1年が始まり全国ツアーが終わった。今年はどういう年にしたいだとか言葉にして意気込むほどの目標も特にないけど、とりあえず「ソファで寝ない」くらいから始めたい。自分の中には心身の疲れを癒すための睡眠と、何かを無視するための睡眠がある。通り過ぎていく時間や、側に転がっている課題をとりあえず無視して目を閉じる。夢の中にいるのかどうか定かではない状態を維持しながら翌日へとワープする。ダリは指に挟んだスプーンを気付けに夢の中を捉えようとしたらしいが、別に絵に描かなくていいので永遠に夢を見続けていたい。そういう気分でワープした次の朝は、SF映画におけるコールドスリープから目覚めた人間のリアクションが大抵最悪なのと同じで、心身ともに疲れきった朝から1日が始まってしまう。

自分が小学生だったころ、ある日を境に地球が滅亡するのではないかなんてことがまことしやかに囁かれていて、あのころの人間はマジで馬鹿だったんじゃないかと思う。小学生なんてさらに馬鹿なもんだから、クラスメイトが自暴自棄になりお小遣いを使い果たしたりしているのを横目に、ふーん終わるんだくらいの気持ちでいたのをなんとなく憶えている。誰も見たことがないものに恐怖を感じるのは生理的な現象で、世紀末のあの頃は純粋に明日そのものが恐ろしくって、おろおろする人たちの懐にすすすっと悪徳商人が割り込んでくるのを止める人がそんなにいなかった。

自分のためだけに生きられるほど人間は強くなくて、どうしても死の恐ろしさを忘れてしまう自分のもとに何か明確な意義があって欲しいと思う。自分がくしゃくしゃになってしまうような、ひどく美しい1日に出会いたい。お小遣いを全部使い果たして、それでも生きてることに心底残念そうな顔をしていたクラスメイトを思い出す。

深夜にはなんとなく許しの空気があって、それが好きでよく夜更かしをする。コンビニや飲み屋には気だるさが漂っていて、客にも店員にもほとんど温度がない。社会の機能が鈍り、スロウになった歯車の隙間をするりと通り抜けて、どっかの知らない校庭に忍び込み、夜露で濡れた芝生にケツを濡らしながらぼんやりする。デタラメな言葉も怠惰もそこでは全部輪郭がぼやけていて、今まで呼吸が浅かったことにようやく気づける感じ。自由ってのは基本的に何かと何かの隙間にしかないもので、岩の裏に住む日陰のダンゴムシにとって、歯車が正常に機能し始めるまでのわずかな深夜の隙間だけが、外に這い出すことを許されるフィーバータイム。だもんで、深夜は詞を書くのが捗ります。

自分の弱さを言葉にして切り売りするわたしにとって、明るい陽の下で詞を書くのはだるすぎる。ニコニコするのにもMPは使う。何かにつけて許されていないと声も出せないことをよく知っている。その昔、周りの人間たちの放つ言葉がどういう意味なのかさっぱりわからなくて、なんとなく曖昧に笑ってばかりいたら「きみは笑ってばかりだね」と言われたことを憶えている。あのころからどっか見よう見まねで生きている感覚が根底にあって、はたして自分は許されているのかいないのか、そういう端から見れば瑣末な、しかし当人にとっては重大な問題を紐解いていくことに夢中だった。

わたしは今まで自分が作った音楽を通してたくさんの人から言葉をもらった。良いも悪いも珠玉も怨嗟も色とりどりで、それによって今の自分があり、そのすべてに感謝の気持ちがある。しかしその奥のほうには、何一つ言葉を持たないやつがいることをわたしは知っている。「僕は苦しいです」「あなたが好きです」と表明するだけの言葉すら持つことを許されていない人間がいることを知っている。今はそういうやつにこそ音楽を届けたい。きっと大丈夫だと言ってやりたい。世の中そんな大したもんじゃないと教えてやりたい。わたしだってここまでこれたもの。

静かな隙間で音楽を聴いていた記憶が今なお自分を定義づけている。音楽がきっと許してくれる。大丈夫、大丈夫、大丈夫。

雨が降っている。大雨にはしゃぐ子供みたいに二羽のカラスが飛んでる。気付けのコーヒーのような気の利いたものは家に備わっていないので、なんとなくソファの上でまどろむ。家の中で雨が窓を叩く音を聴くのが好きだ。人間としての機能が鈍っていても許される気がするから。交通機関が混乱しているニュースを目にしたのを最後に、鈍痛がする頭の重みに身を任せて、深く沈み込むように目を閉じる。心身ともに疲れているときは眠るに限る。必要なあれこれをなんもかんも後回しにして、願わくば目覚めたら小人が全て仕立てあげてくれていることを期待しながら眠る。

瞼の中でいろいろなことを想像する。ディズニー映画「ヘラクレス」を思い出す。ラストシーン、ヘラクレスとメグはあの後人間界でどういう生活を送るのだろうか?ヘラクレスは少なくともあの父親のいる神様の世界で生きるより幸福だろう(死の概念が存在しない「神様の世界で生きる」というのは語義矛盾かもしれない)。優れた映画を見ているとき、切り替わるカットの間で省略された世界において、または緞帳が下りたラストシーンの向こう側で、登場人物たちは何を見て何を考えて何を言葉にしているのか、気になって仕方がなくなるときがある。そういうときは映画の本筋はそっちのけになり、「この映画面白かったけどあんまり憶えてない」という結果が残ってしまい、一緒に観に行った人間に不可解なものを見るような目で見られてしまう。

イメージは無限だと人はいう。好きな漫画にも書いてありました。瞼の中で心地よい世界を想像するためにイメージを取捨選択する。誰も傷つくことのない楽しい世界を想像する。なんか全部面倒くせえ毎日から逃げるようにして夢を見る。美しいイメージだけで構築された夢は、自分の意識が届かない領域に下りていき、いずれ自分の手綱から外れて身勝手な方向へと進んで行く。ハッピーだったイメージはどんどん雲行きが怪しくなっていき、どんどん血生臭い展開に侵食されていき、やがて最悪の結果に辿り着きそうになってしまうので、自らコンクリートに頭を打ち付けるようにして目を覚ます。

雨が降っている。カラスは見当たらない。夢の中にも居場所がないことに諦めをおぼえて、しぶしぶ面倒な生活を始める。だいたい毎日そんな感じ。

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