最近ならNHK「デザインあ」、90年代なら「渋谷系」という音楽ジャンルの代表として当時よく名前が挙がるcorneliusこと小山田圭吾さんが、オリンピック開会式の作曲者としてスポットを浴びたことにより、過去の「イジメ加害」に関する雑誌インタビュー記事が掘り起こされ「適任ではない」と波紋を呼び、小山田さんは7/16に謝罪文を出されました。学生時代にいじめられた経験のある僕はもちろんいじめは思い出したくない程ヤなことだけど、それと同じくらい大きな別の感情を小山田さんには抱えていたので、その行き場のない複雑な感情を整理するには140文字ではとても足りず、久しぶりのブログを綴っています。

僕が青春時代を過ごしたのがまさにその90年代。のどかではあったけど文化的刺激を感じることもなかった地方の町で、上記のような理由で教室では休み時間の方が居心地が悪く、まだ一般的にネットはないという逃げ場のない思春期。そのただ真っ黒い空洞のような時間を埋め、せめて頭の中だけで世界を反転させて劣等感を忘れられる術は、マイナーな世界に自己を重ねることしか当時の僕には思いつきませんでした。その時に出会ったのが小山田さんが在籍していたフリッパーズギターの音楽です。

フリッパーズギターの音楽は、それまで自分がヒットチャートからは聴いたことのなかったネオアコやソフトロック、ギターポップやフレンチポップ、ボサノバやジャズ等、様々な音楽ジャンルを基調としており、MVやファッションも当時の自分からしたら鼻血が出そうなほどお洒落で、歌詞や発言も上品だけど反骨精神や皮肉が効いており、CDジャケットもコンセプトからデザインの斬新さまで徹底されていました(それで僕は後にCDジャケットへの道を目指すことになります)。それはまるで頭の中で思い描いていた華やかな都市・東京と、僕の住んでいる殺風景な地方の町がどこでもドアでつながったような刺激的な感覚でした。その点で音楽用語ではなく街の名前で「渋谷系」と定着したのも頷けます。そんな物知りでお洒落なお兄さんが近所ではなくCD棚に出来た僕は、学校でよしとされていた「外でみんなで」ではなく「部屋でひとり」でもじゅうぶん楽しくできるようになっていました。小山田さんの音楽だけでなく、彼が紹介するそれまで触れたことのなかった音楽や漫画や映画やファッションでかつての真っ黒い空洞は七色に埋め尽くされました。

フリッパーズギター解散後、ソロ・corneliusになったあたりから渋谷系はブームとなり(そもそも地方の町に住んでいる僕に届いている時点でブームだったのでしょう)、テレビで取り上げられたり、そのジャンルのフォロワーが次々現れてはメジャーデビューしていきした。しかし「もっと教えて!もっと教えて!」と物知りお兄さんに願う貪欲な僕に呼応するように、渋谷系が擁する表現やジャンルはどんどん拡張してゆき、その頃には「サブカル(≠サブカルチャー)」と僕の周りでは呼ばれていました。ネットにはじめて触れた時、どのくらいまで過激な写真が載っているのか試したことがないでしょうか? 日々、SNSで炎上を探しに行っている自分にふと気付いたことはないでしょうか? ネットがなかった時代も同じで、その場がCDや雑誌やAM深夜ラジオでした。そしてそれらの知見やモノをどれだけ広く深く知っているか、持っているかこそが一部の人たちのステータスになっていた時代でした。(その空気は雨宮処凛さんの2018年の文章『マガジン9|90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。の巻』で克明に綴られております)それはマイナーや過激なものまでをも含むことをいとわなかった。そんな空気の中で小山田さんの子供時代の行動、青春時代の傍観や示唆する行為を、おもしろおかしく紹介する記事を載せた雑誌(Quck Japan第3号)は、社会問題としてのノンフィクションではなく、確実に露悪性を持って「どや!こんな過激なインタビュー載せれるオレ、かっこいいやろ!もうイジメられる側ちがうで!!」という態度で出されたように少なくとも僕には映っていました。さすがに引いてしまいました。小山田さんの載ってるものは雑誌のどんな小さな切り抜きも集めていたほどでしたが、それはそのまま本屋さんの棚に戻して家に帰りました。その時代背景や雑誌の趣向は知りつつも、あの物知りお兄さんがそんなことに関わっていたなんて、これからどうやって彼の音楽と向き合っていったら良いのだとモヤモヤしました。ヒーローがそれまでの必殺技じゃなく、包丁で戦い出したような生臭い現実が迫ってきたような。その頃テレビアニメとして放送されていた「エヴァンゲリオン」もまさにそうやって戦うシーンがあった。90年代中盤はそんなどこか暴力性までをも含んでパンパンに膨らんだ風船が常に上空にあるような時代に僕個人には感じていました。どこまで大きくなるのだろう。そしていつ割れてしまうのだろうと。

それは一見ソフトな音像だったフリッパーズギターの音楽も同じだったのではないかと感じたのはそれからしばらくした2006年に、1枚目と2枚目のアルバムのリマスター盤が出た頃です。あれから多種多様な音楽を聴くようになった後にあらためて聴いてみると、歌詞カードのクレジットからオリジナルだとばかり思っていたそれらの曲の中に、過去の別作曲家の曲とソックリな曲がぽつぽつ見つかったことがきっかけでした。僕はその頃にはプロのイラストレーターとして駆け出していたので、絵の例にはなりますが「影響」や「オマージュ」、「パロディ」や「コラージュ」や「二次創作」、他ジャンルでも「本歌取り」や「引用」等の違いと必要性は理解しているつもりでしたが、その中でもさすがに度の越えた、洋楽のメロディラインをほぼそのまま持ってきて、その上にオリジナルの日本語詞を載せた替え歌のように聴こえるものもいくつか含まれており、それが引用元明記もない状態でオリジナル曲として扱われていたことに「こ、これ…いいの?再販されたってことはいいんだよね…!?」と戸惑いました。

またラストアルバムである3rd「ヘッド博士の世界塔」は大胆なサンプリング手法を用い、ご自身たちの演奏や、古今東西の名曲たちを再構築するまさにアルバム名の通り博士の実験室のような内容です。(最近だとアヴァランチーズの音楽がそれを更に純度と高揚感を高めたようで圧倒されます)上記のような替え歌に聞こえるものや、「ヘッド博士~」の既存曲のサンプリングは当時、渋谷系という文化の中では「元ネタ」と呼ばれており、みんなが知らない音楽を音楽を通し紹介するDJ的意味合い、再構築するコラージュ的意味合い、また「情報だけ溢れているが何もできない自分たち」という時代の空虚感を表現する芸術的意味合い、みたく捉えられていましたが、それはあくまで作品としての"批評"的目線であり、メロの大部分を模したり、元演奏の印象を決定付けるフレーズを長時間サンプリングすると、アーティストの意図とは別に、元の著作者が問題視すれば、結果的に著作権/著作隣接権に触れてしまいます。

(サンプリングに関しては、海外で91年、ギルバート・オサリバンが自信の曲「ALONE AGAIN」がHIP HOPのバックトラックにサンプリングされていることを無断使用だと裁判になりました。僕は90年代HIP HOPもギルバート・オサリバンも大好きなので、非常に複雑な気持ちでした。また曲の類似に関しては、ラトルズとオアシスの行方などもここでは割愛しますが、ミッフィとキャシーのようなまた違う着地点でしたので調べてみると興味深いです。日本でも00年代に入ると、いくつか問題視されたソックリ曲のクレジットが原曲の作曲者に変更されたり、再版ではサンプリング元がクレジットされたりしてゆきました。「音楽著作権ベーシック講座|第5回"いろんな曲の音をサンプリングをしてオリジナル曲を作ったけど、誰にも許可は取らなくていいの?"」も併せてぜひ)

おそらくその点が、1st、2ndはされたのに、日本のロック/ポップスの歴史においても重要なアルバムだと挙げられるフリッパーズギターのラストアルバム「ヘッド博士の世界塔」のリマスター盤アナウンスは聴こえず、現時点でも絶盤のままである大きな理由ではないかと推測しています。元ネタ文化で作られた楽曲の良さや芸術性、革新性があればあるほど、同時に浸食してしまう「他者の権利」。こと商業においては「守りたい」と「守られたい」という表裏を切り離すことができないように、だからといってスパッと嫌いになってCDを手放すことはできませんでしたが、大好きな物知りお兄さんの本棚、CD棚が、実はレンタルではなく万引きしたものまでポツ…ポツ…ポツと含まれていたような不安が頭の片隅から拭い切れないようになりました。その点で、ただ気付いていなかっただけで、サブカルチャーとして悪趣味・鬼畜にまで交差する前から、一見ソフトな渋谷系の音楽だって、もともと乱暴な側面も内包していたのかもしれないと感じるようになりました。それは「渋谷系はスピリットはパンク」のような話ではなく、「愛しているから拝借したけど、無断なことはどうかバレませんように…!」という後ろめたさより「知ってるかい?こんなことやってやったゼ!」と特定の友人間で自慢するような、記事や原曲に対する共通した態度。そしてそれをまた容認する第3者(僕)のムード。それは教室で行われるいじめの傍観者に似ているとさえ思えてしまった。いじめられた経験を持つ自分なのに、いつの間にか無意識な攻撃性をはらむ、消費という名の傍観する立場になっていたのかもしれないと、青春時に築いた価値観の背骨はグラグラと揺らぎました。「あの頃はそういう時代だったから」と蓋をして済むことなのだろうか、と。

一方、corneliusもその元ネタ・サンプリング文化をフル活用して遊園地化したような3rdアルバム「ファンタズマ」で世界に認められていました(海外で発売するにあたり正式な権利許諾クリアがとても困難だったと後の記事で読みました)。過去の該当インタビューから複雑な想いを抱えながらも、同時に孤独な青春の自尊心を救ってくれたお兄さんの活躍を誇らしくも思っていました。しかしその後のcorneliusは変わりました。2001年に発表された4thアルバム「point」はサンプリングも自然音や生楽器の音を再構築するなどし、顔も覆面を被り、ジャケットやファッションのビジュアル面でも華やかさが抑えられ(華やかな「渋谷系」ではなく日常的な「from 中目黒」と名乗る)、歌詞やインタビューも言葉少なげになってゆきました。ご結婚されてお子さんが産まれたことも影響していたのかもしれません。

ずっと小山田さんの活動を追いかけてきた自分にとっては、この小山田さんの変化は、かつてのザ・モンキーズの遍歴のような、アイドル性からの脱却であると同時に、過去への反省(加害性の自覚と後悔)として僕の目には映りました。あの頃の、知識を競って「どちらが上」で「どちらが下」と決めるような態度の「元ネタ文化」から、アイデアを持って誰でも楽しめるやさしい音楽への変化でした。そんな風に「point」で優しくなった音楽性は、お父さまの存在や死と向き合い、更に愛と日常性を増したような「Sensuous」、再び演奏主体から歌に寄り添い丸みを帯びた「MELLOW WAVES」&「Ripple Waves」、そしてもっと表現のアイデアのみを突き詰め子供でも楽しめるようにした・NHK「デザインあ」へと自然と続いていったように思います。歌詞の言葉もどんどん少なくなってゆきました(あると思ったら坂本慎太郎さん作詞だったり)。それもあって、日本だけでなく海外での評価は高まり、アルバムが出るたびに世界ツアーを行うワールドワイドなアーティストになっていきました。でもその階段をかけあがる度に僕は内心ソワソワしていました。だって小山田さんの表現の変化から読み解く葛藤やのりこえはファン以外のほとんどの人は知る由もない上、単なる僕の思い込みに過ぎないかもしれない。雑誌記事は尻切れトンボのような思い出話として終わっていた気がするけど、いじめ被害者の方との関係性はあの後どうなったのだろうか。もし今後、日本語圏の大舞台に立つ時に、あのインタビュー記事の見出しだけが広まったら、その後に積み重ねる未来をも失わないだろうか。「1日も早く芸術表現ではなく、きちんといまの言葉で現状の説明を出してほしい!」と願うも、そのまま時は経ちオリンピック開会式作曲者の発表、そして辞意へ。

小山田圭吾さんの学生時代の行為や眼差し、またそれを出版社が掲載・発売したことは、その場でいじめにあっていた当事者の方からすると、決してすぐに整理されるようなことではありません(僕も昨日のことのようにズキズキ思い出します)。それは少なくとも謝罪文を出すまでに要した年月の倍以上はかかるだろうし、ずっとかもしれない。今回の文章はあくまで地方の町で暮らしていた当時の僕の目線で、文化の全貌などではありません。擁護の意図もありません。ただ、当該記事の内容や文化の含む乱暴な態度に気付いていながらも、目をつむってファンとして神輿を担ぎ続け、オリンピック作曲者への道へと導いた責任は僕にもあると感じたので、その過程としてご説明させて頂きました。あなたに、ほんとうにごめんなさい。










※足りない部分を加筆、過剰な部分を修正しました。初稿で誤解を与えてしまった方、ごめんなさい。(7/18追記)