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気まぐれで卵かけご飯にお茶漬けの素をかけてお湯をそそいで食べたらなかなかうまい。卵かけご飯とお茶漬けの味が交互にやってくる。

不思議なことに同時にはやってこない。「卵かけご飯感」を味わっているときは「お茶漬け感」がなりを潜めていて、逆でも同様。なぜだ。この飯は点滅している。

もうちょっと自分が感受性豊かだったらTwitterで「麻薬」「悪魔の味」みたいなことを言って宣伝していたかもしれない。

実際のところ、ああいうツイバズ飯(と言うらしい)って、どの程度のうまさから激賞してもいいものなんだろう。わりとなんでもかんでも旨い旨いと言ってしまう貧しい舌なので、逆に人にものをすすめるとき困る。



noteもやってます(この日記は有料マガジンの日記を加筆修正したものです)



7/9(月)阿佐ヶ谷LOFT Aのイベントにゲスト出演します。


月収2万円のやつが書いた小説を爆売れさせる方法を考え続ける夜 – LOFT PROJECT SCHEDULE
http://www.loft-prj.co.jp/schedule/lofta/92048



洛田二十日(らくだはつか)さんというひとがキノブックスから『ずっと喪』という短編小説集を出版したので、それの販促イベントだそうです。ちなみに月収2万は「マジ」だそうです。


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洛田二十日さんはもともと過去に私がやってたネットラジオの常連投稿者でした。しかも、この本を出版している「キノブックス」は、私の前作『名称未設定ファイル』を出したところでもある。変な縁があるんです。まだ読んでない人はこの機会に読んでみては。大喜利とか好きな人はきっと気に入るおもしろい短篇集です。ぬか漬けの話が好き。

会場では販促があるので、読んでない人はその場で買ってみたりするとよいかもしれませんね。拙著『名称未設定ファイル』とかも置く予定です。「君は黄色を買うか、青を買うか」みたいな、ポケモンみたいな感じで売ろうと思っています。






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https://note.mu/d_v_osorezan


このブログを始める前に使っていたnoteというサービスをずっとほったらかしていたのですが、ちゃんと運用していくことに決めました。



居酒屋のウーロン茶マガジン(300¥/月)

居酒屋の黒ウーロン茶マガジン(350¥/月)


クレジットカード決済なら初月無料とのこと。


「居酒屋のウーロン茶マガジン」では、居酒屋の割高なウーロン茶と全く同じ値段で週に4本以上の日記を読むことができます。もっと多くなる気もしてます。内容は、自意識の垂れ流しやツイッターでよく書いている屁理屈から文字数制限を取っ払ったようなものになります。次回作どうすんの、とか、こういうネタやろうと思ってるんだけどどう思います? みたいな話もしていきます。

「居酒屋の黒ウーロン茶マガジン」では、「ウーロン茶マガジン」の内容にくわえ、月に1本以上のコラムを追加して読むことができます。まだ書いてないので内容は暫定ですが「月額で人からお金をもらっても嫌われないようにする方法」とか「インターネットは本当に窮屈になったのか」とか「バーフバリの倫理」とか、そういう話をする予定です。「50円の差だったら」と、ウーロン茶より黒ウーロン茶にしちゃうような人向けです。


この基本無料インターネットの時代に直接おぜぜをいただくのはまあまあ勇気がいりましたが、好奇心のほうが勝ってしまったのでしばらくやらせてください。閉じたコミュニティみたいなのに興味が出てきてるのかもしれません。過去に雑誌で掲載したコラムの再掲載も始めるので、課金してなくてもコンテンツ事態は増えると思います。


過度な期待はしないでください。
居屋のウーロン茶


あ、このブログはどうしようか。noteで書いた日記の一部を改稿してみんなに読めるように乗っけてく場にしようかな。

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「やっぱそうですよねー」という話を聞くのが好きだ。

たとえば警備員の人に「勤務中、暇じゃないんですか?」と聞いて
「メチャクチャ暇」と言われた時

やっぱそうですよねー。

と思った。あれって良い。そうだろ、と言って、そうだよ、と返ってくるひねりのなさ。よい。


『ゴッドオブウォー』というテレビゲームのシリーズがある。

ギリシア神話をモチーフとしたアクションゲームで、オリュンポスの神々に騙されて妻と子を殺めてしまったクレイトスという男が鬼神のように暴れるゲームだ。

とにかく暴力的な演出が多く、クレイトスは怪力で扉をこじ開け、宝箱を粉砕し、敵を引きちぎる。オリュンポス十二神を順番に倒していき、最後にはゼウスまでぶち殺す。

最近、それの新作が出た。神への復讐を終えたクレイトスが、今度は北欧神話の世界で戦う。

今回、壮年となったクレイトスに子どもがいる。怒りに駆られ孤独な戦いを強いられていた前シリーズに比べ、守るべきもののある状況が新鮮で、ギクシャクした親子の不器用な会話もいちいち面白い。特によかったシーンがある。

何メートルもある巨大な扉を、いつものようにクレイトスが押し開けているとき、息子が訊ねた。


「父上、それ、重くないの?」


「重いが」


やっぱそうですよねー。

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を読んだ。

読んですぐ思い浮かびそうな「批判」は、「批判と非難は別物なのに、この記事では混同しているのではないか」じゃないだろうか。たとえば、マンガのストーリー展開の無理を理路整然と指摘する批判と、ただ「つまらん」という言葉を投げかける非難は違う。なのに、それらをひっくるめて「批判」という言葉で表現してしまうのは間違っているのではないか……という批判。

この「批判」と「非難」の違いの指摘、ことあるごとに目にする。実際、その差を知らしめるのは大切なことだ。

とはいえ、その言葉を受け止める側にとってみると、そんな差は知ったこっちゃねえよ、である。

だって、どっちも自分のやったことが否定されているのは変わりはない。正当性など関係なく心は傷つきうる。むしろ単純な罵倒、「バカ」とか「くたばれ」とか言われるよりも、自分の落ち度をしらみつぶしに指摘される方が、人の心にはこたえるだろう。

批判と非難の区別は、あくまで議論をする上で心得えておくべき分別だ。メンタル面にとってその差はあまり関係がない。これはよく混同されている気がする。罵倒はともかく「正当な批判」であれば耳を傾けるべき、という考え方はわりと一般的なのではないか。

実際は、正当な批判であっても無視してよい。自分が傷つくのは端的な不幸であり、不幸はそれ自体がよくない未来を招きやすいからだ。だからスルーしてよい。たとえ相手が編集者であっても、原理的にはよい。


リンク先の記事では「批判」に対する概念として「適切なフィードバック」が挙げられている。適切なフィードバックが具体的にどんなものかは無料部分を読んだだけではわからないが(続きを購入すると素晴らしいフィードバックの見本が読めます)、私は「解釈すること」ではないかなあと思う。

ここから先はもうリンク先の記事とはあまり関係がない。

出力されたモノがどんなものなのか読解して表現する。本当はそれだけで(それだけが)適切なフィードバックたりえる。本質的には、他人がした理解を理解できることのみが他人から得られる唯一の恩恵だからだ。人によってはそこに賞賛やダメ出しといった小技が効果的なこともあるだろうが、あくまで応用テクにすぎない。


その背景には、何か作っている人たちはみな、ほぼ例外なく内面で自画自賛や自己批判の嵐にさらされているという事実がある。

マンガや映画の矛盾を指摘するような批判がある。でもたぶん、作り手はだいたいもうわかっている。言われてから「うわ、気づかなかった!」と襟を正すことなんて稀ではないか。作っている方は、1コマや1カットに何時間もかけている。たいていは至らぬ点に気づきつつも、時間的・予算的・能力的リソースに照らし合わせて妥協しているだけだ。

嫌われるからあまり言う人はいないが、賞賛だって同じようなものだろう。気分はよくなるものの、言葉の中に適切なフィードバックが含まれている可能性でいえば批判のそれを下回る。褒めが逆プレッシャーとして働くこともある。

つまり、ほめたりけなしたりといった受け手側の反応は、作り手の気分をいたずらに上下させる以外に創造的作用はほぼない。事実として褒められてやる気が出る人は多いけど、それは適切なフィードバックとはまた別のコミュニケーションなのではないか。解釈することこそが育てるきっかけとしてはより安定してはたらくのではないか。



…みたいなことをよく考えているんですが、人に言ったら「なんで!? めちゃくちゃ褒められたいわ!!!!」と言われました。自分がおかしいのだと思います。


本屋に行ってきたんですが。


壁に「万引きは必ず見られています!」というポスターがあった。


わかりやすい嘘である。すべての万引きが見られているならそもそも深刻な万引き被害など起こり得まい。これはたんなる威嚇的なレトリックにすぎない。

と思うと同時に、

これは新しい宗教なのではないか

と思った。


もしこの書店がキリスト教国家にあったら

「万引きは<神に>必ず見られています!」

 という表現になっていたかもしれない。

そうでなくて、このポスターで「見ている」のは神でなくて、きっと、書店員、である。
書店員は神ではないから、普通に考えれば万引きだって見逃す。

だが

そこを、あえて

「万引きは必ず見られています!」

と、言い切る。
それが万引きである限り、書店員は絶対にそれを見ているのだ、という宣言。

「見られたら通報されるなら、見られていなければ盗もう」

という万引き犯サイドの逆転の発想に

「盗むならば、それは見られている!」

と、あえて無根拠に言い切る、さらなる逆転の発想。


ここにひとつの宗教が生まれたのだ。


書店員=神 の成立である。

書店神。


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