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写真は本場のとは随分違う広島焼。



今回で連載最終回(たぶん)。
次第に各論に移っていますが、これ以上やると「研究」になってしまうので。
何度も言いますが、批評と研究は違います。

もちろんネタバレだらけです。


三度目を立川で観た。さすがに三回目だから泣くまい泣くまいと思い、何とか堪えていたのだが、やはり最後のみなしごのシークエンスでダメだ。
あれは原作の鮮やかなカラー見開きを思い出して、どうしても泣いてしまう。

あと、何度観ても126分があっという間だ。
2時間超えの作品をこんなに集中して観てられるのは実に久しぶりではないだろうか?
今回も夢中になって観ていて、え、もう玉音放送!?となってしまった。

やはり情報の密度が半端ないし、それをものともしない確かな演出設計が成されている。


本当に素晴らしい作品だ。


音響は確かにクリアだし、分離も良かった。でもテアトルでも十分かな?



さて、予告通り、今回は「白木リン」問題。


こういうブログが上がってた。

「この世界の片隅に」映画 感想・考察 【リンさんの存在感を消した映画版の功罪】

なるほど、と思ってたら、既に自己解決されていた。

ユリイカ「この世界の片隅に」 感想 【片渕監督の込めた「すず」という少女への愛】


盛り上がってるところすんませんが、リンのエピソードをカットした理由は、作業上・演出上で言えば、単に尺の問題だったと思う。
原作で言うと中巻の後半の展開が、ごそっとオミットされている。
しかしその分量を加えると、どう少なく見積もっても、30分は増える。

それは上映上の問題というより、制作上の大問題だったと言える。
だって単純計算で、制作費が1.25倍増えるのだ。

クラウドファンディングまでして集めた資金である。この超過は大きな痛手だったに違いない。


しかしそんな下世話な理由で済ませることなく、もう一度、前回の評で言及したこの作品の
「贅沢さ」

に立ち返ってみよう。


片渕監督は、「贅沢に」リンのエピソードを切ったのだ。
贅沢さを追求するなら入れるべきでは?と思われるかも知れない。しかし、上掲の記事にあるユリイカはまだ読んでいないが、やはりリンのエピソードは「too much」だと考えるべきだったのだろう。

原作を読み直した時、なるほど、と思った。
お花見のシークエンスのサスペンス、テルの存在、どれも作品を芳醇にする要素に変わりはなかったが、これだとやはり、生々しすぎる。
「『この世界の片隅に』・評2」でも書いた通り、セックスシーンや三角関係の構図は、この作品に不必要とまでは言わないが、作品全体を通して見ると、どうも引っかかりが残る部分だ。

監督は
そこに、「贅沢に」メスを入れたのだ。
監督はこの作品は「贅沢」でなければならない、そう決めていた。「贅沢」とは何もかもありったけぶちこむことだけではない。バランスだ。
引き算によって観客に膨満感を与えないこと。腹八分目。これも立派な「贅沢」である。


戦争の苦悩と恋愛の苦悩、そのふたつの苦悩ははすずにとっては
「too much」であった。
やがて右手を失うのだから、両手では抱えきれなくなるだろう。
その優しさ。監督による「贅沢な」スパイスだと言えよう。


しかし、とは言え本編中、リンとの関係性を描いておかないと、どうしても成立しないセリフがふたつある。
納屋で哲に迫られ、思わずすずが叫ぶ一言。

「うちはあん人に腹が立って仕方がない!」

これはもちろん、原作では周作とリンとの関係に対しての気持ちの吐露だ。
しかしそれを、映画ではすずの哲への一途?な想いとして処理してしまった。


最初に観た時もあれ?と思ってしまった。
これではすずが哲を好きでありながら周作に嫁いだ、ただの浮気性に見えてしまう。
しかも全身芝居ですずに語らせているから、更に異様な雰囲気である。

これを許すか、許さないかは評価が分かれるところかも知れないが、僕はセリフを変えるべきだったと思う。
リンとの関係を断つならば、哲との関係も断たねばならない。それでイーブンだからだ。

しかし、それではすずがただの聖女になってしまう。それはまた不本意で、作品の厚みが減る。
とかいう、そういう問答の末の結論だったのだろうが・・・。


もう一か所が、唐突に入るリンのフラッシュバックだ。

「誰もこの世界でそうそう居場所はなくなりゃせんよ」

これも原作では実際にすずとリンとの会話の中でなされている、その回想カットなのだが、アニメではいつの記憶なのか、はたまた幻覚なのか、定かでなくなってしまった。
これももう少し、イメージカットに寄せて描写すべきだったのではないか?と思った。


まぁともあれ、そういう結論にしておく。



演出上の発見は観るたび増える。この作品、ほとんど手描きなんだね。
軍艦や戦闘機など、CGにした方が映える描写も、全部手描き。
これもまた、予算の関係とか言うのは野暮だろう。

3Dフォローも限定的に使用されている。
中でも印象的なのが、すずと晴美が時限爆弾の「現場」に行くときの、奥へ進む縦Followのロングショット。
それまでなかった質感が突然顕れるので、解っていてもドキッとさせられる。
これも『マイマイ新子』には味わえなかった「贅沢さ」だ。

そして晴美を失った直後のイメージカット。コンテにも「シネカリグラフ」と指示されているが、僕はブラックトンやエミール・コールなど、アニメーションの起源とも言える作品を思い出すことで、生命の起源のようなものまで感じさせる。人はどうして生まれて、死ぬのか。思惟に富む演出だ。


あと、意外に改変されているのが、セリフだ。
Twitterでも言及したが、「重巡洋艦」を「甲巡」に変更したり、そんなマニアックなものから、テーマにまで関わる大胆な変更もある。
玉音放送を聴いたあとの、すずのモノローグだ。

原作では、

「飛び去ってゆく。この国から正義が飛び去ってゆく。」

とあり、そこからONセリフで、

「・・・ああ、暴力で従えとったということか。じゃけえ暴力に屈するいうことかね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなぁ・・・」

と、あるが、アニメではモノローグのまま、

「飛び去ってゆく・・・うちらのこれまでが。それでいいと思って来たものが、だから、がまんしようと思って来た、その理由が。ああ・・・海の向こうから来たお米・・・大豆・・・そんなもんで出来とるんじゃなぁ・・・うちは・・・。じゃけえ暴力にも屈せんとならんのかね。ああ・・・何も考えん、ボーっとしたうちのまま死にたかったなぁ・・・」

一目瞭然であるが、原作にあった政治臭、思想臭が消え、よりすずの「等身大」の言葉を紡ぎ出そうとしているのが解る。
大胆ながら繊細な変更である。


それにしても、観れば観る程、のんの演技には釘付けになってしまう。
誰かのツイートで語っていたが、「のんの溜息を聞くためだけでも観る価値がある」と。

彼女は天才どころではない、怪物だ。
どこまでのポテンシャルがあるのか、見当もつかない。
息芝居がとにかく独特。声優には出せない個性だ。


ああ、細部を語り出したらキリがない。
この辺でやめておこう。
これ以上は僕がやらずとも、誰かがやってくれるだろう。



四回目はやっぱり呉で観よう。