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哲学ゾンビの語りえない滞納

試し読みページができました。2話まで読めます。
読むにはニコニコのアカウントが必要です。すみません。
ビッグガンガン本誌には4話まで乗ってます。

2015-10-08_23h35_18


コメントを見てみたら案の定「全然、哲学的じゃない」という感想が。
ホントそのとおりですね。まぎらわしくてすみません。
これは「哲学者の漫画」であって「哲学的な漫画」を目指したものではありません。



ところで、哲学的な漫画とはなんだろう。(宣伝が終わったので丁寧語をやめる)
何を哲学的とするかにもよるけれど。

作品のエッセンスとして哲学的なテーマが含まれているものはたくさんある(らしい)。
また、ストレートに「哲学」を冠した漫画もけっこうある。


後者でいえば、『ねじの人々』(若木民喜)という漫画がある。

ねじの人々

頭からねじが生えてしまった少年。彼は子供の頃から抱えてきたシンプルな「なぜ?」を手探りで考えていく。その手探りのプロセスが全て自前の思考に支えられているところが「まんがでわかる哲学」的なものと一線を画している。



『新釈うああ哲学事典』(須賀原洋行)はオムニバス形式の短編集。

 

著名な哲学者たちの基本的な考えを実験的に再現してみせ、奇妙さを際立たせている。その解釈のひねり方が独特で、単なるカタログ的な紹介で終わっていなくて面白い。結局は作者の哲学を語ってしまうところがむしろ誠実に感じる。



『シュレディンガーの哲学する猫』(原作 竹内薫+竹内さなみ 作画 新崎三幸)は、小説のコミカライズ。



 女子高生のコトハがシュレーディンガーの猫(シュレ猫)にいざなわれ、異空間で哲学者と語りあう。レイチェル・カーソンやサン・テグジュペリといった哲学者ではない人たちも登場する。過去に生きていた人たちの思考が、常に判断と選択を迫られる現役の高校生とリンクすることで生々しく響く。青春マンガとしての比重が大きいので物語として楽しめる。

 

どれも特徴があって面白い。特に『ねじの人々』は連載中だから続きを楽しみにしている。
 

チャリ走の漫画です。
火曜以外も毎日作家さんが描いてますよ。

まとめはこちら





先日公開した放課後の哲学的ゾンビという漫画について、SF作家の山本弘さんがコメントしているのを発見した。



元ネタあったんだ!?(知らなかった)

いや、本当に知らなかったので「元ネタ」という表現は正しくないか。「ネタかぶりがあった」という話のようだ。
「元ネタ」と思われるほど似てるってことなんだろうか。

気になったので図書館で借りてきた。
レイモンド・スマリヤンの『ある不幸な二元論者の話』が収録されている『THE MIND'S』下巻。

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表紙怖っ

電車の中で読んでたら「何かの宗教にハマり込んでしまっている人」にしか見えない。
といっても内容は真面目な哲学書で、いろんな短編小説などを通じて心の哲学について切り込んでいく趣旨のようだ。
スマリヤンも執筆者の一人。


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開いても怖っ

そんなデザインにする必要ある!? 怖いよ!


で、該当の『ある不幸な~…』を読んでみた。わずか3ページ弱のショート・ショートだ。
気になる内容は、うん。たしかに。7割くらいおんなじ話だ。これ。

自殺したいけど迷惑はかけたくない!という男が「意識を殺せる薬」を手にする話であり、オチを除けばだいたい同じような趣旨だ。ネタかぶりである。

でも別に僕はガッカリしなかった。
実はこれは『哲学的ゾンビ』という思考実験から出発すればけっこうな人がたどり着く着想だからだ。そして、僕が描きたかったのはその部分ではなく、もっと別のことだったから。

具体的には「漫画という表現手法を使う」ことが僕にとっては重要だった。だから、小説でカブっても大丈夫。
漫画は複数の「私」を並列的に描けるという特性を持っている。そのことを表現したかったのだ。
『ある不幸な~…』では、オチの部分を地の文で説明していたが、漫画ではその必要はなく、絵で表現できる。絵というよりはコマ割りが意味を与える。
「これはAにとっての『私』視点だ」
「これはBにとっての『私』視点だ」
というのを、違和感なく切り替えて読める。しかも読者は、それを言葉で指示されることなく空気を読んで行える。
小説で「私」の切り替えを並列してやるとムチャクチャになる。

「私は彼女に花束を渡した。私は彼から差し出された花束を床に叩きつけた。私はショックで立ち尽くした。私は彼のもとから去った」

これだと前衛的すぎて訳がわからない。
それに文字だと「自我を失っている」ということを「一人称的に」描くことができない。
漫画だとなぜかそれができてしまう。というか、「本当はできていないのに、その伝えたい意味をなぜか伝えることが出来る」といったほうがいいかもしれない。精神の不思議についてというよりは、漫画表現の不思議についての話なのだ。
残念ながらその意図はほとんど伝わらなかった。もっといい方法探したい。


そういえば冒頭でツイートを引用した山本弘さんは『七パーセントのテンムー』(『シュレディンガーのチョコパフェ』所収)という、哲学的ゾンビを題材にした短編を書いている(作中に出てくるのは正確には「哲学的ゾンビ」の要件は全く満たしていない別物)。これも最近読んで面白がっていたばかりなので、今日のことは驚いた。


tetsuzon_pr

『哲学ゾンビの語りえない滞納』もよろしくお願いします。
 

「あれ、読んだ?」
「あ、まだ読んでないです」
「読みなよ、面白いから。なんなら貸すよ」
「ありがとうございます! 読みます」


その後3ヶ月経っても全く読まなかった。
ということが、よくある。

別に本に限らない。映画でも音楽でもいい。
人におすすめされると、かえってそれに近寄り難くなってしまう。

興味がないからでも、僕がひねくれているからでもないと思う。
「今更村上春樹なんか読めない」みたいなアレではないのだ。
もともと興味のあったものですら、オススメされるとダメだったりする。 

最近、カテゴリ分けの問題ではないかと思い至った。


list001

僕は、タスクを「やらないといけないこと」「やりたいときにやること」の2つに分けている。
上にいくほど優先順位が高いので、「やりたいときにやること」カテゴリでは「○○を読む」が一番だ。

しかしここで誰かと

「○○読みなよ」
「読みます」


というやりとりを交わすと、「○○を読む」は「やらないといけないこと」のカテゴリに移る。


list002

「やらないといけないこと」カテゴリにおいて「○○を読む」の優先順位は最低だ。
差し迫った仕事などに比べれば、明らかに重要度の低い義務だからだ。

そして、休日など暇な時間には「やりたいときにやること」カテゴリの上位から消化してしまう。
こうして「○○を読む」は優先度合いの低い義務としてダラダラと予定帳の底にとどまり、いつまでたっても果たされなくなる。


たぶん、こんな仕組みではないかと思う。
約束することによって逆に果たされなくなる予定はけっこう多いのではないか。

でもオススメの何かがあったら教えて欲しい気持ちは変わらない。教えてもらうこと自体が好きなのだ。
いつか読むし、いつか見るから。
いつか。




 


ストレッチセンターの看板に書いてあった文字。
一瞬、文字と認識できなかった。

ああ、人文字で「ストレッチ」って書いてるのか……
分かりづらっ。

「ッ」は諦めてるし。

こういうちょっとした「凝り」がかえって全体を分かりにくくしてしまう事故はよくあるし、見かけるたびに心温まる。


なぜ二重線で書いたのか。
まさか、3Dのつもりなのか。


googlekeep_thumb


忘れっぽいので、思いついたことはなるべくメモするようにしている。
最近は、GoogleKeepというGoogle製メモアプリのiOS版が出たので使い始めた。

機能はシンプルだが音声入力ができるらしい。
僕はためしに
「区役所のオブジェを見にいく」
とマイクに発音してみた。
(各区の区役所を回って広場にあるオブジェを見に行ったら楽しそう、というアイデア) 

2015-10-02_02h03_30

Googleには頑張って欲しい。
 

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