて謝罪する。ここは正直に答えなければならなそうだ。「未来からやってきた女の子にここに来るように言われたんです」
「ふざけてるようだねー」
 しまった。余計に怒らせてしまった。
素直な人間が馬鹿を見る。なんて世知辛い世の中だ、と思ったが、これが「バイブル」の世界だということを思い出す。竜也も帰ってしまったし、もう終わらせてしまおう、と思ったところで重大な事実に気が付いた。
「バイブル」を終わらせる方法が分からない。
 そういう大事なことは先に説明してくれよ、と思うが、もしかすると体験前に書かされた用紙の下の方に、注意事項として説明があったのかもしれない。しっかりと目を通しておくべきだった、と今更後悔してみてももう遅い。あらゆる手を試してみるしかない。
 前回体験したときは、夜、ベッドで目を瞑ったときに機械音声が流れて、終了した。
ということは、眠りに落ちればよいのだろうか?
兎にも角にもやってみるしかない。
私は思い切って目を瞑り、普段眠るときのように頭を空っぽにする。
「聞いてるのかー?」ベン三が足で運転席の背中の部分を蹴ってきた。
 私は驚き、心臓に負担を感じるが、黙ったまま、目を開きそうになるのをぐっと堪える。
「おーい、もしもーし」と遠くの人に呼びかけるようなボリュームで叫びながら、ベン三が運転席のヘッドレストをバンバン叩いている。恐怖と緊張と不規則な振動に私は吐き気を覚えた。まさにバッド・ヴァイブレーションだ。それでもなんとか耐える。しかし、外界からの激しいインプットのせいで頭は冴えてしまい、全く眠れそうにない。
すると、「君、撃っちゃうよー」という声が聞こえ、堅い棒のようなものが頭に触れるのを感じた。
銃口だ。
その瞬間、「黒ひげ危機一髪」でハズレの穴に剣を刺したときのように、私の身体は跳ね上がり、思わず目を開けてしまった。「すみません!」と赦しを乞う。
「ふざけないでくれるかなー?」
「はい、すみません!」
 十五秒近くも目を瞑っていたのに、一向に機械音声は聞こえてこなかった。当然だ。こんな状況で眠れるはずがない。どうすればいいんだ。仮想現実だと判っていても、こんな経験は心臓に悪い。もうこりごりだ。
早く終わってくれ! 
私は頭の中心で叫んだ。
 突然目の前が激しく光って、真っ暗になる。
 撃たれたのだろうか? と思っていると、「『バイブル』実践編はいかがでしたか?」という音声が聞こえてきた。無事に終わったのだ。
「楽しめたという方は『はい』、あまり楽しめなかったという方は『いいえ』と強く念じて――」音声が途中で途切れ、「左様でございますか。更なる技術の向上を目指して、開発者一同精一杯努めて参ります。この度はご利用いただきありがとうございました。以上で『バイブル』実践編を終了いたします。またのご利用をお待ちしております」という無機質な音声が流れてきた。
脱出音のようなものが聞こえ、ノイズキャンセリングがオフになったことを察知する。そしてブースの中の光景が目に映った。永井玲奈がヘッドセットを外してくれたのだ。
「以上で『バイブル』の体験を終了いたします。ご利用ありがとうございました」と彼女が業務上の丁寧なお辞儀をする。
私はソファから立ち上がり、独り言のように「今回は疲れたな」とこぼした。
すると永井玲奈が小さい声で「三十秒ほど前に深海竜也が体験を終え、ブースを出ていきました」と教えてくれた。
「そうか。ありがとう。また連絡するよ」
 彼女が「お願いします」と軽く会釈するのを見届け、私はブースの外に出た。今回も少し気持ちが悪い。普段車酔いすることは全くないが、「バイブル」酔いしやすい体質のようだ。大きく深呼吸を行う。腕時計を見るとまだ午後六時半だった。
 そこで胸がざわつく。ブースの周りをいくら見渡しても、竜也の姿がない。名前を呼んでみるが返事はない。
そのとき、竜也が中央の階段を上り切ろうとしているのが目に入った。私は慌てて、階段を一段飛ばしで上る。二階には阪急電車の改札がある。
竜也は何も言わず、勝手に電車で帰るつもりなのだろうか?
階段を上り切ると、人混みの向こう側、券売機の前に竜也が並んでいるのを見つけた。
「竜也」と呼びかける。気付いているに違いないが振り向く気配はない。私は竜也の元に駆け寄り、「何で勝手に帰ろうとしてるんだよ。車で送るよ」と言った。
「いいよ。一人で帰るから」いつも以上に無愛想な口調だった。
「何でわざわざ電車なんだよ。車で俺が連れてきたんだから、車で俺が連れて帰るよ」
「いいってば」竜也は全く目を合わせようとしない。
「『バイブル』の中で何かあったのか?」
「別に」
「それなら予定通り連れて帰る。こんな時間に子どもを一人で帰すのは心配だ」
「子どもじゃないよ」確かに人間歴は竜也の方が私より長い。
「心配だから」
「『心配』って人のことを思ってるようだけど、本当は先生が不安なだけでしょ。それって先生の心の問題なのに、あたかも僕のことを思って、みたいな言い方しないでよ」
 確かにそうだとも。私が不安なのだ。
先程、「バイブル」の中で竜也を帰してしまったことを私は後悔していた。引き留めて、しっかり話を聞くべきだった。その仮想現実での記憶が、実際の私の不安をより一層大きくしている。
竜也は「バイブル」の中で「何か」を見たに違いない。それは今、竜也の反応を見て、一目瞭然だった。ただそれが何なのかは分からない。はっきりと言えるのは、ここで竜也を一人で帰してしまったらお終いだ、ということだ。私から竜也に連絡を取る術がないし、竜也から電話をかけてくることもないだろう。
この改札が運命の分岐点なのだ。
「ごめん。言い直すよ。俺が不安だから、竜也を誘拐する。寒い夜に車で家まで送り届けるんだから、愉快な誘拐犯だろ?」私はおどけた調子で言った。
「もし僕が断ったら?」
「誘拐だぞ。竜也にその権限はない。別に何も喋らなくていいから。電車に乗ってるつもりで俺の車に乗れ」
「レンタカーでしょ」
「うるさい」
 竜也はようやく観念し、私についてきた。大勢の人が行き交う中で、いい大人と不毛なやり取りをするのは時間とエネルギーの浪費だと気付いたようだ。
 車内では最低限の会話しかしなかった。
竜也の家が私と同じ豊中駅周辺にあるということが判ると、そこからしばらく沈黙が続き、駅が近付くと、「右」、「左」、「真っ直ぐ」という単語が、クエスチョンマークかピリオドを伴って運転席と助手席の間を飛び交うだけだった。
梅田から四十分ほどで竜也の家に着いた。まさか私の家から歩いて十分足らずの距離のところに住んでいたとは。竜也の家は住宅街にひっそりと建つ二階建ての一軒家で、決して大きくはないが、玄関にオレンジ色の灯りがともっており、家族の温もりが感じられた。
助手席のドアが開く。私は車を降りようとする竜也の背中に向かって、「何かあったら電話しろよ」と念を押したが、返事はなく、バタンとドアが後ろ手に閉められた。
 竜也に対する心配、もとい私の不安が解消されることはなかったが、やれるだけのことはやった。これ以上考えても仕方がない。
 右手でコートのポケットを漁る。あと一個しかない飴を取り出し、袋を開け、口の中に放り込んだ。爽やかなパイナップル味が少しだけ酸っぱく感じられた。

翌日、午後十二時三十分、永井玲奈に指示された伊丹の空き倉庫にやってきた。それは大阪国際空港の近くにある工業地域の一角にあり、日曜日の午後のこの時間は人気が全くと言っていいほどなかった。
 その倉庫は、ぱっと見たところ、全六レーンの二十五メートルプールが中にあってもおかしくない、というくらいの大きさだ。壁は灰色の波型スレートでできていたが、長い間雨風に曝され続けてきたであろう歴史が茶色い錆となって現れていた。道路から見た面は、太った将棋の駒のような形をしており、王将の駒でいうところの「将」の文字が書いてあるところに大きなシャッターがあって、半分ほど開いたままになっている。強い風が吹くと、カタカタとシャッターの揺れる音が聞こえてきた。その入口から道路までは一メートルほどしかなく、その僅かな幅のアスファルトの割れ目からは雑草がたくさん生えていた。 
私は車を持っていないので、今日はレンタカーを借りている。普段の移動は電車で事足りてしまうし、駐車場代のことを考えると、車を買うのはまだ早いと考えていた。瑞希と遠出するときなどはレンタカーを借りればよい。そのため、たまにしか運転はしないのだが、特に運転に対する不安はなかった。
ちなみに運転中はいつも眠くならないように飴を舐めている。今日もコートのポケットには、中央に丸い穴の開いているパイナップル味の飴を一掴み忍ばせていた。
今回借りたのは、燃費が良くて小回りの利く軽自動車だ。薄水色の車体は今日の晴れ渡る空と同じような色をしている。
まだ倉庫には誰も来ていなかったので、私は車で辺りをうろつくことにした。倉庫を右手に見て、真っ直ぐ進み、突き当りを右に曲がると、左手には猪名川が流れており、車内からは堤防のせいで見えないが、その向こう側に大阪国際空港がある。車に乗っていても、飛行機の「ゴー」という低くて図太いエンジン音が頻繁に聞こえてきた。
周辺を一回りして戻ってきたところで、少年が一人で歩いているのを見つけた。彼は倉庫に向かっているようだ。
私は車の速度を落とす。
身長約百三十センチメートルのその少年は、よく見ると、写真で見た顔、つまり深海竜也だった。リュックサックを背負っており、見た目はただの小学生と変わらない。ただこの工業地帯を小学生が歩いていると、少し違和感があった。
私は少年を追い越したところで、車を路肩に停める。倉庫を右手に見て、二十メートルほど手前のところだ。エンジンを切ると、窓を開け、「竜也君」と声をかけた。
 彼は驚く様子も見せず、すっと立ち止まる。
「竜也君、こんなところで何してるの?」
「お兄さん、誰?」間髪を入れずに訊ね返された。
「えっと、君を助けるために未来からやってきたんだ」
「そんなの、今時、小学生でも信じないよ」涼しい顔をして、小学生の彼に言われた。
「ごめんごめん。俺は君のお父さんに連れて帰ってくるように頼まれたんだ。だから車に乗って」
「お父さんに? そっか。でも僕を誘拐しても満足できる身代金は期待できないと思うよ」
「いや、誘拐じゃないんだよ」
「それに僕、お父さんいないし」
「あ、そうなの?」私の無計画さが早くも露呈してしまった。
「嘘だよ。お兄さん、面白いね」そう言いながら竜也の顔はちっとも笑っていない。
 そのとき、竜也は後部座席のドアをさっと開け、急いで飛び乗った。
すると、黒いベンツが私たちの脇を通り過ぎ、倉庫の目の前の路肩に停車した。私たちは彼らに怪しまれないように、車内から様子を窺う。
ベンツからは三人の男が降りてきて、倉庫のシャッターに近付くと、身を屈めて、次々と中に入っていく。三番目の色のついた眼鏡をかけた小太りの男は、銀色のアタッシュケースを持っており、彼らはどう見ても怪しい集団だった。
それから三分後、反対側から黒いアルファードがやってきて、倉庫の入口より十メートルほど奥の路肩に停車し、またもや三人組が出てきて、倉庫の中へと消えた。
「お兄さんは車で待ってて」竜也が後部座席のドアを開ける。
「いや、そういうわけにはいかないんだよ」
「後でちゃんとお兄さんに誘拐されてあげるから」そう言うと、竜也は車を降り、忍び足でシャッターに近づいて行った。シャッターの手前側の壁に身を隠し、中をこっそり覗き見ようとしている。その姿からは無邪気な好奇心など一切感じられず、使命感や義務感のようなものが滲み出ていた。
仕方なく私は口の中に飴を放り込み、この運転席から状況を見守ることにする。
 そのとき、奥のアルファードのスライドドアが開き、一人の男が降りてきた。その男は身長が一八〇センチメートル以上あり、黒いロングコートを着ていて、直立しているだけで人を威圧するようなオーラを放っていた。
まずい、倉庫に向かってくる。
私は竜也に危険を知らせるために、慌ててクラクションを鳴らした。長身の男が気付き、こちらをまじまじと見てくる。竜也もこちらに気が付いた。私は右手を大きく動かし、「早く戻れ」というジェスチャーをする。竜也が走って戻ってくる。長身の男もいつの間にか駆け足になっている。この軽自動車から竜也までの距離は二十メートル、長身の男までの距離は三十メートル弱といったところか。竜也はおそらく長身の男の存在に気が付いていない。私はエンジンをかけ、サイドブレーキを下ろし、ギアをドライブに入れ、ハンドルをめいいっぱい右に回し、アクセルを踏み込む。軽自動車が少ない内輪差でぐるっと反対車線に回る。遠心力で身体が左に引っ張られないように歯を食いしばって堪える。ちょうど回り切ったタイミングで竜也がなんとか助手席に飛び乗る。バックミラーを見ると、長身の男がもう手の届きそうな距離まで近付いている。私は竜也がドアを閉め終わるのも待たずに、アクセルを思いっきり踏み込む。バタンとドアの閉まる音がするのと同時に、車は機嫌の悪いミニチュアダックスフントのような唸り声を上げ、一気に加速する。慣性の法則によってシートに後頭部が引き寄せられる。バックミラーを覗くと、倉庫の中にいたはずの六人も全員外に出てきている。車で追ってくる様子はない。
私たちは間一髪で脱出に成功した。
ようやく口の中に忘れられていたパイナップル味が広がる。
「何でクラクション鳴らしたの?」息を切らしながら助手席の竜也が私に問う。
「もう一人別の男が外にいたんだよ」思わず声を荒げた。
「え、そうだったの? 気が付かなかった。ありがとう」
 車は交差点を左に曲がり、豊中方面へ向けてひた走る。
「もう追ってこないのかな?」バッグミラーを何度も確認しながら、竜也に話しかける。
「追ってこないと思うよ。多分どちらも相手が裏切ったと思って、今後の取引について話してるだろうし」
「ならいいけど。でもあれはいったい何だったんだ?」
「覚せい剤の取引だよ」
「覚せい剤?」
「うん」当然でしょ、という表情で竜也が頷く。
「ちょっと待って。そもそも君はなぜあそこで取引が行われることを知っていたんだ?」
 赤信号で停車する。
返事がない。助手席に顔を向けると、竜也の遠くを見つめるような虚ろな表情がそこにあった。沈黙を埋めるように、頭上を飛ぶ飛行機のエンジン音が聞こえてくる。そのとき竜也の口が微かに動いた。声は聞こえなかったが、「メリークリスマス」と呟いているように見えた。
信号が青に変わり、私はブレーキから足を離し、ゆっくりとアクセルを踏む。そして、ようやく竜也が口を開いた。
「お兄さんには結果的に助けてもらっちゃったわけだし、全部話すよ」
 どこかでゆっくり話そうということになり、お腹もすいていたので、豊中にあるファミリーレストランに立ち寄った。一番奥の禁煙席に座る。窓から差し込む光が少し眩しかったが、冷えた身体を温めるのにちょうど良かった。メニューをひととおり眺め、私はかつ丼、竜也はハンバーグ定食を注文した。
「口がお子ちゃまだから」と真顔で言う竜也を見て、思わず噴き出す。
「君は面白いね」
「お兄さんほどではないよ」冗談ではなく本心で言っているようだ。「ところでお兄さんの名前は?」
「あ、言ってなかったっけ? 清水幸一、二十五歳。普段は高校で物理を教えてるよ」最初は名前を言うことすら躊躇していたのに、二人で脱出に成功したという吊り橋効果からか、今となってはすんなりと口からプロフィールが流れ出てしまった。
「先生なんだ。じゃあ先生って呼ぶね」
「何でもいいよ」
「先生は何で僕のことを知ってたの?」
「えっと」私が答えに詰まると、すかさず竜也が「くだらない嘘吐くのはやめてよね」と釘を刺してきた。
「しょうがないな」私は頭の中で事実を組み立てる。全てを正直に小学生相手に喋るわけにはいかない。大人の男女の営みが絡んでくるし、何と言ってもタイムスリップが絡んでくるからだ。ここは瑞希の得意な戦略、つまり事実を上手く組み替えて、嘘を吐かずに真相を隠す方法でいくしかない。「ある女の子に相談されたんだよ。竜也君の将来が危ないって」
「なんだ、そういうことか」竜也はそう言って、目の前にある水を一口飲んだ。
 え? 今ので納得できたの?
 逆にもっと情報を提供しようかとも思ったが、竜也の頭の中では散らばっていたパズルのピースが上手くはまったらしく、それ以上訊ねてくることもなかった。
「じゃあ次は俺が訊くけど、竜也は何であの取引の事を知っていたんだ?」さりげなく君付けをやめて、呼び捨てにしてみた。このあたりで上下関係をはっきりしておかないと見くびられてしまう。
「先生、さりげなく呼び捨てにし始めたね」
「細かいことをいちいち気にするなよ」細かいことを気にしていたのは私の方だ。
「何でもいいんだけどね。あの取引はメールでのやり取りを見てたから知ってたんだよ」
「メール? 何でそんなメールを竜也が見てたんだよ」
「メールのパスワードを知っていたからだよ」
「何で奴らのメールのパスワードを竜也が知ってたんだよ」
「あのパスワードを考えたのは僕だったからだよ」
「何でそのパスワードを竜也が考えたんだよ」
 まるで「あんたがたどこさ」の歌詞のようなスローペースの展開に、私は苛々し始めていた。すると竜也の口から予期せぬ台詞が飛び出した。
「あの集団のボスは昔、僕の相棒だったからだよ」
頭の中で咀嚼しようとするが上手くいかず、しばらくして「どういうこと?」という心の叫びが声帯を震わせ、音になる。
「物理の先生が信じてくれるとは思えないけど、前世で行動を共にしていたのがあの集団のボスだったんだよ」
 頭の中をたくさんのクエスチョンマークが飛び交い、防衛反応としてただ笑うことしかできなかったとき、店員がかつ丼とハンバーグ定食をテーブルに持ってきた。
「いただきまーす」竜也は快活な声を上げ、フォークを右手に持ち、ハンバーグを食べ始めた。話の続きは食後になりそうだ。私も割り箸を割り、かつ丼を食べ始める。だが脳の神経の一つ一つにクエスチョンマークが詰まって邪魔しているのか、ほとんど味を感じない。沢庵のシャキっとした歯ごたえも脳を刺激するには力不足だった。
結局十分足らずで食べ終えてしまい、爪楊枝で歯の隙間をいじりながら竜也が食べ終わるのを待った。
「ご馳走様でした」竜也がフォークを置き、手を合わせる。
 私はクラウチングスタートの姿勢から、号砲の音とともに勢いよく飛び出す短距離選手のように、すかさず「前世ってどういうこと?」と切り出した。
「いきなりだね」
「もう二十分も待ってるんだよ」
「そっか。ごめん」竜也に悪びれている様子はない。
「で、前世って何?」
「前世は前世だよ。現世の前の世界」
「それは分かってるよ」私はなかなか答えの見えない竜也との問答に苛立ちが募り、机の下で貧乏揺すりをする。
「でも前世の逆は後世じゃなくて来世だよね?」竜也が本筋とは関係なさそうな話を始める。
「後世という言葉もちゃんとあるぞ」
「でも一般的には来世という言葉の方がその意味で用いられるでしょ。それは多分さ、『あるかどうか判らないけど来てほしい』っていう思いが込められてると思うんだよね。『来』る『世』と言い切ることで、あると信じたいんだよ、きっと」
なるほど、確かにそうかもしれない、とは思ったが、話している内容と見た目のギャップがありすぎて、どうしても違和感を覚えてしまう。そして、やはり本筋とは関係ない話だった。
「で」私はこの一音を強く言い放ち、少し間を空けて「前世は?」と訊ねた。
「先生、ダライ・ラマって知ってる?」
「ダライ・ラマ?」何故いきなりダライ・ラマの話が出てくるのだろう。貧乏揺すりが激しくなる。このままだと、ハンマードリルのように地面に穴を空けかねない。「チベット仏教の偉い人だろ」と、つい乱暴な口調になってしまった。
「まあ、そんな感じ。チベットの精神的指導者でありながら、政治の指導者でもあるんだけど、ダライ・ラマってどうやって引き継がれていくか知ってる?」
 竜也は大人を試すようにいつでも質問から入る。その態度は大人を不快にさせるが、本人に悪気はなさそうだ。その表情や素振りは妙に落ち着いて大人びているし、口から飛び出す言葉も十歳とは思えないので、私は竜也を子ども扱いするのをやめた。
ダライ・ラマについては聞いたことがあるような気もするが、知ったかぶりをして見当違いなことを言いたくもないので、かぶりを振る。
「ダライ・ラマはその生まれ変わりが引き継いでいくんだよ」と竜也が言う。その後も子どもとは思えない口調で続けた。「チベット仏教では全ての生きとし生けるものは輪廻転生すると考えられてる。一時的に肉体は滅びても、魂は滅びることなく永遠に続くんだ。普通の人は死んでも同じように人間に生まれ変わるとは限らない。現世で人間に生まれていても、行ってきた行為の良し悪しによって、次は昆虫や鳥の形に生まれ変わるかもしれないし」
 いつの間にか貧乏揺すりは収まっていた。「ダライ・ラマは?」
「ダライ・ラマは観音菩薩の化身で、チベットの人たちを救済するために生まれ変わると信じられている」
「そうなんだ」
「だからダライ・ラマが亡くなると大変なんだよ。チベット仏教の理論上、亡くなると四十九日間以内に地上のどこかに転生者として生まれ変わると信じられているんだけど、時と場合によっては二、三年後に生まれ変わるケースもあるんだ」
「どうやって探すんだよ」
「一九三三年にダライ・ラマ十三世が亡くなった後、ダライ・ラマがいない間の国を治める摂政が選ばれて、その人を中心にダライ・ラマ捜索が始まったんだ。埋葬前の十三世の遺体が、安置期間中に顔の向きを北東の向きに変えたとか、聖なる湖の湖面に文字や景色が浮かび上がるのを見たとか、あらゆる占いや神のお告げを基に、おおよその場所を特定し、そこで候補となる子どもの中から見つけたんだよ」
「何で分かったんだ?」
「テーブルの上に並べた様々なものの中から、十三世の遺品を選び当てたんだって。他にも名前を言い当てたりして。色んな情報を総合的に考えて、十三世が亡くなった二年後に生まれたその少年がダライ・ラマ十四世として即位したんだ」
「本当にそうなのかな?」私は生まれ変わりに対しては懐疑的だった。
「少なくともチベットの人たちと僕はそう信じてる」
「そうか」他人の信じるものを否定する気はさらさらない。「それで竜也は何の何世なんだ?」
「僕は多分、須磨達郎二世だ」
 急に知らない日本人の名前が出てきて、意表を突かれた。
「それはいったいどんな偉大な人物なんだよ」
「それはもう周りから一目置かれるほどのろくでなしだよ」
「ろくでなしなら人間には生まれ変われないんじゃないのか?」
「うん、だから僕もびっくりしてる」そう話す竜也の表情に驚きは一切見えない。「何でまた人間になれたのかは解らないけど、生まれ変わったからにはやるべきことがあると思うんだ」
「やるべきこと?」
「うん。栗田実を警察に突き出す。そのために今日僕はあの場所にいたんだ」
「栗田実というのが奴らのボス?」
「そう」竜也が頷く。
「あそこで竜也は何をしようとしてたんだ?」
「証拠を押さえようとしたんだよ」竜也はリュックサックの中から小型のビデオカメラを取り出した。「十歳の子どもが『悪い奴がいるんだ』って話したところで、大人は信じてくれないでしょ? だったら現場を映像に収めようと思って、お年玉と今までの貯金をつぎ込んで、このビデオカメラを買ったんだ」
「それで何か録れたのか?」
「いや、何も。ビデオカメラを出す前にクラクションの音が聞こえたから」
「そうか」一瞬、私があのときクラクションを鳴らしたのは間違いだったのだろうかと自責の念に駆られかけたが、あの行動がなければおそらく私たちは今、このファミレスにいないと思い直す。
竜也がそこで「あ、先生のせいじゃないよ」と言ってくれたので、安心した。「それにあの倉庫に栗田の姿はなかった」竜也はそう言うと肩を落とした。
「そうか。残念だったな」私も竜也に倣って肩を落とす。竜也の前世の話を真に受けたわけではないが、ようやく話が本筋に乗り始めたので、むやみに話の腰を折らずに進めた方がいいと判断していた。「でも何で竜也は自分が生まれ変わりだって判ったんだよ」
「それは」竜也の表情が曇る。もとより晴々とした表情をしていたわけではなかったので、影が濃くなったと言うべきか。「あまりにもデジャヴが多すぎたから」
「デジャヴ?」
「うん。『この光景見たことある』みたいな経験って先生にもあるでしょ?」
「あるよ」確かにあるが、前世の記憶を引き摺っている少年と話す経験はこれが初めてだった。
「僕はしょっちゅうそれなんだ。最初はみんなも同じように感じていると思っていたんだけど、明らかにその頻度が他人と違うってことが判って」
「それで、自分は生まれ変わりだ、と?」
「うん。でもそれってかなりきついんだよ。もう一度人生をやり直すようなもんだから」
「やり直したいっていう人もいるけどね」
「一部分ならいいよ。でも例えば算数で九九を学びなおせって言われてできる?」
「それは確かに辛い。竜也は既に知っていたわけだ」
「うん。正確には知らなかったんだけど、頭の中に入ってたんだ」
「頭の中に入ってた?」
「そう。脳は知ってたんだ。何かを思い出そうとしても思い出せないときってあるでしょ? でもしばらくして思い出せることがある。それは、ちゃんと脳内の引き出しには記憶が入ってるのに、その開け方がわからないってことなんだ。鍵が見つからないというか。で、僕の脳内の引き出しには前世の記憶が入ってたんだよ」
「そしていたるところに鍵が転がってると?」
「うん」
 竜也の話が全て本当だとすると、彼の発言が大人びているのも納得できる。実際に大人の記憶を脳内に宿していたのだ。そして彼の表情にも納得がいく。同じことを繰り返すのが辛いというのは、私も「バイブル」を通して経験していたからだ。
 そういえば、まだ竜也の笑顔を一度も見ていない。
「それで栗田っていう奴との繋がりは」私は話を戻す。「いつ思い出したんだ?」
「ああ。二か月前だよ。学校のパソコンの授業のときに」
「先生が教えてくれたのか?」
「そんなわけないでしょ」竜也はちっとも笑わない。「パソコンの授業もこれまた退屈なんだよ」
「同情するよ」その退屈さは容易に想像できた。
「いつも僕はネットニュースを見たり、何かを調べたりして時間をやり過ごしてたんだ。ダライ・ラマについて調べたのもパソコンの授業のときだよ」
「有意義な授業だ」
「まあね。二か月前も同じようにネットニュースの地域のページを見てたんだけど、そしたら十年前の交通事故の記事が出てきて、その記事にあった写真を見た途端、身体が震え出して止まらなくなった」
「どういうこと?」
「その写真の風景に見覚えがあったんだ。そしたら次々と記憶が溢れてきて」一息吐くと、竜也は少し哀しい顔をして言葉を洩らした。「その車を運転していたのが栗田で、被害に遭ったのが僕のお父さんだったんだ」
「え?」一瞬反応に困る。「竜也はそれを見てたのか?」
「うん。前世でね」つまり須磨達郎一世のときに、ということか。
「それで一世はそのときどうしたんだ?」
「はっきりと覚えてるわけじゃないんだけど、夜中十一時過ぎくらいの人通りのない道路だったと思うんだ。周りには誰もいなくて、横断歩道から二十メートルほど離れたところに僕のお父さん、そのときは赤の他人だけど、深海健二が倒れていた。僕は多分車を降りて助けに行こうと思ったはずなんだけど、栗田と口論になった」
「それがいかがわしい取引の帰り道だったから、とか?」
「先生も勘が良くなってきたね」私は先生に褒められた生徒のような気持ちになる。「そうなんだよ。車には見られたらまずいものがたくさんあった」
「結局助けに行けなかったのか?」
「うん。車の中で取っ組み合いになって、いつの間にか気絶させられてた。そして、気が付いたら現世だったんだ」竜也は「寝て気が付いたら朝だったんだ」というようなトーンで話す。
「でもお父さん、生きててよかったじゃないか」
「そうなんだけど、お父さんは事故の衝撃で脳に障害が残って、今は記憶が十分くらいしか持たないんだ」
「短期記憶障害?」
「うん。僕が生まれたときにはそうだった」
「そうか」
 これ以上、父親について訊くことはできなかった。
私も認知症の祖母と話したことがある。数分前に話したことを再度訊ねられ、答えても同じ反応をされたときは、独特の寂しさを覚えた。父親が最初からそのような状態にあるというのは子どもの心にどう映るのだろう。
「サラリーマンがクリスマスの帰宅途中で事故に遭い、短期記憶障害になったというので、当時地元のニュースでセンセーショナルに取り上げられていたみたいなんだ。でも目撃情報が全くなくて、お父さんも記憶障害で事故のことは思い出せなかったから、犯人は捕まらないまま。そして先月見たネットニュースによると、その事故の時効が成立したらしい」
「危険運転致傷罪の時効は十年なのか」
「そう。だから僕が赦さない」
「一世を殺した罪も残ってるもんな。アホの阿呆は赦しちゃいけない」事故の時効という言葉の響きに引っ張られて、つい口が滑ってしまった。「それでメールを?」と慌てて言葉を繋ぐ。
「ああ、うん。栗田と共同で仕事用にメールアドレスを作っていたことを思い出して、家のパソコンで開いてみたんだ」仕事といっても人様に言えない類のものだろう。
「アドレスとパスワードまで覚えていたのか?」
「それは指が覚えてた」竜也がテーブルの上でタイピングするように両手の八本の指を動かす。固定されたその親指を見たとき、永井玲奈の「清水さんの左手には親指がなくて」という言葉が突然頭の中に流れてきた。私は将来、この少年に親指を切断されてしまうのだろうか。全く信じられない。あり得ない。でもつい右手で親指の付け根を摩ってしまう。
なんとしてもこの少年に正しい道を歩ませなければならない。
「栗田のことについて何か覚えてることはないのか?」
「実ははっきりとは覚えてないんだよね。一緒にやった仕事はいくつか覚えてるんだけど。ネットで調べても、栗田自身については色んな噂が独り歩きしていて、大男っていう噂もあれば、小太りの男だっていう噂もあるし。僕は栗田と一緒に行動していたはずなのに顔が思い出せないんだ。その世界の人間でも栗田の素性はあまり知らないみたい」
「怪しいというか、恐ろしいな。でもそれじゃ見つけても分からないじゃないか」
「見たらきっと分かるよ。頭の中の記憶の引き出しには入ってるはずだから。少なくとも今日倉庫で見た人間の中にはいなかった」
 私は竜也の根拠のない自信に少し不安を覚えた。
「遅れて出てきた奴は大きい男だったぞ」
「あのときは僕、焦って逃げたから見てなかったよ。もしかしたらそいつかもしれないね」
 私は内心ほっとした。竜也があの長身の男と接触しなくてよかったと思った。
 もしかすると、あのとき鳴らしたクラクションで私は未来を変えることができたのではないか。このまま何事も平穏に進んでほしいと願った。
「これからどうするんだ?」
「また次の取引を待つしかないよ。まあ、今日みたいなことがあったから、彼らもかなり警戒してくるとは思うけど」
「気持ちは解るけど、大人として送り出すわけにはいかないよ」私は取ってつけたように高校教師の顔を貼り付ける。
「何でだよ! 先生はそんなことを言わない大人だと思ったから、全部正直に話したんだよ」竜也が声を荒げる。冷静な竜也が初めて怒りの感情を露わにした。
私は先生に怒られた生徒のような気持ちになる。どうしたらいいのだろう。できることなら彼らと竜也を引き合わせたくはない。でも私が竜也の立場だったら、居ても立ってもいられなくなるはずだ。
「じゃあ間をとって、今度彼らと接触するときは俺に連絡してくれ」私はテーブルの横に置いてあったアンケート用紙を一枚取り、電話番号を書いて竜也に渡した。
「そしたらまたレンタカーで駆けつけてくれるの?」
私は痛いところを突かれてどきっとする。「どうしてレンタカーだって分かったんだ?」
「だって『わ』ナンバーだもん」竜也が窓の外に見えるレンタカーのナンバープレートを指さす。小学生でも「わ」ナンバーがレンタカーであるということを知っているのか、と驚いたが、それは前世の記憶かもしれないと自分を納得させた。「しかも『893』って」
 私はそのとき初めて気付いた。「和の『ヤクザ』だ」
「可愛いフォルムなのに案外厳ついね」
「そうだな」日差しを受け、光り輝く薄水色の車体に目を細める。「最強のレンタカーで駆けつけてやるよ」
「保険には入っておいてね」
「お、おう」いったいどんな運転をさせるつもりだ、と言いたくなる。
 前世の記憶など私は考えたこともなかった。デジャヴの経験は何度かあるが、おそらく普通の人間レベルのことだ。必死で前世の記憶の引き出しを探してみるが、全く見当たらない。
 すると私の頭の中を見透かしたかのように、「先生って絶対に人間一回目だよね」と竜也が言った。「現世に慣れてない感が出てる」
「ろくでなし二世が偉そうな口叩くんじゃねえよ」語気を強めてみたが、竜也が怖がる様子は一切ない。「いったい君は何歳児なんだよ」
「一世が多分三十歳くらいだったと思うから、足してアラフォーだよ。四十歳児」
「年上じゃないか」
 私は苦笑するしかない。
「そうだ」そのとき私はあることを閃いた。「面白いところに連れて行ってあげるよ」
「今度こそちゃんとした誘拐?」
「そうだな。面白いところ、小学生ならついてくるだろ?」
「うん。誘拐されてあげるよ」
「じゃあ行こうか」と言って席を立とうとすると、「待って」と竜也が右手で制した。
 やはり誘拐が怖くなったのか?
「チョコアイスが食べたいな。口がお子ちゃまだから」真顔で竜也が言い放つ。彼が言うと、冗談なのか本気なのか区別がつかなかった。

翌朝、私は一人でトーストと昨日の残りのクリームシチューを食べていた。午前十時二十分。遅めの朝食、格好良く言えばブランチというやつだ。テーブルには二本の赤いバラがある。まさしく優雅なひとときだった。
普段なら土日でも朝七時に目が覚めるのだが、昨日は「バイブル」を体験したせいで余程疲れていたのか、ソファでテレビをつけたまま、横になり、気が付くとこの時間になっていた。「脳科学の未来」というタイムリーで面白そうな番組を見ていたはずなのだが、全く内容が思い出せない。さらに言えば、眠りに就いた記憶すらない。それくらい一瞬で眠りに落ちたということだろうか。
瑞希は友人の結婚式が東京であると言って、朝早くから出かけている。そのとき一度声をかけられたような気もするが、記憶が曖昧だ。
「さて本日は阪急梅田駅のビッグマン広場に来ております」
テレビから聞こえてきた女性アナウンサーの声に耳が反応して、目を向ける。
「昨日からこちらにあります、今話題の最新VR『バイブル』の体験ブース。今日も朝から長蛇の列ができております」
関西ローカルの番組で「バイブル」の特集をしていた。ホットな話題だったので、私は食い入るように画面を見つめる。ビッグマン広場は昨日以上の人だかりができていた。
「『バイブル』を体験してみていかがでしたか?」女性アナウンサーが三十代のリュックを背負ったオタクっぽい男性にマイクを向ける。
「いやー、すごかったです! 現実世界との区別がつかないくらいリアルで」
「リアルでしたか?」
「はい、もう、なんていうか、現実そのままでした」
「興奮さめやらぬ、といった様子ですね」
「はい、もう一度並びたいくらいです」
「それだけ楽しかったということですね。ありがとうございました」
 女性アナウンサーは続けて数人にインタビューをした後、ブースの隣に移動した。
「ではここで開発に携わった脳科学者の川辺誠さんにお話を伺ってみましょう」
川辺誠氏の姿が画面に映る。身長はさほど高くなかったが、学者の威厳のようなものが全身から滲み出ており、堂々として見えた。
「川辺さん、『バイブル』は最先端のテクノロジーを結集させたVRだということなのですが、具体的にはどういうものなのでしょうか?」
「『バイブル』は今までのVRとは全く違う、新しい超体感型の仮想現実です」鼻を膨らませながら話す川辺誠氏の表情には、興奮と自信が漲っている。私は「バイブル」をつい昨日体感したばかりだったので、彼の言葉に深く頷くことができた。
「超体感型?」
「はい。今までのVRは視覚と聴覚を基に仮想現実を作り上げていましたが、『バイブル』では脳に直接働きかけることによって、五感全てで仮想現実を体感することができます」
「五感全てで!」女性アナウンサーが大袈裟に驚く。私は「驚くなかれ、本当にそうなのだよ」と画面の向こう側に言いたくなる。
「はい。簡単に言うと、脳のある部位を刺激することで、鮮明な夢を見ている状態を作り上げます」
「ということは、実際に身体を動かすわけではないのですね?」
「その通りです。『バイブル』を体感する人の身体は、実際にはほとんど動きません。寝ている状態に近いですね。でも脳は身体を動かしていると錯覚しますし、意識を保って行動しているように感じます」
「なるほど。では『バイブル』でどのようなことができるのでしょうか?」
「『バイブル』では過去や未来のシミュレーションができます。あのとき怒らずに謝っていたらどうなっていたのだろう、とか、この人と付き合ったらどうなるのだろう、といったシミュレーションをゲーム感覚で楽しむことができます」
「まるでタイムマシンみたいですね」
「そうですね。まあ、あくまでシミュレーションではありますが。ただ最新の人工知能を搭載しているので、多くの人に体験していただくことによって更に進化していき、より正確なシミュレーションができるようになっていきます」
「なるほど。将来的にはどのようなことに役立っていくとお考えでしょうか?」
「将来的には『バイブル』でのシミュレーションを通して、自分に自信がない人や、うつ病の人の手助けが出来ると考えております。また、認知症の人の記憶を手助けすることもできるでしょうし、脳波を検出して機械を操作するブレイン・マシン・インターフェイスの発展にも貢献していきたいですね」
「明るい未来が待っていそうですね。川辺さん、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「以上、阪急梅田駅ビッグマン広場からお届けしました」
 カメラがズームアウトすると、列に並ぶ人たちが思い思いに手を振るのが見えた。
 そのとき、私は慄然とした。
 昨日「バイブル」の中で遭遇したレオ姐が画面に映っていたのだ。大勢の人の列に並んでいるが、見た目が奇抜なだけではなく、身長も高いのでとても目立っていた。そして、今日も毛皮のコートの下に迷彩柄のタンクトップを着ている。レオ姐はカメラに向かってひたすら投げキッスをしていた。
 私は思わずトーストを落としてしまった。しかもそれは、よりによってバターを塗った面を下にしてカーペットの上に落ちた。最悪だ。
 そのとき、マーフィーの法則の一つ、「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」というのを思い出す。うちのカーペットはさほど高いわけではないが、瑞希のお気に入りのものだったので、綺麗にしておかなければならない。慌ててタオルを水で濡らし、カーペットを叩くようにして拭く。
 ちなみに、マーフィーの法則とは、数々のユーモラスで哀愁のある経験則をまとめたものだ。他にも「機械が動かないことを誰かに証明して見せようとすると、動き始める」や、「洗車し始めると雨が降る。雨が降って欲しくて洗車する場合を除いて」というものまである。どれも哀愁たっぷりだ。
実は「落としたトースト」の法則には続きがある。
イギリスのとある物理学者が実験を繰り返し、トーストの転落に関する論文を発表したのだ。彼はその論文の中で、通常のテーブルを使用したとき、落ちたトーストはほとんどの場合、バターを塗った面が下になることを証明し、バターを塗った面を上にして着地させるためには、高さ三メートル以上のテーブルを使うべきだと結論付けた。彼はこの論文で、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられる、ノーベル賞のパロディー、イグノーベル賞を受賞している。
一見すると馬鹿げたことだが、大の大人が真面目に時間を費やして実験したのだ。そしてそれがユーモラスに表彰されている。このようなユーモアは見上げたものだ。私も次に「バイブル」を体験する際は、是非ともたっぷり時間をかけて、何度もトーストを落としてみたい。
カーペットを綺麗に拭き終わったところで、テーブルに置いていたスマートフォンが振動した。右手でスマートフォンを持ち、親指でロックを解除する。左手にはトーストを持っている。メールボックスを開くと、見知らぬアドレスからメールが来ていた。件名には「ご相談があります」と書いてある。どうせまた迷惑メールだろうと思い、読むこともせずに削除しようと、親指を横に動かしかけたところで止めた。ちょうどトーストを食べようと上下から挟み込んだ歯も一時停止する。
本文の最初に「清水幸一様」と書かれているのが目に入ったのだ。
 通常の迷惑メールならば、私の名前など書いてあるはずがない。最近は騙しやすくするために、受信者のメールアドレスが本文中に書かれていることも多いが、名前までは分かるはずがないのだ。
 訝りながらもそのメールを開いてみる。
「清水幸一様 突然のメールで失礼します。私は昨日『バイブル』のスタッフとして清水幸一様を担当いたしました、永井玲奈と申します。少しご相談があるのですが、今夜八時半に梅田でお会いすることはできないでしょうか?」
 ご相談? 一体どういうことだろう。
 メールアドレスを見てみても、会社のものとは思えない、ごく一般的な個人の携帯メールアドレスだ。個人情報の管理はしっかりできているのだろうか、と不安になるが、体験前に書いたあの用紙の細かい注意事項まで私は読んでいない。もしかしたら、そこに小さく「女性スタッフが後日、メールをお送りすることもあります」と書かれていたのかもしれない。
 疑問はいくつも湧いてきたが、私はとりあえず出向くことにした。
 今夜、瑞希は東京に泊まりで、家には帰ってこないので、私は外食しようと思っていたし、不安よりも綺麗な女の子に会える喜びと期待のほうが上回っていたのだ。
どうでもいいことだが、「玲奈」というのは私の好きな名前だった。その偶然に、私は「運命」という都合のいいラベルを貼り、恋人に黙って別の女の子と会う理由の一つとして胸にしまった。
 私はすぐに返信をして、集合場所を決めた。
 豊中駅から午後八時二分発の急行梅田行に乗る。この時間帯の梅田行は空いているため、座席に座ることができた。
 何気なくスマートフォンを取り出し、検索画面に移る。私は今朝インタビューを受けていた、「バイブル」の開発に携わる脳科学者に興味が湧いていた。名前を思い出せないので、「バイブル 脳科学者」と入力する。すると予測変換で「バイブル 脳科学者 川辺誠」と出てきた。それをタップする。すると大学の研究室の情報、過去のインタビュー記事、ネットニュース、論文の情報などが出てきた。ひととおり目を通してみると、それらはどこかで読んだことがあるものばかりだった。
 忘却の崖の上から頼りなくぶら下がる記憶の綱を手繰り寄せるようにして登ると、そこには大学の図書館の風景が広がった。私は木製の椅子に腰かけ、科学雑誌をめくっている。物理学科に所属していた私は、日頃から最新の科学に興味があり、毎週のように図書館に足を運んでいたのだ。
とあるページで手が止まり、視線が文字を舐めまわすように紙面上を移動する。そこには「見ている画像を脳から取り出す」と書かれていた。今思うと、これが川辺氏の研究だったのだ。
脳の活動と、そこを流れる血液の量には関係がある。このことは十九世紀後半に早くも知られていたようだ。頭蓋骨の一部が欠けてしまった患者の脳で、特定の場所の血流の変化をはかってみると、精神状態に応じて変動していたらしい。
そして、一九九〇年代に入り、「fMRI(機能的磁気共鳴画像法)」という技術が開発される。「fMRI」は「MRI」を使って、脳の血流量の変化によって二次的に起きる信号の変化を捉え、脳の活動場所を特定する手法だ。「fMRI」の登場により、思考や感情といった精神活動が、目で見て分かる活動として研究できるようになった。だが実際、脳は生命を維持するための活動を常に行っているし、雑念がない人はいないため、計測した脳活動はノイズだらけになる。その中から意味のある活動だけを統計的に検出しなければならず、また脳の大きさや形は人によってまちまちなので、一般的な結論を導くためには、コンピューター上で補正を行い脳の形を揃えなければならない。なかなか一筋縄ではいかなそうだ。
 そのため「fMRI」を使って、見ている画像と脳活動の間に法則性を見出し、後頭部にある視覚野の活動パターンから画像を再現することに成功したという記事を読んだときは驚愕した。遂に科学はここまで来たのか、と。そして、その記事は「現在、眠っている間の夢の映像を取り出すことに挑戦している」と締めくくられていた。
 それは私が大学一年生のときだったので、今から七年前のことだ。七年経った今、夢の映像を取り出すことができたのかはわからないが、その夢の研究が「バイブル」へと繋がっているに違いない。
 ではいったい「バイブル」はどういう仕組みなのだろう?
 スマートフォンで調べてみるが、どう検索してみても詳しい説明は出てこない。企業秘密ということなのだろうか。気になるところだが、インタビュー記事を読んでみても、数年前のものしかなく、「夢の中身の解読に成功」などと仰々しいタイトルで煽ってはいるが、具体的なことはあまり書かれていなかった。
 そうこうしていると電車はあっという間に梅田駅に到着した。
待ち合わせ時間まであと十五分もあったので、私は一階の書店をうろついた。店の中央あたりにある検索機の前に立ち、画面をタッチして、「夢」と入力してみる。すると「夢をかなえる」、「夢を引き寄せる」といった自己啓発関連の本や、夢占いの本がたくさんヒットした。私は探すのが面倒くさくなり、早めに待ち合わせ場所の書店内にある小さなCDショップに移動した。
そこはあまり品揃えが豊富ではなく、特に私の好きな洋楽に至っては壊滅的だった。私は「B」の列を見て、さすがにビートルズは置いてあるか、と胸を撫で下ろす。そして、その左隣に、ビーチ・ボーイズの「スマイリー・スマイル」を見つけた。
途端に、私の中でこの店の株が急上昇する。
それはもともと一九六七年、名作「ペット・サウンズ」の次に「スマイル」というタイトルで発売される予定だったアルバム制作が、ブライアン・ウィルソンの精神状態の悪化などのために頓挫し、タイトルを変えて制作、発売されたものだ。そのため「スマイル」は「ロック界で最も有名な未発表アルバム」といわれているが、二〇〇四年にブライアン・ウィルソンによって再構築され、ソロアルバムとして三十七年ぶりに発売された。
もちろんそれは素晴らしいアルバムなのだが、当時完成して発表されていたらどうなっていたのだろうといつも考えてしまう。それほど当時のレコーディング技術を考えると画期的なサウンドで、美しい旋律だった。そして、そのような期待を抱かせてしまうほどの音が「スマイリー・スマイル」には詰まっている。
常識や既存の音楽に可能性を閉じ込めることなく、頭の中で鳴っているサウンドを自由にとことん追求したブライアン・ウィルソンは、当時、多くの反発を受けた。ヒットを求めるレコード会社からの重圧、メンバーや最初のマネージャーでもあった父親との軋轢、ドラッグ問題など、当時のブライアン・ウィルソンの心を考えると、いたたまれない気持ちになってしまう。
アインシュタインも言っていた。「偉大なる人々は、常に凡庸な人々からの反発にあってきた。凡人は、従来の先入観に盲目的に従うことを拒否し、勇気を持って正直に自分の意見を表明する人を理解することができない」と。大多数の人が認める常識から外れたものは排除される。何とも世知辛い世の中だ。ビーチ・ボーイズの曲名を借りるならば、素敵じゃないじゃないか。
しかし、そのような状況で生み出された「グッド・ヴァイブレーション」という名曲は、とても複雑な構成だが、軽やかで、ハーモニーがとても美しく、時代を超えて様々な人の心を揺さぶっている。
そのとき、ジーンズの左ポケットの中でスマートフォンが振動した。
見ると永井玲奈からのメールで、「今着きました」という連絡だった。店内を見渡しても見つからなかったので、CDショップを出てみると、入口の横に彼女が立っていた。
「玲奈ちゃん?」驚かせないように、一旦前の方から彼女の視界に入り、声をかけた。
「あ、こんばんは」普段着の彼女はシンプルなモノトーンコーデで、黒い鞄を右手に提げていた。グレーのチェスターコートが可愛さとかっこよさを両立させている。三センチメートルほどの黒いヒールを履いており、隣に立って並ぶと目線が私とほぼ変わらない。化粧の雰囲気も昨日とは違い、とても大人びて見えた。
私は何から話していいのか分からず、とりあえず「今日もすごい賑わいだったみたいだね」と言って、ブースの方を指さす。
「はい。今日は昨日以上に忙しかったです」彼女は今日も午後八時まで、「バイブル」のブースでスタッフとして働いていたのだ。「昨日はありがとうございました」と彼女が頭を下げる。それは働いていたときのようにかしこまったものではなく、もっとカジュアルなものだった。
「いえいえ、すごく楽しかったよ」
「ならよかったです」と彼女が笑みを浮かべる。昨日見たのとは違う種類の笑顔だったので、どぎまぎしてしまった。
「ところで今日は?」どうにか平静を装う。
「あ、突然呼び出してすみません。ちょっとご相談があるんですけど、一緒に来てもらってもいいですか?」
「うん、いいよ」
私たちは書店を出た。すると彼女は脇目も振らず、私の知らない目的地に向かって歩いていく。
 彼女の相談とはいったい何だろう? 
今朝から考えているのだが、全く見当もつかない。そもそも昨日会ったばかりの高校教師に何を相談するというのだろうか。仕事のこと、恋愛のこと、家族のこと。そんなプライベートなことを見知らぬ人に相談するだろうか。それとも親しい人には言えない事情でもあるのだろうか。いや、実は初対面ではなく、私は彼女とどこかで会ったことがあるのかもしれない。そう考え始めると、どこかで見たことがあるような気がしないでもない。
 私の思案をよそに、彼女はぐんぐん進んでいく。私は彼女の斜め後ろをついていった。
 十分ほど歩くと、大通りから一本内側の路地に入り、街の雰囲気ががらりと変わった。怪しげなネオンがいたるところで輝いている。建物に顔があるとするなら、どれもニヤついていて、だらしなく口を開けていた。彼女の表情は後ろからなのであまり見えない。
 ここを抜けると近道なのだろうか、あとどれくらいかかるのだろうか、と思いを巡らせていると、突然彼女が食べられた。正確に言うと、突然彼女が左手にあるラブホテルに入っていった。
 一瞬、戸惑う。だがこれは相談だ。男がラブホテルなんかで狼狽えるんじゃない。
 彼女は慣れた様子で明かりのついたパネルの中から部屋を選ぶと、鍵とレシートを受け取り、階段を上って二階の奥にある部屋のドアを開ける。中に入ると、彼女は靴を脱いでようやくこちらを振り向いた。
「どうぞ」まるで初めて彼氏を部屋に案内するときのようなトーンで、彼女が私を招き入れる。先程までの手際の良さとは裏腹に、少し照れたような表情をしていた。それが妙に色っぽく見えたのは、この部屋の雰囲気のせいだろうか。
手前に黒いソファがあり、奥にダブルベッドがある。部屋の角のさりげない間接照明が大人のムードを演出し、壁に描かれた六角形をずらして重ねたような不思議な幾何学模様が、邪魔な理性を溶かす役割を果たしているようにも思えた。
「すみませんが、仕事で少し汗をかいてしまったので、先にシャワーを浴びさせてもらってもいいですか?」
「あ、うん。いいよ」動揺を隠して答える。
「ありがとうございます」と言うと、彼女はコートを脱いでハンガーにかけた。現れた白のニットは彼女によく似合っていた。私は彼女の胸の作り出す曲線に貼り付いてしまった自分の視線を力尽くで剥がす。全く理性の欠片もあったもんじゃない。
彼女は黒い鞄を持ったまま洗面所に入っていった。
 ここまで来たら、相談のことを考えるのも野暮に思えてくる。彼女の勇気と行動力を私が踏み躙るわけにはいかない。私は彼女の相談に乗ってあげたいという親切心からここに辿り着いたのだ。
瑞希のことなど一瞬も頭を過ぎらなかった、と言えば嘘になるが、この状況も致し方なかったと思えるような言い訳をいくつも羅列し、瑞希ではなく自分自身を丸め込んだ。
でも実際は冷静に考える余裕もないほど鼓動が激しくなっており、感情は高ぶっていた。私の正義感が心の中で声を上げているが、聞こえないふりをする。なるほど、正義感の有無とは、それを持っているか否かということではなく、その声に耳を傾けられるか否かということなのだと悟った。
微かに聞こえるシャワーの音が部屋の静けさを逆に際立たせる。アナログテレビの砂嵐のようなその音は、幾分心を落ち着けた。だがその音の出処に、彼女の美しい裸体を想像してしまい、またそわそわし始めた。
 十五分後、彼女はバスローブ姿で部屋に戻ってきた。その姿に思わずうっとりしてしまう。入れ替わりで私もシャワーを浴びた。
 五分ほどで部屋に戻ると、私たちは濡れた髪のままで抱き合った。
陶器のように白くて張りのある彼女の肌が純粋さを思わせ、より一層私の興奮を強める。絡みついてくる彼女のしなやかな手足に寂しさと強がりを感じ、「守ってあげたい」という思いが私の心の中に巻き起こった。同じ香りのする初対面の裸の肉体は、不器用ながらもぶつかり合い、そして最後にそっと寄り添った。
「相談があるって言うから何事かと思ったのに」ベッドで横になりながら話しかける。
「強引な形ですみません」照れ臭そうに彼女が微笑む。目と鼻の先にその綺麗な顔がある。小さくなった声のボリュームは縮まった二人の距離の証のように思えて、嬉しかった。
「全然構わないよ。相談ならいつでも乗ってあげる」相談を「身体の交渉」と捉えた私は冗談めかして言う。
「あの、相談があるんですけど」
 早速か。いや、新しい相談ではなく、ひょっとすると今日の本題である相談というのはここから始まるのかもしれない。
「どうしたの?」慌てて大人の男の表情を顔に貼り付け、訊ねる。
「わたし、実はまだ高校生なんです」
「え?」思わず心の声が漏れた。「冗談だよね?」と訊くが、彼女はかぶりを振る。
高校生? 全くそんな風には見えなかった。実は清水さんより年上なんです、と言われても頷けてしまうくらい彼女は大人びていた。そして、高校教師が女子高生と関係を持ってしまったという罪悪感が一気に押し寄せてくる。
「黙っててごめんなさい」
「いや、訊かなかった俺も悪いんだけど」動揺のせいか、ずれた返答をしてしまう。
「清水さんにお願いしたいことがあって」彼女は少し間を空けて、「ある男の子を助けてほしいんです」と呟いた。
「男の子?」
「はい。十歳くらいの男の子なんですけど、悪い人たちと関わっているみたいで」
「悪い人?」何が何だか分からない。「そもそも何故それを俺に?」
「それは清水さんのためだからです」
「どういうこと?」
「どこから説明すればいいのか難しいんですが、実は昨日が清水さんとの初対面ではないんですよね」やはりそうなのか。ただどれだけ考えてみても、いつどこで会ったのかを思い出せない。「ちょっと前にというか、後にというか」
「ん?」
 すると、予期せぬ言葉が彼女の口から飛び出した。
「わたし、未来からやってきたんです」
 え? 今度は心の中だけで呟いた。
ワタシ、ミライカラヤッテキタンデス?
 言葉が意味を置き去りにして、音としての情報しか頭に入ってこない。何だ、それ。
私は映画やテレビでしか聞いたことのない台詞に戸惑う。それは「我々は宇宙人だ」という台詞と同じくらい無機質で、現実味がなかったが、彼女の表情は至って真剣だった。
「何を言ってるの?」
「わたし、四十九年後の未来からタイムスリップしてきたんです」
「タイムスリップ?」何を言ってるの? と再び心の中で呟く。からかわれているのかと思うと、あまり気分が良くない。
「今から四十九年後の未来でわたしは清水さんに助けられたんです」未来の話を過去形で話されるのには違和感があったが、とりあえず今は受け流す。「夜道で突然知らない男の人たちに車に乗せられそうになったところを、近所に住んでいた清水さんが助けてくれて」
「未来の俺が?」半笑いになりながら確認する。タイムスリップだなんて馬鹿げている。ただ私の正義感を考慮すると、助けること自体はない話ではないのかもしれない。
「はい。それで後日お礼に伺った際、清水さんが色々お話を聞かせてくれて、そのときに昔、高校の先生をやっていたということを知ったんです」
「それで?」軽くあしらう様に続きを促す。
「ただ四十九年後の清水さんの左手には親指がなくて」「は?」「切断されていたんです」
「何、それ」笑い飛ばそうとするが、過去形で断定されてしまうと、それは抗いようのない未来のように思えてしまい、上手く笑顔が作れない。嘘や冗談の類だとすると全然面白くないし、女子高生が思いつくようなストーリーだとは考え難かった。
「九年前、つまり今から四十年後、深海組の人と揉めて、一方的なけじめとして切断されたとおっしゃっていました」
「フカミグミ?」
「関西で勢力を拡大している暴力団です。とはいっても、今はまだ存在しないのですが」
 暴力団の間で反省や謝罪の意思表示として、指詰めが行われることは聞いたことがあるが、するとしても小指で、親指を詰めるなんて聞いたことがない。そもそも私は将来、暴力団と関わりを持ってしまうのか?
「でも玲奈ちゃんがタイムスリップできるのなら、俺が親指を失う直前に行って忠告してくれたらいいじゃないか」私は彼女の論理の隙を探して突くことにした。
「その頃にはこの世にわたしが生まれてしまっているので、法律上、タイムスリップできないんです」
「同じ世界に同じ人が存在しないようにするために、ってこと?」
「そうです。それに仮にその場は逃れられても、またその後、どこかで深海組にやられる可能性が消えません」
「ならばどうすればいいんだよ」不可解なことだらけで、苛々が募り始めていた。
「諸悪の根源を駆逐するんです。深海組ができるのは今から十四年後で、初代組長の深海竜也は現在十歳なのですが、この頃、悪い大人と関わったことをきっかけに、道を踏み外し始めます。なので、深海竜也を悪の道に走らせないようにしてください」
「そう言われても」私は右手で頭を掻く。「俺が急にタイムスリップしてきたという女の子の話を信じるとでも思ったわけ?」
「信じるか信じないかは清水さんの自由です。でも私の言うことは聞いて頂きます」そう言うと、彼女はベッドの隣の小さなテーブルに置かれていたスマートフォンを手に取り、操作し始める。そして、その画面を私に見せてきた。なんとそこには男女の生々しい営みの映像が映っており、よく見るとそれは私と永井玲奈だった。「これを教育委員会や恋人に見られたくなければ、私の言うことを聞いてください」
 なんと恐ろしい女だ。
大胆かつ狡猾な手段だ。大人の男相手に取引を仕掛けて来るなんて。ただこれは絶対に教育委員会や彼女には見せられない映像だった。大人しく従うしかない。彼女の相談はやがてお願いになり、いつの間にか命令へと形を変えていた。
「わかった。タイムスリップはともあれ、言うことは聞く。でもどうして玲奈ちゃんがそこまでするんだよ」
「わたしを拉致しようとした男たちもおそらく深海組です。深海組はいずれこの街の脅威となります。技術的にタイムスリップできるのは五十年前までなので、これが最後のチャンスかもしれないんです」
「そうか。じゃあ俺は何をすればいい?」私は白旗を上げた。
「深海竜也は明日の午後一時に伊丹にある空き倉庫に現れます。そこで悪い大人と会う前の彼に接触し、清水さんが正しい道へと導いてあげてください」彼女は深海竜也の画像を見せてくれた。その少年は短髪で、目が細くて、鼻は低いが大きく、カメラを向けられたことに腹を立てているような表情をしている。「メールでこの画像送っておきますね」
「よろしく」全然よろしくはないのだが、そんな言葉が口から飛び出した。
彼女の相談、もとい命令は内容がぼんやりとしている。倉庫で何が行われるかもわからないし、正しい道へどうやって導けばいいのかもいまいちよく分からない。
 すると彼女は「わたしは今回、ビザの都合で二週間しかここに滞在できないんです。なので二週間以内に完了してください。そしてこれは未来を変え得ることなので、わたしの存在はくれぐれも極秘でお願いします」と付け加えた。彼女の言う「ここ」というのは、「現在」を指すのだろう。なるほど、タイムスリップするにはビザが必要なのか。そして、未来を変えるには規約があるのか。
私はいつの間にかこの馬鹿げた現実を受け入れ始めている。タイムスリップを信じたわけでもないが、彼女の言うことを百パーセント否定することもできなかった。今の科学でタイムマシンを作ることはできないが、未来のことは誰にもわからない。そう、永井玲奈以外は。
深く息を吸い込んで、吐き出す。新鮮な空気を身体に取り入れたかった。ラブホテルの部屋の空気が新鮮かどうかは如何わしいところだが。
もしも今タイムスリップできるのであれば、今朝の時点に戻り、永井玲奈からのメールを無視したいと思った。でも、もしメールを無視していたら、永井玲奈は私が記入した住所を頼りに家までやってきたかもしれない。もしくは高校を調べて、訪ねてきたかもしれない。
過去に戻って、原因と思われるものを一つ取り除いたところで、結果が変わらないこともあり得るのだ。違うルートを通って、同じゴールに辿り着くかもしれない。それは既に「バイブル」でも経験していたし、永井玲奈も似たようなことを言っている。それでも「あのときこうしていれば」と変えようのない過去に思いを馳せ、儚い夢を抱いてしまうのが人間なのだ。いくらでも変えられる現在を無視して、変えられない過去と向き合う。何とも我儘な生物である。
さらにもう一つ、そんな人間を代表して、私が我儘を言わせてもらうならば、未来のことなど言い当てられたくはない。占いもそうだが、ないとは分かっていても、どこかで意識してしまうものなのだ。
現に昨日は占いを見て赤いバラを買って帰ったし、「明日あなたは交通事故に遭う」と言われれば、何となく車には乗りたくなってしまうだろう。「左手の親指が切断される」と聞いてから、私は無意識にその付け根部分を右手で摩っていた。
「四十九年後の世界はどうなってるんだろう?」私は仰向けになり、白い天井をぼんやり見つめ、独り言のように言葉を紡いだ。
「さらに科学が発展して便利な世界になってますよ」彼女が事実を淡々と述べるように言う。「オプトジェネティクスの発達によって人間の脳は――」
 途中から彼女の声は耳に入らなくなっていた。
「便利じゃなくてもいいから、楽しい世の中になっててほしいなあ」仰向けのまま天井に向かって、いや、その先の未来に向かって呟く。
未来について少しだけ聞いてみたい気もしたが、きっと当たっていても外れていてもがっかりするに違いないのでやめた。
アインシュタインもこう言っている。「私は未来のことなんか考えない。だって未来は、すぐそこに来ているのだから」

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