突発的に開かれた飲み会を終え、帰りの扉を開けると、朝の日差しと一緒に煙たいくらいに冷えた空気が鼻の奥を刺す。店に着いた真夜中の頃とは明らかにルールが変わってしまった街をフラフラ歩きながら、猥雑に流れるBGMから逃げるようにして帰る。なんとなく夏のジリジリした湿っぽい感じが恋しくなって、夏っぽい曲を聴きながら何か半年後の予定でも立てようかとあれこれ思案していく。そのうちに、いつか誰かに言われた「お前は病的に計画を立てるのが下手だ」という言葉にぶち当たり、今度はそこを直さなきゃなと、自分のことの癖に人事のような、プロトタイプのモビルスーツを扱う整備士みたいなことを思う。楽しいことがしたいね。

リビングの明かりを点けたら、バチっと大きな音を立てて、最後に一瞬の閃光を残したまま二度と灯らなくなった。何かが死ぬ瞬間っていうのは得てしてこういうもんなのだろうと勝手に納得する。去年の暮れから人の死をずっと見つめ直していたから尚更だ(Lemonはいい曲になった)。人生が続いていくにあたり、そりゃあみんな当たり前に歳をとって劣化していくもので、そのうちの一つ、また一つと目の前を通り過ぎていくたびに、身の回りには様々な死が潜んでいることに気がつく。おいそれと「新キャラが登場しました」というわけにはいかないからこそ生きるのは面白いのに、人間は可愛いのでそんな当たり前のことさえも忘れようとする。彼らはまたどこか知らないところで元気にしているだろうか。形をなくしてしまったもの、目には見えなくなってしまったものの輪郭を何もない空中でなぞることによって、それを浮かび上がらせて取り戻そうとする。畢竟、自分が音楽を作る理由はそういうところにある気がする。

この間いい感じの腕時計を見つけたので、衝動的に買ってみて、なかなか気に入ってたんだけど、たぶん失くした。そんなことも一年後には綺麗さっぱり忘れてしまっていると思うので、ここに書き記しておく。

1年が始まり全国ツアーが終わった。今年はどういう年にしたいだとか言葉にして意気込むほどの目標も特にないけど、とりあえず「ソファで寝ない」くらいから始めたい。自分の中には心身の疲れを癒すための睡眠と、何かを無視するための睡眠がある。通り過ぎていく時間や、側に転がっている課題をとりあえず無視して目を閉じる。夢の中にいるのかどうか定かではない状態を維持しながら翌日へとワープする。ダリは指に挟んだスプーンを気付けに夢の中を捉えようとしたらしいが、別に絵に描かなくていいので永遠に夢を見続けていたい。そういう気分でワープした次の朝は、SF映画におけるコールドスリープから目覚めた人間のリアクションが大抵最悪なのと同じで、心身ともに疲れきった朝から1日が始まってしまう。

自分が小学生だったころ、ある日を境に地球が滅亡するのではないかなんてことがまことしやかに囁かれていて、あのころの人間はマジで馬鹿だったんじゃないかと思う。小学生なんてさらに馬鹿なもんだから、クラスメイトが自暴自棄になりお小遣いを使い果たしたりしているのを横目に、ふーん終わるんだくらいの気持ちでいたのをなんとなく憶えている。誰も見たことがないものに恐怖を感じるのは生理的な現象で、世紀末のあの頃は純粋に明日そのものが恐ろしくって、おろおろする人たちの懐にすすすっと悪徳商人が割り込んでくるのを止める人がそんなにいなかった。

自分のためだけに生きられるほど人間は強くなくて、どうしても死の恐ろしさを忘れてしまう自分のもとに何か明確な意義があって欲しいと思う。自分がくしゃくしゃになってしまうような、ひどく美しい1日に出会いたい。お小遣いを全部使い果たして、それでも生きてることに心底残念そうな顔をしていたクラスメイトを思い出す。

深夜にはなんとなく許しの空気があって、それが好きでよく夜更かしをする。コンビニや飲み屋には気だるさが漂っていて、客にも店員にもほとんど温度がない。社会の機能が鈍り、スロウになった歯車の隙間をするりと通り抜けて、どっかの知らない校庭に忍び込み、夜露で濡れた芝生にケツを濡らしながらぼんやりする。デタラメな言葉も怠惰もそこでは全部輪郭がぼやけていて、今まで呼吸が浅かったことにようやく気づける感じ。自由ってのは基本的に何かと何かの隙間にしかないもので、岩の裏に住む日陰のダンゴムシにとって、歯車が正常に機能し始めるまでのわずかな深夜の隙間だけが、外に這い出すことを許されるフィーバータイム。だもんで、深夜は詞を書くのが捗ります。

自分の弱さを言葉にして切り売りするわたしにとって、明るい陽の下で詞を書くのはだるすぎる。ニコニコするのにもMPは使う。何かにつけて許されていないと声も出せないことをよく知っている。その昔、周りの人間たちの放つ言葉がどういう意味なのかさっぱりわからなくて、なんとなく曖昧に笑ってばかりいたら「きみは笑ってばかりだね」と言われたことを憶えている。あのころからどっか見よう見まねで生きている感覚が根底にあって、はたして自分は許されているのかいないのか、そういう端から見れば瑣末な、しかし当人にとっては重大な問題を紐解いていくことに夢中だった。

わたしは今まで自分が作った音楽を通してたくさんの人から言葉をもらった。良いも悪いも珠玉も怨嗟も色とりどりで、それによって今の自分があり、そのすべてに感謝の気持ちがある。しかしその奥のほうには、何一つ言葉を持たないやつがいることをわたしは知っている。「僕は苦しいです」「あなたが好きです」と表明するだけの言葉すら持つことを許されていない人間がいることを知っている。今はそういうやつにこそ音楽を届けたい。きっと大丈夫だと言ってやりたい。世の中そんな大したもんじゃないと教えてやりたい。わたしだってここまでこれたもの。

静かな隙間で音楽を聴いていた記憶が今なお自分を定義づけている。音楽がきっと許してくれる。大丈夫、大丈夫、大丈夫。

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