お知らせ

自分のような職種の人間がSNSに参加して言葉を発信したり、活動の告知をしたりするのは今の時代とくに珍しいことでもないし、むしろそうあるべきだというような空気の流れを感じることもある。実際、不特定多数の人が集まる大きなコミュニティに参加することで見えてくるものが沢山あり、様々な観点から見てもメリットは多い。ちゃんとしたリテラシーを持ち、自分自身でコントロールできればの話だけど。

ボタンひとつで色々なことができてしまうひみつ道具を手にした上で、それを自分の意思でコントロールするのはなかなか難しいことだと思う(のび太がそうであったように)。自分は幼少期からインターネットで遊んできた人間なので、インターネット上で誰かが自分自身をコントロールできずに事故を巻き起こすのを何度も目撃してきた。些細なきっかけで人を深く傷つけたり、ちょっとした好奇心で社会的に身を滅ぼしたり。そういう先人たちの墓標を戒めとしてネットリテラシーを高めてきたわけだけども、情報の流通が容易になっていくにつれて、われわれの砂場も結構目まぐるしく変わってきているらしく、近年その速度はとかく上がっていく一方で、新しいテクノロジーや法則が矢継ぎ早に現れては消える現状に合わせて自らを変容させていかなくてはならず、それはなかなか難しい。発言はリツイートやお気に入りといった数値に変換されて、イコール戦闘力!みたいなドラゴンボール的な価値観とも付き合っていかねばならず、そういうのはなかなか面倒臭い。SNSに参加することで見えてくることが沢山あると前述したが、言い換えるとそれは、参加しなければ目に見えない存在になってしまうということでもある(大きなコミュニティであればあるほど)。言わいでええことを言ってしまったり、見んでええものを見てしまったり、ひたすらそしてむちゃくちゃ面倒臭い光景を目の当たりにして、そういうもんだよな、なんて具合に俯瞰から見過ごせる日ばかりではないのは確かです。

SNSやめようかなあ、なんてのは昨日今日初めて思ったことではない。色々面倒臭い思いも沢山してきたので、ここら辺で少しやめておこう、と距離を置くくらいのコントロールはできるようになったが、それでも依然として面倒なのは変わらない。ただまあ、そういう面倒臭さを引き受けて生きなければ、どんどん精神的に貧しくなっていってしまうのではないかと危惧している部分もあるので、のらりくらり続けてはいる。今日はちょっと遠回りして歩いて帰ろうとか、わざわざ今の時代にレコードで音楽を聴いてみようとか、そういう非生産性に少なからず何らかの豊かさが宿っているはず。面倒なものごとは沢山あるけれど、SNSで楽しい思いをしているのも事実で、そこで初めて出会った善良でかわいい人たちが沢山いることを思い返せば、面倒に目をつむり、あるいは面倒も含めて楽しめるように自らを作り変えていく方がいい。
(生産的・非生産的という視点でSNSのことを話すと、「ネット上でのコミュニケーションなんて生産性だけを追い求めたもの」みたいな意見も出てくるだろうけど、わたしらみたいな人間にとって、SNSはとっくにある種のリアルであって、喫茶店でコーヒーを飲みながら管を巻くのとさして変わらないことだ。ネットの奥の彼岸に救われてきた身としては、面と向かってのコミュニケーションこそが至上という考え方には違和感がある)

情報の氾濫とともに世の中はどんどん変容していき、新しくてなんだかすごいものが僕らの頭の上をビュンビュン追い越していく。既存の手法だけではどうやら対応しきれないことが判明し始めている中で、それに合わせてあたふたしながらも自らを作り変えていく行為は、一見するととても受動的で、無個性で平凡な響きがするかもしれないけれど、「個性的な何か」をわざわざ設定し、壁を作り、その範囲内だけで生活を行おうとすることのほうがよほど受動的な行為だと思う。ある場面ではそれは「芯が通っている」とか「尖っている」とか表現されることもあるけれど、本当にそうなのだろうか?と少し疑問に思う。

いつの間にかポケットに自分のものではないライターやCDやアイフォンの充電器が入ってることがたまにあって、恐らく前日の夜に酔っ払った弾みで誰かからもらったものであるのは間違いないんだけど記憶にないので困ることがある。酩酊が過ぎて気がついたら築地市場のマグロと一緒に寝てましたなんて経験は自分にはないけれど、こうやって地味に思い出せない昨日の残滓が形として残ってしまうと、はたして自分は無事に夜を越えられたのだろうかと不安になることもある。忘れてしまいたいことほど強く憶えているのは自分の性癖なのか、人間そのものの基本装備なのかは知らない。傷つきまくって針飛びするレコードみたいに不自然になかったことにされたその記憶は、残ってないくらいなんだから楽しかった記憶なんだろうなと思う。落ち込んだり怒ったりしたときの気持ちは音楽にしてしまったらいい。確かにそう思いながら十数年音楽を作ってきたはいいが、今作っているもの、作らなければならないものと自分のバイオリズムとの整合性の取り方。未だにこれはあんまりよくわからんままだ。ということで右往左往しながら今これを書いている。

「大人になりたい」と願うのは子供の専売特許で、大人にはひっくり返っても出せないもので、そういうものは美しい。願えば願うほど、背伸びすればするほど、どこか可愛らしく滑稽な自分が浮き彫りになってしまうことに当人は気がつかない。気がつかないからこそ大人になりたいと願うのであって、およそ大人と子供の境界線があるとするなら、無知という青春を失った瞬間に大人になってしまうのかもしれんですね。そういう類はどうしても不可逆なもので、一度失えば二度と手に入らないので仕方がない。あるいは絵や音楽や言葉で何かを表現するというのは、形骸化してしまったあのころの背伸びをホルマリンに漬けて保管しておく行為なのかもしれない。自分はどうだろう。考えるのをやめる。

楽しい瞬間に楽しい人間の写真をバンバンとる人たちのことをどこか理解できない部分が昔はあったけど、彼らは青春に対して真摯に向き合い、また深く理解しているからこそ自分たちの刹那的な一分一秒を残そうとしているんだと最近気づきました。今年はそういうことをどんどんやってってもええかもしれん。ライター、CD、充電器。

年内の作業がひと段落してふーっと息を吐く。年始に必要なあれこれをとりあえず存在しないことにしていまこれを書いている。今年はどんな年だったか、ぱっと振り返ってみるだけでいくつかポロポロと楽しかった記憶がこぼれることに対して、ありがてえとジジイみたいに思う。自分の人生のタイムラインを振り返った時に、真っ白または真っ黒の期間がいくつか存在する。この期間は何をなされていたんですかと面接官に尋ねられたら、およそ社会的な人間の機能を停止させておりましたと答えるしかないような、ざんない記憶でいっぱいな期間。ジジイみたいな安堵も漏れるってもんです。息を吸ったり吐いたりして、ビードロみたいにベコベコ小気味のいい音を出してるうちに、それなりの充足感と一緒に一年が終わりました。来年は酉年らしい。

子供の頃は自分の様子が他人と違うことをすごく気にしていて、時に恐ろしいなとまで思っていたので、常に周りのことを観察して人間とは、、、とか社会とは、、、とかしゃらくせえことばかり考えていたけれど、結局そんなことしても無色透明な自分ばっかり残るだけでむなしいものでした。とはいえそこで死ぬほど観察してわかったこともいくつかあって、お互いがお互いの喋ってることをほとんど理解してないこと、なんかキメてるのかってくらい自分のことを信用してること、知覚している世界から一歩も外に出ようとしないこと。主語は「みんな」だと思う。人間てやっぱり社会的な動物なわけよ。落伍者である自分と社会とで折り合いをつけなければならない中で、あいつらはアホだとか、自分が賢いんだとか、そういう厭世と中二だけじゃ飯は食えなくて、つまり自分自身とバチバチに戦う必要があって、ニヤニヤしながらなんとか生きて来た自分はまあまあ嫌いじゃない。

猥雑であやふやな物事にも名前をつけてしまえばチョロいもんで、忘年会やら花見やら名前をつけて可視化させることによって名分を立ててしまえば酩酊も許される。許されてないと声も出せません。オトンオカンに友達に恋人に環境に生活に社会に小さく小さく許されながら積み重なってできた自分をまた許してやりたいと思う。こんどあったらお酒を飲みましょう。

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