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June 27, 2020
「バカラ禅」
中身は緑茶です。
うちにはバカラのグラスが二つあります。もちろん一つは頂き物で、
もう一つは数年前にデパートで奮発して買いました。ウイスキーに凝っていた頃です。
ウイスキーのその味をより深く味わいたいというナルシスティックな思いで買いました。
ただ、普段あまり常用しません。
なぜかと言うと、割るのが怖いのです。
しかも前科があり、これまでに頂き物のバカラを二つ三つ割ってしまっております。
大切にしていなかったわけではなく、
むしろ愛用していました。
そしてウイスキーやワインを味わい、
気分が良くなり酔っ払い、その酔った状態で片付いたあとに洗うのです。
これがいけない。注意力を失っているので手が滑ったりして割るのです。
そういえば以前デパートでワイングラスを買った時に売り場の女性に、
「グラスは使ったその晩にはなるべく洗わないで下さいね。割っちゃうから。」と素敵な笑顔で言われたことがありました。
それこそ後悔先に立たずです。だって憧れのグラスですよ!
また良いガラスだからか素敵な音で割れます。滅びの美音です。
物はいつか必ず壊れたり朽ち果てたりするものですが、そうとわかりつつもなんとも悲しいものです…。 そんなこんなで普段使いはあまりしなくなりました。
ここから急に話が変わりますが、「禅」というのは、いわゆる座禅的なものをイメージしがちです。ですが生活すべてが禅であり修行なのです。
僕はこの世界観が好きです。
実践する哲学です。
食事するにも食材を余すところなく使い、食べるときはお米のひと粒ひと粒を味わいながら。すべてをありがたく大切に行う。
ひとつひとつを雑に行わず、丁寧に始末していく。すると不思議に心身が落ち着いていく。
世俗に汚れた僕には到底無理なことですが…。 その考え方でいくと、くらしの、例えば洗濯も掃除もひとつの禅行であります。
で、その中で特に集中力を試されるのが「洗い物」、
特にグラスなどのガラス食器を洗うときです。近頃は勝手に「洗い禅」と名付けております。 「うすはり」なんでいうすてきなグラスのシリーズがありますが、あれは手強い。力の加減次第でも割れてしまいます。
例えば滑らせて落としたわけでもない、綺麗にするために洗っているのに割れたりします。なんと繊細なデリケートなことでしょう。
しかしそのか弱き、まるで僕のハートのような(なんでや!)工芸品で飲むビールや日本酒がなんとも旨いのです。
そんな儚さが更に味わいを深めてくれる訳です。
これはもはや、「禅」のメンタリズムなのかもしれません。
さあ、その「洗い禅」の最高峰と思われるのが、バカラのグラスです。
僕はこれまでの失敗もあるので、正直この時の集中っぷりたらないです。とにかくビビってます。
手がなんだか震えてくる感じさえします。
呼吸を落ち着かせながら慎重にやります。「焦りは禁物だぞゆうじ…フゥゥ…雑念を捨ててこの重さを感じつつ…フゥゥ…丁寧にやるのだ我が指先よ…フゥゥ…水となり泡となり俺は洗いの化身と化すのだ…!フゥゥ〜!!」 そんな必死の思いで(どんだけ)
洗ったバカラ、この後が実は危険で、水切りに先に置かれた他のグラスとの衝突の恐れが…!!
ここも気を遣いながらそろりと置きます…。 数々の苦難を乗り越え、
その先に至福の一杯が待っているのです。
なんでも高けりゃ良いってものでもありませんし、物の価値は人それぞれ、愛着や思い入れやそのものにまつわるストーリーによって違いますが、
こういうオトナの名品をひとつ持つ事で学べることもあるのです。(なんて大げさな)
自分の身の程を知る機会として。
俺ちっちぇ…。
そんなバカラはなしあるんですか。
凄まじい長文失礼いたしました。
もう次のアルバム分のデモを完成させた中田でした。