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久しぶりに来る。
ひとりで飲む時は大概ここ。
ブラウマイスターが世界一旨いからだ。

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そしてアテは必ずトマトのジェノベーゼ。
最近トマトづいているのは偶然。

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名指揮者・フルトヴェングラーは、自身を「指揮もする作曲家」と認識していたらしく、結構な作品を残している。

しかし、残念ながらヒットはしていない。

同じくバーンスタインも「指揮もする作曲家」だが、彼は『ウエスト・サイド物語』など、見事な結果を残した。
マーラーもそうだが、みんな指揮より作曲家を目指したいのだろう。
それは監督が「自分のオリジナルをやりたい!」と思うのにどこか似ている。

フルトヴェングラーは交響曲を三つ残している。
いずれも長大で難解だが、僕は第2番だけが、どうしても好きだ。
初めて聴いた時は「怖いもの見たさ」だったが、一気に魅了された。

どこかで書いたかも知れないが、フルトヴェングラーの作品は暗い。
徹底的に暗い。
何と言うか、救いがない。

だからどうしてもポピュラーになり得ないのだろうが、その分だけの思惟の深さ、理性に統御された哲学的な趣が強い。
分類で言うと後期ロマン派に属するのだろうが、マーラーやブルックナー、ワーグナーと比べて、ケレン味がない。
大見得を切らない。
しかしその分だけ、彼の人生観をじっくり味わうことができる。
言わば「私小説」に近いのだと言える。

因みに第2番は1944年に書き始められ、終戦を迎えた直後に完成した。
だからあの大戦でのドイツの壮絶な記憶が鮮明に記録されているのだ。
それだけでも、資料的価値があるというものだ。

それを抜きしても、当時のドイツの精神が暴走し、暴力的に歪んでいく様を、理性と深い悲しみを持って見つめるフルトヴェングラーの視線には普遍性がある。
第二楽章が特に好きだ。
どうしようもない人間の不条理に直面した時、この楽章がしょっちゅう頭で鳴る。


思えばクラシック音楽も、どこかファンタジーというか、現実逃避的な要素が多い。
オペラなんかほとんどそれだ。
そういうものばかりでなく、現実と向き合う芸術、表現が、僕は好きだ。

彼の書いた音楽には、まさにそれがある。
現実と誠心誠意向き合うほど、音は複雑で深くなる。
空騒ぎのクライマックスや甘美なメロディなんか要らない、あるのは音の「心の旅」だ。

第2番だけでもいい、もっとメジャーにならないものか。

「精神性」という言葉は、まさに彼の音楽のためにあるだろう。

未だに知性を「社会に上手くアジャストする能力」と思っている人間がいる。
本当、バカだなぁ、と思う。

Twitterでも日々、
「ヤマカンは高学歴なのに、どうしてアニメムラに順応できないの??」

本当、バカ。

某大株主からも言われた。
「どうして京大出ていてそれも解らないの?」

本当、バカとしか言えない。
何度生まれ変わっても彼らが理解することはないだろう。
アホは何度死んでもアホである。


知性とは「社会を省察する能力」「社会を批判する能力」のことだ。
すべての知識人、哲学者から科学者まで、同じことをしている。

まず今を疑うことから始めるのだ。
このままでいいのか?これではいけないのではないか?
もっといい方法があるのではないか?

このモチベーションがなければ、学問なんか要らない。
ずっと原始生活を送って、適当に生きて死ねばいいだけだ。

「みんな平等にバカでいいじゃん、出る杭は打とうぜ!」
これでは何も良くならない。

百歩譲って、今のこの世界に全面的に満足して、全面的に肯定したいのなら、それでも良かろう。
でも、そうじゃないんでしょう?
だから無駄に怒ってるんでしょう?

「どうしてこうなるんだ?おかしいじゃないか!」
ここで既に知性が芽生えているのだ。
現状に甘んじたくないのだ。

それを「ムラに順応しろ!」と強要するのは、根本的に矛盾している。
このままではいけない、そう思うことが既に「知性」の萌芽だ。


最低限、それくらいは気付いてほしい。
自分の知性を眠らせるな。

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