アンチの承認欲求の凄さは類を見ない。
ネットの匿名のバカだけじゃなくて、実際に高校時代のOやら、大学時代のNやらにやられた。

彼らの深層心理を覗いてみたいものだ。
「俺はお前を全否定しているんだ!?そんな俺を認めろ!?」という、180度に捻じ曲がった、歪な欲求だ。

そんな、原理的に不可能なチャレンジを彼らは続けている。
実際これがあるのだ。しかも多いのだ。
その時点でもう気が狂っているのだが、なんか特殊な快楽原則があるのだろう。

「嫌っている奴に認めてもらいたい!」という欲求は、小学生男子の初恋にでも似ているのだろうか?
それはそれで気持ち悪いが。


恐らく、自分を肯定してくれる人間が誰一人としていないのだろう。
リアクションを取ってくれる相手すらいないのだ。
だから否定でも何でも、僕のように構ってくれる人間に縋りつく。
それしか「承認欲求」を満たす手段がないのだ。

可哀想な人間達だ。
でも同情はしない。完全に社会的に無化する。

福原かおりんが盛んに「『らき☆すた』の時の監督は怖かった!」と言う。
そうかなぁ?
キレ癖で言うなら今の方が遥かに怖いはずだが。

でも「ジャックナイフ」の時はみんなあるのかも知れない。
かつてのたけしやら松ちゃんやらジュニアさんやら、顔を見るだけではマジで犯罪者、本当に人を殺さんばかりの狂暴さを全身から醸し出す時期はあるのだろう。
実際殺さなくても、そんな緊張感を出すのだ。

最近の方が過激な発言をしていたとしても、たぶんもう生物的な「狂気」なのだろう。
それには僕も自覚がある。


それで思い出したが、僕は当時から「中の人」ネタを多用した。
某こなたなど、「バイニ―」やら「木枯しに抱かれて」やら、彼女の黒r・・・いやいや懐かしい思い出をたっぷり使わせてもらった。
怒るだろうなぁ・・・と思いきや、だったらやってやるわい!と言わんばかりに、乗って演じてくれた。
あるいはかおりん同様、ジャックナイフの時の俺が怖かったのかも?

CDが手元にないので確認できないが、「木枯し」の時は「私この曲ちゃんと歌えるんだから!」と、もう本人の気持ちやろ、みたいなアドリブを入れていた。

まぁ「中の人」ネタって、こちらの煽り方によって成功もするし失敗もする。
しかしこういう「中の人」との共犯関係が生まれると、作品が回り始める。
ヒットするのもそういう時だ。


最近は声優と仲が良いようで、かえって遠慮しているのかも知れない。
もう一度噛みつかんばかりの狂気を出したいものだが、歳なんでね。

しょっちゅうある脳味噌足らない意見として、
「アイツはイエスマンの意見しか聞かないんだ!周りに信者ばかり置くんだ!反対意見には耳も貸さないんだ!」とかあるけど、

そりゃそうだ。

国民全体を代表している国会議員ならば、広く意見を集めて熟議をする必要があるだろうが、普段、日々の生活の中で、反対意見を素直に聞く機会って、要るか?
ましてやネチネチうるさいネットのアンチの言うことを聞く必要が一ミリでもあるのかどうか、誰か教えてほしい。

SNSが「集合知」である時代は終わった。というか、来なかった。
この場で熟議が交わされることもなければ、有益な意見が出ることもない。
少なくとも「匿名性」がある内は皆無だろう。

そもそも、反対意見はある程度の同意条項があってこその議論ならば成立するものだ。
つまり「反対意見は言うが、最終決定権は頭領にある。決まったらそれに従う」という前提があってこその、反対意見だ。
これは国会などでも言えることだ。

ていうかお前ら、お友達と信者ばかりを周りに侍らせているアベ君や自民党が好きでしょうがないんでしょ?
一方で対立や分裂の絶えない民進党やそこから出た各党をボコボコに批判するんでしょ?

一方、「信者」の中にもその矛盾は言える。
「自分は信者じゃない!」とどうしても言い張りたい人間がいるのだが、じゃあ何になりたい訳?どういうスタンスを取りたい訳?
自分に自信がないだけの、不毛な言い訳にしか聞こえない。
「信者」という呼称に対するアレルギーが、信者にもアンチにも多い気がする。

結局何かを「信じる」自信がないだけだ。
だから肯定ではなく否定ばかりする。批判は楽だ。信じる必要がないからだ。
宗教だ!信者だ!とだけ言っておけば、大抵批判の体裁にはなる。

少なくとも僕は「信者」以外は要らない。
そこに対して作品を作り、訴え、満足させる。それ以上の仕事をするつもりは毛頭ない。
そうしなければ主張がボケるだけだ。事実、今までそうだったのだ。

そういう、当たり前のことだけを、やる。

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