月別アーカイブ / 2017年10月




んんん?まだクナ先生を取り上げていなかったとな?
これはまた不覚!

名前からしてエグいが、なんと『アインザッツ』の「橋久奈」の語源となった人。
どうしてこんなごっつい人をヒロインの語源にしてしまったのか・・・。

朝比奈御大が彼の実演を観ているが、まぁ行儀が悪かったらしい。
指揮もそっちのけで背中を掻いたり、そんなことがしょっちゅうあったとか。

演奏にも気分のムラがあり、残っている実演のフィルムも、ウィーン・フィルを野放しにしたかのような、アンサンブルの乱れもどこ吹く風のような指揮ぶりが散見される。

しかし当たれば凄い。
とんでもない音を出す。
豪放磊落とはまさにこのこと、アンサンブル?はぁ?それおいしいの?と言わんばかりの、肺腑を抉るような音を出した。
土臭くて人間臭い、今じゃ絶対味わえない音だね。

やっぱり尊敬するワーグナーが良かった。
途中で録音を投げ出した『ワルキューレ』の第一幕、あれは素晴らしい。
神々と人間の美醜をことごとく描き抜いた音。素晴らしい。


最近「表現と人間性は別!」って俺も乗っかって言ってるのだが、それも所詮はまやかしだ。
本人の人間性の美醜がそのままドラマツルギーとなってうねり狂う、それが真実の芸術だ。
今では完全に不可能な所業だ。


まぁちょっと激論喧しくなってきたので、敢えて「助け舟」を出しますが、物語とは全部「フィクション」なのですよ。
現実にはない、架空のものなのです。
フィクションに対しそれを「現実にはない!」「現実ではない!」と指摘するのは、実は原則的にナンセンスなのです。

だってこの世には自分の頭がアンパンになっている空飛ぶヒーローも、ばい菌なのに「ハッヒフッヘホー」と叫んで飛行体に乗る生物もいないのですよ?
同様に未来からやってきたネコ型ロボットもいません。

それを「現実にはないじゃないか!」と言ってしまっては、この世のほとんどの創作物は死滅するでしょう。


これ、いつもやる講義の内容をちょっとかすってしまって、実は企業秘密なのですが、これを「リアリティ」の議論、と言っておきましょう。

僕が今年仙台でやった特別授業でも言ったのですが、作品のストーリーを練る際、まず決めておかねばならないのは「世界観」です。
その世界は何が許され、何が許されないのか?
頭がアンパンのヒーローはいていいのか?
魔法が使えていいのか?
タイムスリップができていいのか?
銃弾が飛んできても真剣白羽取りで掴めてしまっていいのか?
少子化対策で将来の伴侶はあらかじめ決められてしまってていいのか?

お解りの通り全部「ウソ」「フィクション」です。
これらを「現実にはないじゃないか!」と目くじら立てる人はいないでしょう。それはただのバカです。

しかし、その「世界観」をしっかり決めてしまったら、その中での「キャラクター」とその「行動」は、「世界観」によって拘束されることになります。
そしてこのルールは、現実性を強めれば強める程、拘束力も強くなります。

人が撃たれたら当然死ぬ世界なのに、ひとりだけ俺はスーパーマンだ!どんな銃弾でも跳ね返すぞ!というのは、いきなり説明しても無理があるのです。
その人間が弾を跳ね返すスーパーマンであるという「世界観」の設定が必要なのです。

ちょっと先日Twitterでも言いましたが、Uボートの上に乗ったインディ・ジョーンズが果たして溺れ死ぬことなく敵のアジトにたどり着けるのか?という問題です。
同様にそれを批判した宮﨑御大も、コナンが三角塔からラナを抱えて飛び降りて、着地して無傷でいられるのか?という問題です。
このことは実際当時押井監督が批判しています。


そういった、「この世界観、この世界ではどこまでアリなのか?」ということを前提にしない限り、全ての「リアリティ」に関する議論は、全て不毛なものになるでしょう。
「フィクション」は所詮大ウソなのだから、意味のないことなのです。


・・・とまぁ、これ以上述べると授業料がほしくなりますので、これくらいにしておきます。
ただ、これくらいは言わせてもらってもいいでしょう。

仮にも「続編」と銘打つならば、前作の「リアリティ(=世界観)」は受け継ぐべきだ、と。


ハロウィン?ん?今日がハロウィンなの?
オッサンには慣れないわぁ。

せっかくだからなんか買ってみるかとドンキで物色。


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・・・・・・。


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被写体が悪いんだな、うん。

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