長女が2歳になり、片言ながらはっきりとした言葉を喋るようになりました。覚えたての単語一個だったのが、二語となり、三語となって、存在や感情、主張を頑張って伝えようとする娘を見ると、また上の男の子3人とは違った「人格」の芽生えを感じますね。
長女「ママが大好き」
ワイ「パパは?」
長女「ママが好き!!!」
強い子に育ってほしいと心から願っています。
これから苦難の時代を迎える日本社会を、渡っていけるような。
で、自民党総裁選が告示前から騒がしくなり、また、埋没するまいと立憲民主党や国民民主党、維新の会など野党サイドも政策主張を明確に示すようになってきました。良いことだと思います。
ただ、男女同権だ社会参画だという建前とは裏腹に、コロナ下では国民も不安を拭えず社会環境や経済状況から見て「出生できる状態にない」と思う母親候補が多かったのか、出生率・出生数がコロナ時期に大きく減ってしまいました。非常に残念なことです。
私は子どもが4人いますが、夫婦でお互い頑張って育てているとはいえ、やはり家内への負担は大きくなります。授乳や勉強、家事も含めてできる範囲のことを手伝おうとするも、子どもたちからすれば当然のごとく「ママファースト」なのであります。私に人徳がなかったばっかりに…。
また、山本家は高齢親たちの介護や手配などもあります。仕事との両立が大変なのですよ。
先日、社会保障系の勉強会で喋る機会があり、希望出生率の動向や人口減少後の日本社会について、特に地方経済の崩壊や地域社会への制度的介入の在り方なんてのを話しましたが、右肩上がりで作られたいまの制度を廃し、人口減少局面での「撤退戦」を考えましょうというテーマでもやはり地方自治体の皆さんや知事の方は「地方を見捨てるのか」という議論になります。
感情では、そりゃ地方経済は救わなければならない、どうにかしたいという気持ちはあります。同じ日本人として生まれてきて、その同胞たる日本人が苦しんでいるのを見て、喜ぶはずもない。何か方法はないかと考えるのは当然のことです。
他方で、私のような保守主義者からすれば、自然法の中で衰退を食い止められないのであれば綺麗事を言って、助からないものを助けようとして、助かる人たちも苦労したり死んでしまうよりは、助かる部分をきっちりと残し、みなが一緒に沈没しないようにまずは縮小への手当て、準備をしなければならないと思います。どこかから日本人が湧いて出てくることはなく、衰退がはじまった地方や産業や学術分野をいまから支え直すことは不可能です。
そういうと「無責任だ」と正面から批判されます。でも、あなたがたは2000年以降20年以上にわたって衰退する地方と向き合って解決策を模索したけれども、当事者として残念ながら人口減少と衰退に抗うことはできなかったじゃないですか。
そして、それは地方自治体や知事がどう頑張っても不可能なことで、それこそ明石市の泉房穂市長が頑張ったように本当に市民に寄り添う市政でない限り無理じゃないかと思うわけですよ。それだって、周辺自治体からすれば、かなり明確に明石市批判をし、つまりは周辺自治体から勤労世帯を引き抜く政策をし、ベッドタウンとして自分たちだけ成功しようとしているだけじゃないか、という議論になります。
実際、明石市が市政としてうまくいったとしても、それは泉さんだから良かったのであって、周辺の自治体を合わせて見ればやっぱり人口は減少し、地域GDPは下がり、京阪神全体の地盤沈下を防ぐところまではいかない。もはや、大状況がこうである以上、戦術を駆使しても、そしてそれが本当に有能な市長によって上手く回ったのだとしても、挽回するのはむつかしいのです。
そこで出てきたのが男女同権で女性の社会参画を促して地域の活性化につなげようという発想です。あまり興味はないけれど、それが正しいと思うのならば頑張ってやればいいんじゃないですか。
ただ、子どもを4人育てて、介護もしている側からすれば、女性が社会進出して得られる富やキャリア、スキルと、働きに出ているあいだ保育園に入れ、小学校に上がったら学童に行くライフスタイルをもって「女性の社会進出」だと本当に言えるのかという難題があります。
ぶっちゃけ、都市部の女性の初産が30代になっている地域があり、1σの上のほうは何と35歳台になります。これが3世代になると、0歳の子どもを育てている35歳の母親の親は70歳であって、二人目を出産するころには親が後期高齢者です。
昔はこれが出生平均年齢が22歳から23歳台だったことを考えれば、0歳の孫、20代の母親、50代にさしかかるかどうかの高齢者だったのですから、介護問題なく女性が社会進出でき、複数の子どもを儲けることができたかもしれないのです。でも、その当時は多くの女性が家庭に入り、育児に専念する選択をしました。そのころは豊かだった、専業主婦は守られていたと言いたい人たちも多くいますが、実際には祖父、祖母もまだ50代で多くは働いていたので、3世代で暮らせる世帯は働き手が多かったのです。
世帯収入の減少は、日本経済の停滞・衰退と軌を一にしていると言われがちなものの、それもありつつ、現実は3世代同居で働き手が多かった時代から、徐々に都市化、核家族化が進んで、働き手の問題から「女性が社会に進出して2馬力で働かなければ育児や介護を支えられる世帯収入が得られないよ」という社会構造の変化のほうが大きいわけですよ。
結果として、ここで核家族化した日本の都市生活を維持するために、女性が社会に働きに出ざるを得ない代わりに、託児所や保育園、幼稚園を制度化し、全員使えるように公費で賄い、さらに小学校も下校後のお守りのために学童保育で面倒見なければならないという社会状況になりました。さらに、その爺さん婆さんも高齢化するので、今度はこっちも老人養護施設や高齢者サービス付き住宅、介護保険などを駆使して公費で面倒を見なければならなくなった。
身の回りで、高齢者の面倒を看る子ども「ヤングケアラー」問題が勃発しました。ただ、ヤングケアラーはまだ良いほうで、東日本では長男が、西日本では長女が伝統的に親の面倒を看るのが常態化し、介護離職が社会問題化したけれどまったく解決せず、さらに話は進んで親の年金に依存して介護をしていた中高年男女が親の死去と共に収入源を失って自立支援を受けたり生活保護世帯になるケースまで出ます。
そう考えると、女性の社会進出を応援するというだけの話ではなく、女性の選択として「母親という職業を選ぶ」「収入やキャリアを求めるより介護や育児のために家庭に入る」こともまた、認めなければならない時代に差し掛かっているのではないか、と思うのです。
そもそも、社会保障の原点は国民が自らの意志で人生を選択し、その過程で、病気や失業、事故などで働けなくなっても再起できる社会を構築することにあります。女性が輝く時代だから子どもは施設に預けて社会に出て働けということが、本当にすべての女性、世帯、夫婦において正しいと言えるのか。
本当に社会保障を考えるなら、あるいは、真に人間の多様な選択を認めるリベラルならば、画一的に社会に出ろ、子どもは預けろという方向だけでなく、女性のあらゆる選択に対して公平に、平等な支援を行えるような社会保障体系を築き、また、地域の差なく足りない人口を補える構造をどう考えるかではないかと思うのですよ。
必然的に、社会が貧しくなり、世帯収入が足りなくなれば、明らかに社会的に贅沢品である核家族が回らず、1960年代ぐらいの3世代同居も選択肢の一つになるような制度設計は必要でしょうし、なんでも地域が、自治体が、国がカネを出して社会問題を解決するという構造から脱却しないと社会全体の生産性を上げることができず、ますます地域の産業が死滅して魅力のない地方経済、地域社会になっていくのではないかと危惧します。
逆に、リベラルだと自認されている国会議員の方、地方首長の方ほど、ほぼ完全に「女性は社会進出するものだ」「子どもは公的機関が預けるのは当然だ」という強迫観念的な思い込みに近い硬直化が進んでいて、複数子どもを育てたり、育児と介護が同時に発生している家庭が直面する困難や課題には理解が乏しいように思います。
山本家は家内や祖母の多大な苦労やカネの力である程度は何とかなっているのはラッキーだからで、そうではない家庭で母親が社会進出し両親が働きに出て、子どもは保育園や学童、学習塾に投げっぱなしということでいいのか、というのは問題意識として強く持っているのですが。

長女「ママが大好き」
ワイ「パパは?」
長女「ママが好き!!!」
強い子に育ってほしいと心から願っています。
これから苦難の時代を迎える日本社会を、渡っていけるような。
で、自民党総裁選が告示前から騒がしくなり、また、埋没するまいと立憲民主党や国民民主党、維新の会など野党サイドも政策主張を明確に示すようになってきました。良いことだと思います。
ただ、男女同権だ社会参画だという建前とは裏腹に、コロナ下では国民も不安を拭えず社会環境や経済状況から見て「出生できる状態にない」と思う母親候補が多かったのか、出生率・出生数がコロナ時期に大きく減ってしまいました。非常に残念なことです。
私は子どもが4人いますが、夫婦でお互い頑張って育てているとはいえ、やはり家内への負担は大きくなります。授乳や勉強、家事も含めてできる範囲のことを手伝おうとするも、子どもたちからすれば当然のごとく「ママファースト」なのであります。私に人徳がなかったばっかりに…。
また、山本家は高齢親たちの介護や手配などもあります。仕事との両立が大変なのですよ。
先日、社会保障系の勉強会で喋る機会があり、希望出生率の動向や人口減少後の日本社会について、特に地方経済の崩壊や地域社会への制度的介入の在り方なんてのを話しましたが、右肩上がりで作られたいまの制度を廃し、人口減少局面での「撤退戦」を考えましょうというテーマでもやはり地方自治体の皆さんや知事の方は「地方を見捨てるのか」という議論になります。
感情では、そりゃ地方経済は救わなければならない、どうにかしたいという気持ちはあります。同じ日本人として生まれてきて、その同胞たる日本人が苦しんでいるのを見て、喜ぶはずもない。何か方法はないかと考えるのは当然のことです。
他方で、私のような保守主義者からすれば、自然法の中で衰退を食い止められないのであれば綺麗事を言って、助からないものを助けようとして、助かる人たちも苦労したり死んでしまうよりは、助かる部分をきっちりと残し、みなが一緒に沈没しないようにまずは縮小への手当て、準備をしなければならないと思います。どこかから日本人が湧いて出てくることはなく、衰退がはじまった地方や産業や学術分野をいまから支え直すことは不可能です。
そういうと「無責任だ」と正面から批判されます。でも、あなたがたは2000年以降20年以上にわたって衰退する地方と向き合って解決策を模索したけれども、当事者として残念ながら人口減少と衰退に抗うことはできなかったじゃないですか。
そして、それは地方自治体や知事がどう頑張っても不可能なことで、それこそ明石市の泉房穂市長が頑張ったように本当に市民に寄り添う市政でない限り無理じゃないかと思うわけですよ。それだって、周辺自治体からすれば、かなり明確に明石市批判をし、つまりは周辺自治体から勤労世帯を引き抜く政策をし、ベッドタウンとして自分たちだけ成功しようとしているだけじゃないか、という議論になります。
実際、明石市が市政としてうまくいったとしても、それは泉さんだから良かったのであって、周辺の自治体を合わせて見ればやっぱり人口は減少し、地域GDPは下がり、京阪神全体の地盤沈下を防ぐところまではいかない。もはや、大状況がこうである以上、戦術を駆使しても、そしてそれが本当に有能な市長によって上手く回ったのだとしても、挽回するのはむつかしいのです。
そこで出てきたのが男女同権で女性の社会参画を促して地域の活性化につなげようという発想です。あまり興味はないけれど、それが正しいと思うのならば頑張ってやればいいんじゃないですか。
ただ、子どもを4人育てて、介護もしている側からすれば、女性が社会進出して得られる富やキャリア、スキルと、働きに出ているあいだ保育園に入れ、小学校に上がったら学童に行くライフスタイルをもって「女性の社会進出」だと本当に言えるのかという難題があります。
ぶっちゃけ、都市部の女性の初産が30代になっている地域があり、1σの上のほうは何と35歳台になります。これが3世代になると、0歳の子どもを育てている35歳の母親の親は70歳であって、二人目を出産するころには親が後期高齢者です。
昔はこれが出生平均年齢が22歳から23歳台だったことを考えれば、0歳の孫、20代の母親、50代にさしかかるかどうかの高齢者だったのですから、介護問題なく女性が社会進出でき、複数の子どもを儲けることができたかもしれないのです。でも、その当時は多くの女性が家庭に入り、育児に専念する選択をしました。そのころは豊かだった、専業主婦は守られていたと言いたい人たちも多くいますが、実際には祖父、祖母もまだ50代で多くは働いていたので、3世代で暮らせる世帯は働き手が多かったのです。
世帯収入の減少は、日本経済の停滞・衰退と軌を一にしていると言われがちなものの、それもありつつ、現実は3世代同居で働き手が多かった時代から、徐々に都市化、核家族化が進んで、働き手の問題から「女性が社会に進出して2馬力で働かなければ育児や介護を支えられる世帯収入が得られないよ」という社会構造の変化のほうが大きいわけですよ。
結果として、ここで核家族化した日本の都市生活を維持するために、女性が社会に働きに出ざるを得ない代わりに、託児所や保育園、幼稚園を制度化し、全員使えるように公費で賄い、さらに小学校も下校後のお守りのために学童保育で面倒見なければならないという社会状況になりました。さらに、その爺さん婆さんも高齢化するので、今度はこっちも老人養護施設や高齢者サービス付き住宅、介護保険などを駆使して公費で面倒を見なければならなくなった。
身の回りで、高齢者の面倒を看る子ども「ヤングケアラー」問題が勃発しました。ただ、ヤングケアラーはまだ良いほうで、東日本では長男が、西日本では長女が伝統的に親の面倒を看るのが常態化し、介護離職が社会問題化したけれどまったく解決せず、さらに話は進んで親の年金に依存して介護をしていた中高年男女が親の死去と共に収入源を失って自立支援を受けたり生活保護世帯になるケースまで出ます。
そう考えると、女性の社会進出を応援するというだけの話ではなく、女性の選択として「母親という職業を選ぶ」「収入やキャリアを求めるより介護や育児のために家庭に入る」こともまた、認めなければならない時代に差し掛かっているのではないか、と思うのです。
そもそも、社会保障の原点は国民が自らの意志で人生を選択し、その過程で、病気や失業、事故などで働けなくなっても再起できる社会を構築することにあります。女性が輝く時代だから子どもは施設に預けて社会に出て働けということが、本当にすべての女性、世帯、夫婦において正しいと言えるのか。
本当に社会保障を考えるなら、あるいは、真に人間の多様な選択を認めるリベラルならば、画一的に社会に出ろ、子どもは預けろという方向だけでなく、女性のあらゆる選択に対して公平に、平等な支援を行えるような社会保障体系を築き、また、地域の差なく足りない人口を補える構造をどう考えるかではないかと思うのですよ。
必然的に、社会が貧しくなり、世帯収入が足りなくなれば、明らかに社会的に贅沢品である核家族が回らず、1960年代ぐらいの3世代同居も選択肢の一つになるような制度設計は必要でしょうし、なんでも地域が、自治体が、国がカネを出して社会問題を解決するという構造から脱却しないと社会全体の生産性を上げることができず、ますます地域の産業が死滅して魅力のない地方経済、地域社会になっていくのではないかと危惧します。
逆に、リベラルだと自認されている国会議員の方、地方首長の方ほど、ほぼ完全に「女性は社会進出するものだ」「子どもは公的機関が預けるのは当然だ」という強迫観念的な思い込みに近い硬直化が進んでいて、複数子どもを育てたり、育児と介護が同時に発生している家庭が直面する困難や課題には理解が乏しいように思います。
山本家は家内や祖母の多大な苦労やカネの力である程度は何とかなっているのはラッキーだからで、そうではない家庭で母親が社会進出し両親が働きに出て、子どもは保育園や学童、学習塾に投げっぱなしということでいいのか、というのは問題意識として強く持っているのですが。
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