月別アーカイブ / 2014年10月

 なんですか、このイベントは。



Engadget Fesに高木浩光 x やまもといちろう 登壇決定、個人情報巡るセキュリティセッション #egfes

http://japanese.engadget.com/2014/10/30/engadget-fes-x-egfes/



 ということで、高木先生と私、山本一郎でEngadgetFESで語るというクソイベントが企画されてしまったようで、友情出演で鈴木正朝先生と別所直哉さんのご来場を正座して待ちたい気分なわけですけれども、このところ私たちのCCCがTポイントカードで素敵な事例を盛大にやらかすという事案の前にドキがムネムネな状態でありまして話題を引っ張りたくてしょうがありません。



Tポイント、個人情報を「第三者提供」されたくない人のオプトアウト受付開始

http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20141029_673496.html


 なんつーか宴会芸みたいになっていますが、利活用をするなという話ではなく、アメリカ、EUなどOECD各加盟国との制度的な調和の取れた正しい規制にして欲しいというのが私どもの立場ですし、このあとはマイナンバー制をにらんだ医療情報(PHR)の利活用も議論の具になりますのでそのあたりはそろそろ考えたいなあ、というのが正直なところです。



 ご関心のある方は是非に。


 少子化対策の話と財源の話は異なるようで実は地続きで、要するに「限りある税収をどこに振り分けるのか」を考えるにあたって、もしも少子化対策が重要なので予算を積もうと思えば必然的に他の財源を削らなければならないんですよ。



 さっそく「しらべぇ」の私の記事に対するクレームもいただきましたし、補足記事はY!J個人にも書いたわけなんですけれども、情緒的に「いまこれが問題だ! 政府は対策をするべきだ!」と主張するのは簡単だし、まあ同意もする部分が大きいんだけれども、必要なこと全部に対してすべて予算付けてたら大変な支出となって国は借金だらけになってしまいますからね。



【コラム】ババアと出会いの価値を算定する(後編) 価値を落とさない5つの要素

http://sirabee.com/2014/10/28/6088/

日本人の結婚観と、少子化対策の問題

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20141028-00040336/



 なので、少子化問題は大事だ、というのと同じぐらい、何と比べてどのくらい優先されるべきなのか、というのは、常に考えておかなければならない問題だと思うのです。子供を生んだ母親に毎月一人当たり10万円の給付を増額しようとするとそれだけで2兆円弱とかかかるわけですし、それだけで消費税1%分の安定財源が必要という話になるわけですね。


 ましてや、国力が下がってきて徴税力が落ちている現状からすると、支出の最適化だけでは難しい側面は多々あると思います。必然的に、国の下にぶら下がっているあらゆる予算の分捕りあいの中で、少子化対策の優先順位は高いはずだ、ときちんと立証し、政策目標を立て、その実現に対する具体的な政策を列挙しながら成果管理をしていく必要があります。



 具体的には書いたとおりですが、少子化対策タスクフォースの議論にもありますし、データでも内容がはっきりしていますけれども、少子化対策で有効な対策を(移民を除いて)上から順番に並べると「結婚の促進」「出産・子育て世帯への税控除or給付増」「保育園など育児インフラ増」が政策的には重要だというのは鉄板です。あとは、社会規範として婚外子の容認を進めるであるとかですが、実際のところ、フランスの助成状況などを見ているとパッと見、馬鹿でかいフランス政府の超大規模な社会保障費の中で容認されてて、ここが財政規律の問題でガタッと崩れると一気に婚外子の制度を支える予算がなくなっちゃうんですが大丈夫なんでしょうかと、大丈夫ではない日本の財政を棚に挙げて気になってしまうわけです。



 感情的に、必要なのだからやるべきだ、予算を回すべきだと言うのは簡単です。



 簡単な議論は往々にして人々の心に訴えかけて話題になるわけなんですけれども。

 例えばこれ。



公立小学校の先生を減らしちゃダメです

http://bylines.news.yahoo.co.jp/watanabeteruhito/20141024-00040238/



 財務省が「機械的に」先生の数を減らせと言うことに対して、情緒的に反対をしている記事でして、感情としては私もそうだろうなと思います。もしも私が子供を公教育に入れて、40人のクラスに入れられたらと思うと微妙な雰囲気はあります。



 その元ネタはこちらです。どう見ても文科省の意向を受けた記事のようにも思うわけですが、それは措くとしても、財務省が数字だけで削ったように読めます。



「先生1.8万人減らせる」 財務省が「機械的に」試算

http://www.asahi.com/articles/ASGBQ53X0GBQULFA01J.html



 一方、じゃあその「機械的」とされる世界で何が起きているのか、誰かちゃんと見た?



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 タブレットからだから雑なグラフですまんな。X軸左側は5年ごとになったままになっとるけど。元データはこちら。誰か親切な人がグラフを綺麗に作ってくれたら貼りかえることといたしますが。



文部科学統計要覧(平成21年版)

http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/002/002b/1282796.htm



 これを見ると、1980年、小学校の児童数は11,826,573人、対して、教師数は467,953人。

 一方、2008年は児童数7,121,781人、対して、教師数は419,309人。



 教師一人当たりに直してみると、1980年が25.27人。2008年が16.98人ですね。



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 確かに教師の負担が大きく、残業代が支払われない等の問題はあるわけなんですが、公教育の観点から言えば、教員一人当たりの児童数は児童の減少に伴って減っているのが分かります。



 これはブラック企業なんでしょうか? 扱う児童数が4割減少しているのに、教師は1割減です。これで昔に比べて残業が増えたのだ、といっても、資金を扱う側は納得できないのも当然です。何か、予算とは別の問題があるのですよ、恐らく。公教育に於ける人員や予算の問題ではなくて、運用や効率の問題なんじゃないの、ということが分かるでしょう。



 私は教育の専門家ではありませんが、昔に比べて圧倒的に日本人の基礎学力が低迷しているかというと、そうでもないんじゃないのと思います。ということは、本来であれば家庭が担うべき子供の教育に関わる部分が、学校に押し付けられた結果、実質的な教師の増員が続いてきたのに仕事が終わらないのだという話じゃありませんか。



 そうであるならば、義務教育に就学する子供一人当たりの金額は同じならば、少子化と共に予算は削減される。ただし、教員の数はそれほど減らないので、限りある予算の中で教員を雇うことになれば、必然的に残業代は出なくなるというだけの話です。民間ならば、仕事(子供の数)が減っているのに従事する社員(この場合は教員)が減らなければ、当然給金の水準は下がるのも当然でしょう。



 それでも義務教育は大事です。先生方も大変な苦労をされて、日々働いているのも感情としては分かります。であるならば、出ている予算の中での人員繰りもしなければなりませんし、無理な業務は「無理である」と言わないといけません。担当する児童数は減っているのに仕事が増えているのであれば、それは増えている仕事を精査するのが筋なんだろうと思いますが、それでも大事なので予算を増やし教師を維持するべきだと言うことならば、他の財源を減らさなければならないのでしょう。



 とりもなおさず、これって学校に家庭の躾や仕事を押し付けた結果が、教師の負担となり公教育の効率を引き下げている可能性をまず考えるべきなんでしょうが、どういうわけだか「財務省が悪い」って話になるのは、もう日本には大盤振る舞いする余力がないからです。



 そして、これがいま日本が直面している「衰退」とか「公共サービスの切り下げ」とか「貧乏を分かち合う」などの現象そのものだと思います。金が、ないんですよ。人も減っているし、担税力も衰えているんだけど、金を生まない市民サービスを維持したいという話になると無理が来るということです。



 もはや、子供の教育の質を上げようという議論になっても、どこかで「諦めろ」という話をせざるを得ない環境なのだ、といつになれば国民は気づくのかなあ、とぼんやりと思うんですよね。ある意味で、政策の大事さではなく、財源の確保や国庫に頼らずに効率を引き上げ、質を確保する議論をどこかで始めないと、みんな共倒れになってしまうと感じるんですが。


 そろそろ秋が深まろうかという澄んだ晴れ間に、素敵なニュースが舞い込んでまいりました。



悪質バイラルメディアにはどう対処すべき? BUZZNEWSをフルボッコにしてみた

http://special.smartguide.yahoo.co.jp/kawanagare/20141028.html



 ああ… 何て酷い。どこまでも暗い地下へ続く無限の回廊に足を踏み入れたようなバイラルメディアの闇の中に、一際明るい光が差し込んで、それはなんだろうと思うと被害者からの訴状だったというウィザードリィ的世界観におけるグレーターデーモン状態(それも仲間を呼ぶ)であることに心が躍らずに入られません。ワードナはどこ。そう思う次第であります。


 セブ山さんも@raf00さんも元気です。



なぜ彼らはパクるのか? パクツイ常習犯が語るTwitterの闇

http://special.smartguide.yahoo.co.jp/kawanagare/20130604.html

「バイラルメディア運営者」がダメすぎて滅びてほしい

http://coziest.net/?p=1129



 いいですね、このアーマークラスの下がり切った前衛3人が「あああああああああああああああああ」といいながらレベル上げて物理でバイラルメディアを殴るという状況が。



 その高まり抜いたヘイト値を一身に受けたWebTechAsiaが運営するBUZZNEWSですが、単純なパクリというよりは「契約ライターが勝手にやったことだから知らないもんね」という薄いアーマーを着込んでいたようで、普通に攻撃が貫通していてウケます。



[引用]

要するに「クラウドソーシングで集めた外部ライターが書いた記事で僕は全然知りませんでしたし、紹介する記事を書けって指示したのに丸パクリで上がってきました」という内容なのですが、そんなわけないだろ。




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 この辺、身体張ってるなーと思うわけですね。ヨッピーさんの追及については上記サイトをご覧いただければと思うわけでありますが、記事をパクったもん勝ちの現状に対する法的リスクの具現化という意味では、非常に先鋭的で有意義な先行事例じゃないかと思うわけであります。



 先日の「バイラルメディア 死ね」のイベントでも、海外サイトを無断翻訳して画像まで盗用し、そこに広告貼って収益を上げPVを伸ばしているバイラルメディアについても実例を挙げ検証した次第ですが、このところのターゲティング広告といいネイティブアドといいそろそろ問題のたな卸しをするべき時期に差し掛かっていると思うんですよね。



 やはりここは、日本中のバイラルメディアというバイラルメディアがmixiの名の下に集結し、三神合体を果たして超電磁バイラルメディアmixiニュースとして生まれ変わったところを通りかかったLINENEWSの肩にぶつかって因縁をつけられ胸倉を掴まれて引きずりまわされた挙句に路地裏で屯っていたGunosyとSMARTNEWSとYahoo!ニュースに袋叩きにあってボロカスのようになったところを東洋経済オンラインが「バイラルニュースのいま! あなたのオリジナル記事が危ない」とかいう煽り記事の特集を組んで冷え込み厳しい冬の入り口で暖を取る感じになると世の中三方丸く収まってよいのではないかと思います。



 次回は「ネイティブ広告というものは、コンテンツの一部のように扱われる必要性がある」はずが、コンテンツそのものになって広告であることを明示しないことで起きる問題について、皆様と一緒に考えてまいりたいと思います。



 引き続きmixiをよろしくお願い申し上げます。



(追記 19:38)



 当のBUZZNEWSから、以下のような反省文がアップされていました。



一部報道について

http://buzznews.asia/?page_id=112965



 ちゃんと出直してくれることを期待してやみません。


 いろいろ調べ物をしているのだが、ああ、あいつ(またはあの会社)はこんな悪いことをしているのか、ということが分かるとする。



 だいたい判明する10の悪事のうち、表で騒ぐのは1個あるかないか、残りの9割以上は心の中にしまっておく。あとで何があるか分からないから、忘れることはない。だいたい、悪いことをする奴というのは繰り返すから。



 成功しても、だいたい連中は同じ悪事をする。金であったり女であったり。人は、うまくいったと慢心したとき、悪事を繰り返す傾向があると思う。そのかなりの部分は、子供のころから持っていたコンプレックスやトラウマが、成功によって何でも出来るという万能感、多幸感を引き金として、行動に溢れ出てくる。


 そういう悪事を指摘して、しまったと反省するケースもあれば、そうでないケースもある。開き直られることもあれば、内容証明が飛んでくることもある。一口に「自分を客観視したほうがいい」といっても、やはり人間というものは見たいものを見て、自分に「なりたい自分」を投影する。



 結局誰かの悪事を調べると言うのは、その人の生い立ちを辿る旅に過ぎない。母親から認められなかった少年時代、友達がいなくて寂しかった学生時代、己の負の感情が湧き上がって実行に移すきっかけは、たいていが金か、女で、その引き金を引くのは取り巻きだ。



 なぜ茶坊主が増えるのか? 承認されたいからだ。こうでありたい自分、でもそうでない自分、それを制限してきた生い立ちと環境がコンプレックスを生み、成功した人の心を内側から蝕む。成功は成功で終わることが少ない理由は、成功者は全員人間だからだ。



 いまはネットバブルで、たいした会社でもないのに人間関係やコネや先方へのキックバックでいい値段で売れるケースがある。成功者になったという気持ちになるかもしれないし、成功者同士の付き合いで馴れ合おうという低きに流れる人間が、立派に見える人たちの輪の中でいい気分になっている。だが良く考えて欲しい。その身なりのいい人たちは、貴殿ではなく、貴殿の財布にしか興味がないのではないか。



 情報は、必ず漏れるように出来ている。知られていないと思うことでも、意外と見抜かれていて、調べ上げられていたりもする。己に問いかけて欲しいのだが、知られても問題ないと言い切れる取引を、人間関係を、人生を、送っているだろうか。



 やはり人間、うまくやったと思った瞬間から停滞したり、酷いときには転落するように出来ている。私自身も律するよう努力する一方、いろんなものを調べるたびに、やっぱりなんかパターンができているのが気になる。



 浮かれた業界のバブル特有の現象なのかもしれん。


 という記事を産経デジタル「iRONNA」で書きました。そこ、マッチポンプとか言わない。



メディアの「韓国・中国叩き記事バブル」 映し鏡としてのヘイトスピーチ

http://ironna.jp/article/471



 事実関係で言うと、米中対立の構造の中で、経済的な協調はありながらも日本と中国・韓国の間では外交的な緊張が高まっていて、世界に対して中国・韓国が歴史カードを踏み越えるような日本の中傷をやった結果、日本が大変迷惑を蒙っているという図式はあります。慰安婦であれ南京大虐殺であれ、事実関係はきちんと踏まえてもすでに日中間、日韓間では正式に戦後の補償は終わっており、アジア女性基金も蹴られているので日本としてはこれ以上誠実にやりようもないというのも事実です。



 なので、メディアがこれらの問題を踏まえて嫌韓反中の記事を乱舞させて煽るのもまた、国民感情としてやむなしの部分はあり、日中・日韓間の民間レベルでの反発が外交面に大きく影を落としているのは事実であります。


 ただ、それをもってヘイトスピーチのような排外的な民族主義的言論が許容されているのかというと本来それは別の次元の話です。日本と韓国が対立しているから日本にいる韓国人を日本人が排斥してよいのだという言論を野放しにすると国際社会からの理解は当然得られないでしょうし、ぶっちゃけ彼らが嫌いな韓国社会の現状と同じレベルのことを日本人が日本社会でやっていることになり、さしたる意味はなく、むしろ有害だって流れになります。



 国際社会の場や、民間での交流において中韓からの中傷に対して日本人が毅然とした態度を取り反論をしたり、ごくごく個人的な感情の元に文化的なものやマナーについて違和感を申し述べる程度に済ませてこそ日本らしさが引き立つわけですよ。



 レイシズムが日本の中で芽生えてしまう理由ってのは、結構この辺の報道によって煽られた日本人の一部が、自身の経済的な苦境から逃避するように外国人排斥に身を投じてしまっている現状はどうしてもあると思うんですよね。それこそ、ヘイトスピーチを真顔で投げかけている人たちの中で、まともな社会的地位についている人はNHKの百田尚樹さんぐらいしかいません。いろんなところでヘイトスピーチをやっている人の映像やら書いているテキストを見るんですけれども、ほんともうちょっとどうにかならないんだろうかと思わずにいられないものばかりであります。



 その意味では、やはりしっかり考えてほしいのは「日本人としての矜持を持つ」ことと「日本人以外を排斥する」こととは違うんじゃないのって話です。別にグローバルエリートとか喧伝する必要はないけれども、日本人が日本の中で決めたルールを守らない人は日本人でも外国人でもしっかりと罰する、しかし隣人としてきた人は日本人であろうが外国人であろうがまずはきちんと受け入れて接するという方法が一番日本らしくて良いんじゃないかと思うわけです。 



 とか書いてたら、バナー広告に三橋貴明の「韓国経済大崩壊」とかいう煽りの情報商材が貼られていておいおいと思うわけですけれども。



 今日もふさふさで頑張って生き抜きたいと思います。


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