当事者と観察者について。



 当事者は、素直に本音を言う。



 たとえば、仕事で働かない同僚を見つければ「あいつは俺と同じ給料を貰っているのに、働かないのは不公平だ」といい、テレビで生活保障が得られなかった親子が餓死すると「かわいそうだ。社会は彼らが生きていけるだけの糧を与えるべき」という。



 相反した意見を吐く当事者を詰るのは簡単だが、そういう矛盾を心の中に幾つも抱えながら生きていくのが人間だ。



 だから、往々にして「お前が言うな」とか「超大型ブーメラン」などが発生する。それらは、新しい状況を前にした本音を漏らすことが原因である。


 そういう当事者が、アンケートで「自民党を応援しています」と回答したとして、政策別の質問で自民党の政策と合致しない回答を多くする場合もある。それは揺らぎなんだろうか?



 分かる人には分かって欲しいのだが、人間の感情というものはそもそも環境に流されやすく、理性だけで政治決定し、投票行動を起こすわけではないのである。簡単な話、安倍政権は不支持でも、自民党を応援している人もいれば、みんなの党を支持しているのに共産党候補者に票を入れる人はいる。



 それを「矛盾だ」「いずれ収斂していく揺らぎだ」「有権者の政治的態度が不真面目だ」と判断して、ノイズにしてしまうのは観察者として良くないと思うのである。有権者の率直な回答に対して、観察者が抱くべき論がそこに載ってしまっている。



 観察者に撤しきれていない人が、自分の意に沿わないデータが出てきた際に「これはノイズである」と根拠なく判定することは、それはデータに対する冒涜だと言えよう。その結果として、厳然と出ているデータに対して、結果の「解釈」を巡って観察者が議論するというのはナンセンスであるし、それは本来観察者が為すべき仕事ではないのだ。



 データを元に観察者が提示した情報は、なるだけそのまま当事者に還元するべきものである。そこからさらに、記者なり編集者なりが加工することはあるのかもしれないが、サーベイランスというのはそういうものだという最低限の倫理がないと、なかなか議論の質や精度を上げることはできないだろう。