教育関係の人たちから酷評と絶賛という二つの不思議な評価を得ている本書が話題になっていたので、手に取ってみたわけですよ。

 我が国の教育改革に対する教育学者たちの反駁、反論、反証の書であるので、教育専門家しか読んでて分からないかと言われればさにあらず。東洋館出版の編集者も苦労をしたのか、わざわざ強調すべき個所はしっかり太字にされていたり、目が滑りそうな表現はしっかり字句を開いたりと工夫の跡が散見されます。素晴らしい。



流行に踊る日本の教育』(Amazonリンク;東洋館出版社)

 なぜか楽天ブックスでは取り扱いがないのでAmazonリンクでどうぞですが。

 一章一章読み進めるごとに、教育学に精通しておられる各著者の主張に、おおいに膝を打ち、首肯し、そうだよなあと共感する部分が多々ある一方、言及されている内容がほとんど個別のケースの積み重ねによるものであって、これといった論拠、根拠がないものも多々並んでいます。受け止め方が、実にむつかしい。読み手として、それは単に「あなたの感想ですよね」と感じるものもあり、おそらくは教育の現場から乖離した我が国の教育学の在り方の問題の見本市的なところもあります。

 本書で貫徹されているテーマは、新しい学力観からPISA、アクティブラーニングにSTEAM教育といった、現在教育界で吹き荒れているテクノロジーによる教育メソッド大改革を、我が国の教育学・教育界がどう受け止めるのか、です。そもそも我が国の教育は大部屋で画一的だから新たな教育方法を模索する必要があるのだ、というsociety5.0的な教育改革には非常に懐疑的な立場から反論を投げかけ、我が国の教育は決して失敗ではなかったとし、うまくいっているものをなぜ正当に評価せず、いま変更する必要があるのかと明確に問い直しています。

 さらに、STEAM教育など流行の教育キーワード一つひとつの「煮詰まってなさ」を例示し、実際私が見ても何だか良く分からないSTEAM教育とは何であるべきか、それを現場の初等中等教育に降ろしてきたときに、現場の学級経営にどういう混乱が起き得るのかという点についても非常に詳しく例示しています。

 とりわけ、第3章が象徴的でしたが、神戸大学の川地亜弥子さんの教育方法論的な観点からの「読み解き」を協同授業として見事な成果を挙げてきたプロセスについて解説しています。

 本書では、全編を通じて今の日本の教育がテクノロジーや世界的潮流から揺さぶられていることに対して、教育学をずっと見てきた人たちからの魂を感じるようでもあります。我が国が戦後営々と培ってきた教育資産を軽く見るな、と。


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 読んでいて悩ましいことを簡単に言えば「言いたいことは分かった。だが、まったくその教育論の出口が見えず、目標があいまいで、そこにいたる議論ですら『その著者・学者の情念とべき論』でしかなく、第三者に分かる根拠がないじゃないか」ということです。

 STEAM教育など欧米の教育論を生半可な形で日本の学びに移植しようという雑なもので、弊害が大きいぞという主張は良く分かった。だが、我が国の科学技術を支える教育の体系を支えるべき学校の現場はどう改善されるべきなのか。理想とする学校教育の目標は何に設定されるべきで、どういう手段があるのか。

 OECDが実施しているPISA(キーコンピテンシーの枠組み)が迫る、我が国の学力観の転換がさしたる意味を持たないという主張は良く分かった。だが、そもそも日本の教育が失敗していないという根拠はPISAで諸外国に比べて日本の評点が低くないことではなかったか。PISAから離れて日本社会に見合う客観的な評価基準は何であるべきで、それはどう達成するつもりなのか。

 個別学習のような仕組みはかつて日本の教育でも試行錯誤され蓄積されており、より人間らしい子どもを育てる教育に充当されるべきだという主張は良く分かった。だが、より子どもたちの包括的な人間力を教育の現場が強化すると言われても、それは結局は綺麗事であり、教育の現場に課題を押し付けているだけで、目指すべきものの具体的な提示はされていないのではないか。

 つまりは、いまの「教育改革」が教育の現場から乖離し、子どもたちが健やかに人間的な存在として貴重な若い時間を学校で過ごすことに重大な意味を持たせるためにどうすればいいのかという議論が欠落したまま、合理性、効率性だけが追及されてテクノロジーが追加されることへの警鐘です。確かに、いまの日本の公教育の現場で「STEAM教育です」と言ったところで、クラスに日本語がイマイチ分からない子どもが三割ぐらいいる現状ではファシリテートしなければならない教師の負担はぐんぐん上がっていきます。

 そして、教師がブラック職業の最たるものになるのは本書でも指摘される通り「学校が担うべき役割の線引きが希薄化している」からこそ、家庭内での躾から学校内外での治安見回りまで学校に押し付けられ、さらには部活動という事実上の子守りまで学校が担うことになっているのはもっと論じられなければなりません。

 しかしながら、これらの学校での情報化やテクノロジーの利活用について、もっぱら人間性育成至上の教育の対比としての効率化・合理化批判が本書で行われ、あたかもビジネスパーソンを育成するための公教育で産業界の要請に教育界が引っ張られているかのような議論がなされているのには根本的な疑問があります。

 例えば、STEAM教育の一環として行われるプログラミング教育や、専科教員も動員して行われている語学教育についても「産業界の要請」がベースとなって行われているものだと論述されていました。もちろん、まったくビジネスベースではないかと言われればそうではありません。ただ、いまどきスマホでやり取りするのが当たり前になる中、プログラミング思考、つまり段取りを考え適切な手順に則って物事を解決する仕組みは日常生活で当たり前のように使われていくべきものです。従来の日本の教育の枠組みに足りていなかった概念であるからこそ、STEAM教育(というちょっと訳の分からない仕組み)の一端としてプログラミング教育が必要である、せめて先を見繕って段取りを整えたり、試行錯誤を繰り返したり、最低でもスマホのフリック入力ではなくキーボード入力も当たり前のようにできるようになってほしいという考えであることは自明です。

 さらに、個別学習においてAIの利用を忌避するような表現が本書では随所に見られるわけですが、これは効率至上主義なのではなく、単純に教師が教室経営の一環として個別学習をなるだけきめ細かく行い学習効果を適切に高めるためにツールとして人工知能を利用しようという話です。あたかも人工知能が導入されれば学校の教育現場で自動的に子どもたち個別の習熟度別のカリキュラムが供出されて教師のやることが無くなる、と本書が言外に指摘しているように見えているのが主張の本旨であるならば、おそらく本書の執筆者のほうが、よほど世の中の人工知能万能論を信じ込みすぎています。あくまで、校務データから学習支援AIというものは教師が子どもの状態を確認したり、より良い教育を行うために質を高めるために教師が主体となってAIを使うというやり方になるはずです。

 経済産業省「未来の教室」プロジェクトにおいては、特に従来型の教育は大部屋で画一的な授業を行うことに対する行き詰まりを解決するために、個別学習を行えるための技術導入を行い、Society5.0時代に相応しいインフラを整えていく中で「ハードだけあっても駄目で、そこにどういう教育的なソフトウェアを用意し、教師のファシリテーション能力を支えるか」が主眼だったのではないかと思います。

 他方、文科行政においては特に日本会議ほか政策立案に大きな影響力のある人が根拠のない教育論を現場に広めようとしたり、自称有識者の思い込みを真に受けてカジュアルに現場へ介入して、ただでさえやることが山積して疲弊している教育の現場が振り回されることのないよう、教育の情報化についても自律的で抑制的かつ段階を踏んだ導入をしていかなければなりません。しかし、コロナ禍のおかげで学校が休校になり、カリキュラムの消化が追い付かない事例もあることから、文部科学省も「学びを止めない」方法論としてICT技術の利活用を推進していかなければならない立場になりました。

 そうなると、本書がいみじくも問題提起した「流行に踊る日本の教育」と主張している側が、結果として「アンテナの低い教育学者」になってしまいかねないリスクがあります。少なくとも、本書で例示されている議論は非常に示唆に富み解決していかなければならないものが多い一方で、前述の通り「我が国の教育をどのように導いていくか」という視座と、論述を信じ支持するに足る根拠がまったく欠けています。論述はあっても、論の目的(出口)と論の根拠双方が乏しいので、なぜ今の教育改革は否定されなければならないのかの是非は執筆者の主観と読む側の受け取り方で決まってしまいます。

 本書は全編を通じてほとんどの議論が個別の研究者の主観によるもので、うまくいった教育の在り方があったとしてもそれがなぜうまくいき、どのくらいの子どもたちがいかなる育成上の成果に結びついたのかという客観性がないため、批判的に本書を読むと全否定になりますし、読み手の側が価値を読み解こうとすると全肯定になります。しかも、数値的なエビデンスがなければ到底納得できないような議論でさえ、最低限の科学的思考がなく再現性があるのかすら読者には分かりません。これでは、単に毎年クラス替えの際に保護者や子どもが「当たりの担任が来ますように」と祈る公教育の問題解決には資さない議論になってしまうのではないでしょうか。

 おそらくは、冒頭の「本書を読んだ教育者・教師が、絶賛するか酷評するかの二択」になりやすい本書の特徴は、この辺にあるのだろうと思います。その点では、非常に優れた問題提起を各分野において詳細に記した非常に素晴らしい良書に感じます。

 蛇足ながら、この本を読まれるにあたっては、前提知識として「流行に踊っている側」としての経済産業省の浅野大介さんと文部科学省の合田哲雄さんが対談しているこのサイトを読まれると超立体的に理解ができるのではないかと思います。

 正直言うと、根無し草と揶揄されながらも政策官庁として先進的な政策を主導する経産省と、政策官庁への脱皮を図る必要に迫られながらもいろいろ大変な文科省とがなぜ未来の教室をやり、GIGAスクール構想を掲げ、学校教育の現場に個別教育のアプローチをテクノロジードリブンで求めているのかはよく理解できます。

政策特集チェンジ・メイカーを育てる 『未来の教室』 vol.7
「予定調和」を乗り越えて 文科省vs経産省 これからの教育を語り合う【後編】
https://meti-journal.jp/p/319/

 他方、現状での公教育の現場の荒廃や、教員になりたいという若者の減少に伴う教師の社会的地位の低下、二重権力状態になっている各地の教育委員会の弊害、さらには高大接続・大学入試改革にいたる現状の我が国の学力観まで、かなり網羅的な内容が理解されないと本件政策論は解されないと思います。

 つまりは、本書では経済的要請とまるめて書かれていますが、真の問題は大学入試・東京大学に何人入った、国立医学部が何人だという「スコア」で学校の評価が決まり、よりよい教育を求める人たちは公的な学校教育に多くを求めなくなっていく状況で、まずは中学受験が都市部では重視されるのは本書で本来語られるべき「日本の教育学の自己批判」に本来は繋がるべきものなのかなと思います。これは、学習塾はなぜ必要とされているのか、その学習塾はどうして進学実績を公表して入塾をアピールするのかを考えれば自明です。

実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関のあり方 審議まとめ案に対する意見
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/attach/1356054.htm

 文部科学省において、冨山和彦さんが提起した問題意識・テーゼに対して、本書は示唆的である反面、将来をどうすべきか、具体的なビジョンを根拠づけていく作業をぜひ進めて欲しいと願います。

 個別学習・指導の件で、本書においてはあまり多くは支援学級・学校やギフテッド教育については触れられていませんでした。今後、学習ログやe-ポートフォリオ「的な」議論は多々出てくるかと思いますが、いわゆる才能教育(ギフテッド教育;才能教育)については『才能教育の国際比較』(山内乾史・編著 東信堂・刊)がやや網羅的だったのでご関心のある人向けに掲示しておきます。






才能教育の国際比較(Amazonリンク)

 蛇足の蛇足ながら、この手の実証研究においては中室牧子的教育経済学の観点は政策論争では必須のはずが、本書ではほっとんど出てきません。また、安藤寿康せんせが示したような行動遺伝学的なアプローチに対する論考もゼロです。

 本書第9章では、杉田浩崇さんが「エビデンスに基づく教育」としてRCT(ランダム化比較実験)を二重盲検的なアプローチで教育政策の論拠にすることを批判的に論述していますが、批判としてはイマイチ謎で、因果推論の方法だけでなく経年的な追跡調査の是非や、アンケートパネルなど教育効果を確認するための手法として取れるデータは多数あります。おそらくは、紙幅の関係で触れられなかった論点があったのかなとも思いますが、まさに本書は「教育改革において、エビデンスに基づいて政策が組まれ、学校教育に新たなテクノロジーやネット環境が導入される」ということが起点であるので、個々の論争ができるようにしてほしいと強く感じました。

 いずれにせよ、教育の問題については子どもを持つ親の身として切実で、教育改革の如何によっては子どもたちが社会人になるころ貧しい日本から海外に出稼ぎに行かなければならないような経済環境になりかねないという危機感をもって取り組むべきものだと思います。本書では、そういう改革の中身について実際に教育を研究されている方が項目別に真正面から論じているという点で、高い価値のある議論ですので、ぜひご関心のある方は手に取ってみていただければと願います。



山本一郎(やまもといちろう)YouTube

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