ということで、お騒がせしております元カドカワ代表取締役の川上量生さんとの間での3つ裁判のうち、一番最初の裁判において地裁判決が出ました。


 この裁判は何だったのかというと、川上量生さんが「カドカワ代表取締役」名で私(山本一郎)の所属する情報法制研究所に対し郵送にて私の記事の削除と謝罪などを求めてきた件で、そんな削除をする必要も謝罪する理由もない、ということで「債務不存在確認」の訴訟を起こしたものです。


 その私の記事の内容は、川上量生さんが海賊版サイト対策において、憲法違反の疑いが強いブロッキングを行うよう政府委員などの立場で強く求める珍説を披露していたため、これに対して盛大に反論していたものです。


 また、そもそも当時川上量生さんは「@nkawa2525」は匿名であるなどとして自身のアカウントとなかなか認めないという姑息な運用をしておられました。裁判になったらあっさり認めたので、そんなら最初から実名でTwitterやっていれば良かったのにと思います(その後、別の裁判の本人尋問で「川上さんの性格からして、訴えてみれば発信者情報開示請求によることなく本人が勝手に認めてくるであろう」という話が出て草が生えています)。


 で、そもそもが、この訴えの内容について主たる部分については、判決文でもあります通り川上量生さんは謝罪要求自体を取り下げており、そればかりか、「今後も(謝罪や削除などを)請求しない」とまで川上量生さんは主張しています(←重要)。川上さんの一連の不当な要求に対して、そんな求めが通るはずがあるかと訴えている原告である私たちにおいては、いきなりそこの部分が「訴えの利益がない」状態になっていました。何勝手に争いをなくしてるんだよ。顔真っ赤で謝罪要求の請求を封書で送ってきたのは川上さんのほうからなんだぞ。


 ということで、名誉毀損での賠償請求もくっつけて裁判を引っ張って判決を取ったところ、案の定、もうすでに「川上量生さんは抗議をしておらず、謝罪の要求も取り下げている」ということで、原告の請求は棄却された、という次第です。


 しかも、川上量生さんはすでに失脚して、カドカワ代表取締役からも降ろされています。


 そのカドカワ社も被告だったわけですが、社としては抗議文書で謝罪要求を送っていないということなので、川上量生さんが社の決定を経ず勝手に抗議文を私に送っていたことになります。そして、川上量生さんは「削除と謝罪を求める抗議文は(山本一郎の所属先である)情報法制研究所に送ったものであって、山本一郎に削除と謝罪を求めたものではない」という面妖な主張をして、地裁判決からは当然のようにスルーされています。


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山本一郎氏の訴え却下、川上量生氏「唐澤先生が予想されたとおりの結末」…東京地裁|弁護士ドットコムニュース https://www.bengo4.com/c_23/n_12497/


 つまりは、私が川上量生さんのブロッキング議論をおおいに馬鹿にしたので、川上さんがムカついて所属組織に抗議(=削除と謝罪要求)をしてきたというムーブに対して、債務不存在の訴訟をしたところ謝罪要求そのものを自分から取り下げてきたという、川上さんは吐いた唾一気飲みの構造になっております。


 この流れは、奇しくも川上量生さんに求められたというNTTグループの対海賊版サイトの超法規的ブロッキングの方針発表が、訴訟提起と同時に方針撤回された話と同じ構造になっております。


 主たる論点では原告被告の間に争いがすでに無くなって、訴えの利益も存在しなくなっているわけですから、超敏腕弁護士・唐澤貴洋大先生の読み通りになるのは当然でございます。普通は、抗議や主張を降ろしたくないので抗弁してくるはずが、「削除や謝罪要求は取り下げました」とか言い出すので「お前らの送ってきたあの抗議文は何だったのか」という話になるわけですよ。


 ところが、削除や謝罪要求はしていないと言いながらも、いまだに川上さんがブログに面白抗議記事をぶら下げているので、本件訴訟においては控訴したほうが良いかどうかはこれから考えていきたいと思います。


 で、今回は抗議文を送られたのが私の記事に関してであり、所属組織に対して私の記事を削除し謝罪するよう、大出版社カドカワ代表取締役名で求めた、というところがポイントです。


 これがもし、私が通常の勤め人であり、企業などで働きサラリーを貰って生活をしながら論評活動をしていたとするならば、勤め先に「お前らが雇っている社員が書いた記事は不快だから抗議する。削除して謝罪しろ」との書状を大企業経営者から送られれば、これは立派な言論封殺であり、SLAPPです。人によっては、これ一発で企業側から解雇をされてしまったり、発言を今後行わないよう求められたりすることはあるでしょう。


 その手の権力振り回しを、川上量生さんはカドカワ代表取締役として行い、また訴えられたら主たる争点で自分から取り下げるという吐いた唾を飲むようなことを恥ずかしげもなく平気でやった、ということになります。


 すでに、第二訴訟では高等裁判所で川上量生さんは敗訴しており、私が川上さんに書いた一連の記事やツイートについては名誉毀損などではなく違法なものではなかったと確定しています。


 したがって、川上量生さんは削除したり謝罪したりする必要のなかった私の書き込みに対して抗議をし、カドカワ代表取締役の名前で削除と謝罪を求め、その申し出は失当なものである(債務不存在確認)訴訟を起こすと、しめやかに「現在は削除を求めていないし、将来も削除をもとめることはない」と主張したわけで、つまりはこの裁判がなければいまでも削除と謝罪を求めていた可能性は高くあります。訴えられて、初めて「削除を求めていない」といい始めたわけですからね、川上量生さんは。


 ということで、後から付随させた名誉棄損部分はもちろん200万円の訴額は棄却になりましたけれども訴えの利益を損ねず裁判継続のためには必要な部分でしたし、判決文でもある通り、また、私もことあるごとにネットで書きました通り本件は「バーカ」「お前こそバーカ」の部分を否めませんので、本件訴訟において判決を書いてくださった裁判長以下裁判体の皆さんの決定は相当の部分で妥当であろうと思います。長文を使っていただき「お前ら、どっちもどっちやがな」と適切な評価を賜ったようにも見える部分については感無量であります。


 常識的には、決定的な内容があって送ってくる抗議文で、削除や謝罪などを求める場合は、その求めを取り下げずに正当性を争うのが本来であると思います。ましてや、業法違反だけでなく憲法にも抵触することが疑われるブロッキング議論において、政府内で議論を主導しておきながら、それに対して反論を受けてブチ切れてカドカワ代表取締役名で送ってきたぐらいですから、川上量生さんなりの正当性の主張が本件ではあるはずだった、という風にも思っていました。


 しかしながら、実際には裁判において議論の正当性を主張する書面はほぼなく、あっても証拠で記される程度のものであって、結局最後まで海賊版サイトのブロッキングについては主張を引っ込めたも同然のものでありました。川上量生さんにとって、その程度の話だったのでしょうか、ブロッキング議論って。


 というわけで、非常に力作に仕上がっております判決文に関しては、以下の通り引用いたします。皆さまのご声援を賜りまして、本当にありがとうございます。




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山本一郎氏の訴え却下、川上量生氏「唐澤先生が予想されたとおりの結末」…東京地裁|弁護士ドットコムニュース https://www.bengo4.com/c_23/n_12497/


 つまりは、私が川上量生さんのブロッキング議論をおおいに馬鹿にしたので、川上さんがムカついて所属組織に抗議(=削除と謝罪要求)をしてきたというムーブに対して、債務不存在の訴訟をしたところ抗議そのものを自分から取り下げてきたという、川上さんは吐いた唾一気飲みの構造になっております。


 この流れは、奇しくも川上量生さんに求められたというNTTグループの対海賊版サイトの超法規的ブロッキングの方針発表が、訴訟提起と同時に方針撤回された話と同じ構造になっております。


 主たる論点では原告被告の間に争いがすでに無くなって、訴えの利益も存在しなくなっているわけですから、超敏腕弁護士・唐澤貴洋大先生の読み通りになるのは当然でございます。普通は、抗議や主張を降ろしたくないので抗弁してくるはずが、「抗議は取り下げました」とか言い出すので「お前らの送ってきたあの抗議文は何だったのか」という話になるわけですよ。


 ところが、抗議はしていないと言いながらも、いまだに川上さんがブログに面白抗議記事をぶら下げているので、本件訴訟においては控訴したほうが良いかどうかはこれから考えていきたいと思います。


 で、今回は抗議文を送られたのが私の記事に関してであり、所属組織に対して私の記事を削除し謝罪するよう、大出版社カドカワ代表取締役名で求めた、というところがポイントです。


 これがもし、私が通常の勤め人であり、企業などで働きサラリーを貰って生活をしながら論評活動をしていたとするならば、勤め先に「お前らが雇っている社員が書いた記事は不快だから抗議する。削除して謝罪しろ」との書状を大企業経営者から送られれば、これは立派な言論封殺であり、SLAPPです。人によっては、これ一発で企業側から解雇をされてしまったり、発言を今後行わないよう求められたりすることはあるでしょう。


 その手の権力振り回しを、川上量生さんはカドカワ代表取締役として行い、また訴えられたら主たる争点で自分から取り下げるという吐いた唾を飲むようなことを恥ずかしげもなく平気でやった、ということになります。


 すでに、第二訴訟では高等裁判所で川上量生さんは敗訴しており、私が川上さんに書いた一連の記事やツイートについては名誉毀損などではなく違法なものではなかったと確定しています。


 したがって、川上量生さんは削除したり謝罪したりする必要のなかった私の書き込みに対して抗議をし、カドカワ代表取締役の名前で削除と謝罪を求め、その申し出は失当なものである(債務不存在確認)訴訟を起こすと、しめやかに「現在は削除を求めていないし、将来も削除をもとめることはない」と主張したわけで、つまりはこの裁判がなければいまでも削除と謝罪を求めていた可能性は高くあります。訴えられて、初めて「削除を求めていない」といい始めたわけですからね、川上量生さんは。


 ということで、後から付随させた名誉棄損部分はもちろん200万円の訴額は棄却になりましたけれども訴えの利益を損ねず裁判継続のためには必要な部分でしたし、判決文でもある通り、また、私もことあるごとにネットで書きました通り本件は「バーカ」「お前こそバーカ」の部分を否めませんので、本件訴訟において判決を書いてくださった裁判長以下裁判体の皆さんの決定は相当の部分で妥当であろうと思います。長文を使っていただき「お前ら、どっちもどっちやがな」と適切な評価を賜ったようにも見える部分については感無量であります。


 常識的には、決定的な内容があって送ってくる抗議文で、削除や謝罪などを求める場合は、その求めを取り下げずに正当性を争うのが本来であると思います。ましてや、業法違反だけでなく憲法にも抵触することが疑われるブロッキング議論において、政府内で議論を主導しておきながら、それに対して反論を受けてブチ切れてカドカワ代表取締役名で送ってきたぐらいですから、川上量生さんなりの正当性の主張が本件ではあるはずだった、という風にも思っていました。


 しかしながら、実際には裁判において議論の正当性を主張する書面はほぼなく、あっても証拠で記される程度のものであって、結局最後まで海賊版サイトのブロッキングについては主張を引っ込めたも同然のものでありました。川上量生さんにとって、その程度の話だったのでしょうか、ブロッキング議論って。


 というわけで、非常に力作に仕上がっております判決文に関しては、以下の通り引用いたします。皆さまのご声援を賜りまして、本当にありがとうございます。



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 東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長であらせられる、俺たちの森喜朗さんが派手にやらかしていたので記事にしたんですが、実のところ、私らの足元で意外と抜き差しならないことが起きていて困っておるわけです。

俺たちの森喜朗、期待に応えて自ら東京オリンピックを台無しにする 日本における「会議」という名前の儀式の問題  https://bunshun.jp/articles/-/43302

 それは「まあまあアカデミックな能力も必要とするデータサイエンティストや、そのマネジメントの人を雇おうとすると、男性しか応募が来ない」という事案です。関係先が8名採用したいというところ、オープンエントリで応募のあった45名(2月4日現在)は全員男性です。

 それどころか、いわゆるリファラル採用(縁故採用)で声をかけた研究室から出たリストは22名中19名が男性。会社の方針として、なるだけ男女同数かそれに近い採用をしようとすると、おそらく採用基準に満たない経歴しか持っていない(ように見える)女性求職者は全員採用しなければならず、また、それだけでは足りません。

 結果として、おそらく経歴的に十分とみられる男性求職者は採用を見送らなければならないでしょう。これはある種の逆差別なのではないか、というか、逆差別そのものなのではないかと思うのですが、かといって、そこで「女性だから雇いました」と組織内で宣言するわけにもいかず、それでいてそれなりに高い報酬を支払う以上はうまく物事を着地させなければなりません。

 あまりにも面倒くさいので、新規採用を自前で行うのは諦め、派遣会社などに相談をしてそれらしい経歴の女性を何人か割高な報酬でお呼びする方向で話が進みそうな塩梅です。しかも、当方からすれば割高に支払う人件費も、それなりの割合が派遣会社に取られてしまうことになります。

 個人的に思うのは、男女平等に仕事をする機会を与えていく政策はおおいに賛成しつつも、実際に起きていることは男女ではキャリアや求職者の数そのものに供給のギャップがあって、責任あるポジションや高度なスキルを要する仕事で女性を採用しようとすると凄まじく苦労する、ということです。

 そのうえで、これらの男女参画を困難があっても実現しようとすると、バッファとして上記のように人材派遣会社や登録型人材会社のお世話にならなければならず、そういう働く女性のリストを持っている企業を利用することは必須となる場合が少なくなくあります。それも、大手でなければ条件に合う人が採用できません。理想として男女が一緒に働く現場を作ろうにも、結果として大手人材産業を使うしか方法がないんじゃないかと思います。

 SES企業なども当たりましたが、見事なまでに女日照りになっていて、なかなか大変です。

 じゃあ足回りの開発はオフショアで、となると、これがまたエンジニアの85%ぐらいは男性です。まあ海外だからいいか、という話になっちゃうわけですね。

開発残酷物語 https://www.atmarkit.co.jp/ait/series/4403/

 「ものわかりのいい女」以前に、キャリアを積んで能力的にたぶん合致する女性がマネジメント層にはそもそも少なく、そういうキャリア開発を女性にしてこなかったからだと綺麗ごとを言われても研究室レベルでそもそも女性が少ない状況ではどうにもなりません。仕方なく、デザイナーさんなど女性が多い職種で女性を増やして全体の採用における男女比率を均衡させることになるわけですけど、それって本来お前らの求める男女参画だったのでしょうか。

 これが、さらにエンジニアリングや貿易実務のところまで来ると女性の責任者自体が海外でもいないという事態になるわけですけれども、外資系企業はどうやってるんでしょうね。

同一労働同一賃金
https://www.mhlw.go.jp/hatarakikata/same.html

 ようやく同一労働同一賃金にはなる方向にいったものの、このあたりのジレンマを政策的にどう解決するのかは是非もう少し議論して欲しいものです。マジで。

山本一郎既刊!『ズレずに生き抜く』(文藝春秋・刊)

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 教育関係の人たちから酷評と絶賛という二つの不思議な評価を得ている本書が話題になっていたので、手に取ってみたわけですよ。

 我が国の教育改革に対する教育学者たちの反駁、反論、反証の書であるので、教育専門家しか読んでて分からないかと言われればさにあらず。東洋館出版の編集者も苦労をしたのか、わざわざ強調すべき個所はしっかり太字にされていたり、目が滑りそうな表現はしっかり字句を開いたりと工夫の跡が散見されます。素晴らしい。



流行に踊る日本の教育』(Amazonリンク;東洋館出版社)

 なぜか楽天ブックスでは取り扱いがないのでAmazonリンクでどうぞですが。

 一章一章読み進めるごとに、教育学に精通しておられる各著者の主張に、おおいに膝を打ち、首肯し、そうだよなあと共感する部分が多々ある一方、言及されている内容がほとんど個別のケースの積み重ねによるものであって、これといった論拠、根拠がないものも多々並んでいます。受け止め方が、実にむつかしい。読み手として、それは単に「あなたの感想ですよね」と感じるものもあり、おそらくは教育の現場から乖離した我が国の教育学の在り方の問題の見本市的なところもあります。

 本書で貫徹されているテーマは、新しい学力観からPISA、アクティブラーニングにSTEAM教育といった、現在教育界で吹き荒れているテクノロジーによる教育メソッド大改革を、我が国の教育学・教育界がどう受け止めるのか、です。そもそも我が国の教育は大部屋で画一的だから新たな教育方法を模索する必要があるのだ、というsociety5.0的な教育改革には非常に懐疑的な立場から反論を投げかけ、我が国の教育は決して失敗ではなかったとし、うまくいっているものをなぜ正当に評価せず、いま変更する必要があるのかと明確に問い直しています。

 さらに、STEAM教育など流行の教育キーワード一つひとつの「煮詰まってなさ」を例示し、実際私が見ても何だか良く分からないSTEAM教育とは何であるべきか、それを現場の初等中等教育に降ろしてきたときに、現場の学級経営にどういう混乱が起き得るのかという点についても非常に詳しく例示しています。

 とりわけ、第3章が象徴的でしたが、神戸大学の川地亜弥子さんの教育方法論的な観点からの「読み解き」を協同授業として見事な成果を挙げてきたプロセスについて解説しています。

 本書では、全編を通じて今の日本の教育がテクノロジーや世界的潮流から揺さぶられていることに対して、教育学をずっと見てきた人たちからの魂を感じるようでもあります。我が国が戦後営々と培ってきた教育資産を軽く見るな、と。


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 読んでいて悩ましいことを簡単に言えば「言いたいことは分かった。だが、まったくその教育論の出口が見えず、目標があいまいで、そこにいたる議論ですら『その著者・学者の情念とべき論』でしかなく、第三者に分かる根拠がないじゃないか」ということです。

 STEAM教育など欧米の教育論を生半可な形で日本の学びに移植しようという雑なもので、弊害が大きいぞという主張は良く分かった。だが、我が国の科学技術を支える教育の体系を支えるべき学校の現場はどう改善されるべきなのか。理想とする学校教育の目標は何に設定されるべきで、どういう手段があるのか。

 OECDが実施しているPISA(キーコンピテンシーの枠組み)が迫る、我が国の学力観の転換がさしたる意味を持たないという主張は良く分かった。だが、そもそも日本の教育が失敗していないという根拠はPISAで諸外国に比べて日本の評点が低くないことではなかったか。PISAから離れて日本社会に見合う客観的な評価基準は何であるべきで、それはどう達成するつもりなのか。

 個別学習のような仕組みはかつて日本の教育でも試行錯誤され蓄積されており、より人間らしい子どもを育てる教育に充当されるべきだという主張は良く分かった。だが、より子どもたちの包括的な人間力を教育の現場が強化すると言われても、それは結局は綺麗事であり、教育の現場に課題を押し付けているだけで、目指すべきものの具体的な提示はされていないのではないか。

 つまりは、いまの「教育改革」が教育の現場から乖離し、子どもたちが健やかに人間的な存在として貴重な若い時間を学校で過ごすことに重大な意味を持たせるためにどうすればいいのかという議論が欠落したまま、合理性、効率性だけが追及されてテクノロジーが追加されることへの警鐘です。確かに、いまの日本の公教育の現場で「STEAM教育です」と言ったところで、クラスに日本語がイマイチ分からない子どもが三割ぐらいいる現状ではファシリテートしなければならない教師の負担はぐんぐん上がっていきます。

 そして、教師がブラック職業の最たるものになるのは本書でも指摘される通り「学校が担うべき役割の線引きが希薄化している」からこそ、家庭内での躾から学校内外での治安見回りまで学校に押し付けられ、さらには部活動という事実上の子守りまで学校が担うことになっているのはもっと論じられなければなりません。

 しかしながら、これらの学校での情報化やテクノロジーの利活用について、もっぱら人間性育成至上の教育の対比としての効率化・合理化批判が本書で行われ、あたかもビジネスパーソンを育成するための公教育で産業界の要請に教育界が引っ張られているかのような議論がなされているのには根本的な疑問があります。

 例えば、STEAM教育の一環として行われるプログラミング教育や、専科教員も動員して行われている語学教育についても「産業界の要請」がベースとなって行われているものだと論述されていました。もちろん、まったくビジネスベースではないかと言われればそうではありません。ただ、いまどきスマホでやり取りするのが当たり前になる中、プログラミング思考、つまり段取りを考え適切な手順に則って物事を解決する仕組みは日常生活で当たり前のように使われていくべきものです。従来の日本の教育の枠組みに足りていなかった概念であるからこそ、STEAM教育(というちょっと訳の分からない仕組み)の一端としてプログラミング教育が必要である、せめて先を見繕って段取りを整えたり、試行錯誤を繰り返したり、最低でもスマホのフリック入力ではなくキーボード入力も当たり前のようにできるようになってほしいという考えであることは自明です。

 さらに、個別学習においてAIの利用を忌避するような表現が本書では随所に見られるわけですが、これは効率至上主義なのではなく、単純に教師が教室経営の一環として個別学習をなるだけきめ細かく行い学習効果を適切に高めるためにツールとして人工知能を利用しようという話です。あたかも人工知能が導入されれば学校の教育現場で自動的に子どもたち個別の習熟度別のカリキュラムが供出されて教師のやることが無くなる、と本書が言外に指摘しているように見えているのが主張の本旨であるならば、おそらく本書の執筆者のほうが、よほど世の中の人工知能万能論を信じ込みすぎています。あくまで、校務データから学習支援AIというものは教師が子どもの状態を確認したり、より良い教育を行うために質を高めるために教師が主体となってAIを使うというやり方になるはずです。

 経済産業省「未来の教室」プロジェクトにおいては、特に従来型の教育は大部屋で画一的な授業を行うことに対する行き詰まりを解決するために、個別学習を行えるための技術導入を行い、Society5.0時代に相応しいインフラを整えていく中で「ハードだけあっても駄目で、そこにどういう教育的なソフトウェアを用意し、教師のファシリテーション能力を支えるか」が主眼だったのではないかと思います。

 他方、文科行政においては特に日本会議ほか政策立案に大きな影響力のある人が根拠のない教育論を現場に広めようとしたり、自称有識者の思い込みを真に受けてカジュアルに現場へ介入して、ただでさえやることが山積して疲弊している教育の現場が振り回されることのないよう、教育の情報化についても自律的で抑制的かつ段階を踏んだ導入をしていかなければなりません。しかし、コロナ禍のおかげで学校が休校になり、カリキュラムの消化が追い付かない事例もあることから、文部科学省も「学びを止めない」方法論としてICT技術の利活用を推進していかなければならない立場になりました。

 そうなると、本書がいみじくも問題提起した「流行に踊る日本の教育」と主張している側が、結果として「アンテナの低い教育学者」になってしまいかねないリスクがあります。少なくとも、本書で例示されている議論は非常に示唆に富み解決していかなければならないものが多い一方で、前述の通り「我が国の教育をどのように導いていくか」という視座と、論述を信じ支持するに足る根拠がまったく欠けています。論述はあっても、論の目的(出口)と論の根拠双方が乏しいので、なぜ今の教育改革は否定されなければならないのかの是非は執筆者の主観と読む側の受け取り方で決まってしまいます。

 本書は全編を通じてほとんどの議論が個別の研究者の主観によるもので、うまくいった教育の在り方があったとしてもそれがなぜうまくいき、どのくらいの子どもたちがいかなる育成上の成果に結びついたのかという客観性がないため、批判的に本書を読むと全否定になりますし、読み手の側が価値を読み解こうとすると全肯定になります。しかも、数値的なエビデンスがなければ到底納得できないような議論でさえ、最低限の科学的思考がなく再現性があるのかすら読者には分かりません。これでは、単に毎年クラス替えの際に保護者や子どもが「当たりの担任が来ますように」と祈る公教育の問題解決には資さない議論になってしまうのではないでしょうか。

 おそらくは、冒頭の「本書を読んだ教育者・教師が、絶賛するか酷評するかの二択」になりやすい本書の特徴は、この辺にあるのだろうと思います。その点では、非常に優れた問題提起を各分野において詳細に記した非常に素晴らしい良書に感じます。

 蛇足ながら、この本を読まれるにあたっては、前提知識として「流行に踊っている側」としての経済産業省の浅野大介さんと文部科学省の合田哲雄さんが対談しているこのサイトを読まれると超立体的に理解ができるのではないかと思います。

 正直言うと、根無し草と揶揄されながらも政策官庁として先進的な政策を主導する経産省と、政策官庁への脱皮を図る必要に迫られながらもいろいろ大変な文科省とがなぜ未来の教室をやり、GIGAスクール構想を掲げ、学校教育の現場に個別教育のアプローチをテクノロジードリブンで求めているのかはよく理解できます。

政策特集チェンジ・メイカーを育てる 『未来の教室』 vol.7
「予定調和」を乗り越えて 文科省vs経産省 これからの教育を語り合う【後編】
https://meti-journal.jp/p/319/

 他方、現状での公教育の現場の荒廃や、教員になりたいという若者の減少に伴う教師の社会的地位の低下、二重権力状態になっている各地の教育委員会の弊害、さらには高大接続・大学入試改革にいたる現状の我が国の学力観まで、かなり網羅的な内容が理解されないと本件政策論は解されないと思います。

 つまりは、本書では経済的要請とまるめて書かれていますが、真の問題は大学入試・東京大学に何人入った、国立医学部が何人だという「スコア」で学校の評価が決まり、よりよい教育を求める人たちは公的な学校教育に多くを求めなくなっていく状況で、まずは中学受験が都市部では重視されるのは本書で本来語られるべき「日本の教育学の自己批判」に本来は繋がるべきものなのかなと思います。これは、学習塾はなぜ必要とされているのか、その学習塾はどうして進学実績を公表して入塾をアピールするのかを考えれば自明です。

実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関のあり方 審議まとめ案に対する意見
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/attach/1356054.htm

 文部科学省において、冨山和彦さんが提起した問題意識・テーゼに対して、本書は示唆的である反面、将来をどうすべきか、具体的なビジョンを根拠づけていく作業をぜひ進めて欲しいと願います。

 個別学習・指導の件で、本書においてはあまり多くは支援学級・学校やギフテッド教育については触れられていませんでした。今後、学習ログやe-ポートフォリオ「的な」議論は多々出てくるかと思いますが、いわゆる才能教育(ギフテッド教育;才能教育)については『才能教育の国際比較』(山内乾史・編著 東信堂・刊)がやや網羅的だったのでご関心のある人向けに掲示しておきます。






才能教育の国際比較(Amazonリンク)

 蛇足の蛇足ながら、この手の実証研究においては中室牧子的教育経済学の観点は政策論争では必須のはずが、本書ではほっとんど出てきません。また、安藤寿康せんせが示したような行動遺伝学的なアプローチに対する論考もゼロです。

 本書第9章では、杉田浩崇さんが「エビデンスに基づく教育」としてRCT(ランダム化比較実験)を二重盲検的なアプローチで教育政策の論拠にすることを批判的に論述していますが、批判としてはイマイチ謎で、因果推論の方法だけでなく経年的な追跡調査の是非や、アンケートパネルなど教育効果を確認するための手法として取れるデータは多数あります。おそらくは、紙幅の関係で触れられなかった論点があったのかなとも思いますが、まさに本書は「教育改革において、エビデンスに基づいて政策が組まれ、学校教育に新たなテクノロジーやネット環境が導入される」ということが起点であるので、個々の論争ができるようにしてほしいと強く感じました。

 いずれにせよ、教育の問題については子どもを持つ親の身として切実で、教育改革の如何によっては子どもたちが社会人になるころ貧しい日本から海外に出稼ぎに行かなければならないような経済環境になりかねないという危機感をもって取り組むべきものだと思います。本書では、そういう改革の中身について実際に教育を研究されている方が項目別に真正面から論じているという点で、高い価値のある議論ですので、ぜひご関心のある方は手に取ってみていただければと願います。



山本一郎(やまもといちろう)YouTube

やまもといちろう文春オンライン記事一覧
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 さっき「川上量生さんが与太話をネットに書いている」というので見物に行きました。

 そしたら噂にたがわぬ与太話だったので、原理原則のところだけ読み解き方の記事を書いておきます。

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 まず、一連のアメリカのSNSだけでなくAWSなどのクラウド事業などからもトランプさん関連・陰謀論に与する情報サイトなどが事業者の判断で契約解除や発言削除、防弾ホスティングの無効化など行われ、ネットから駆除されようとしています。

 事業者の立場で見るならば、すでに何度も警告され、実際にアメリカの議会襲撃にまで至り死者まで出してしまった本件について、扇動的な書き込みをしたと判断されるトランプ大統領やその支持者、および陰謀論サイトの主宰者などは、利用規約違反の状態が続いていたため、看過できる状況ではなくなったため事業者の判断で契約解除や削除などが行われた形になっています。

 ただし、これは法律に基づかない執行であるということで、ドイツのメルケル首相が「望ましくない」と発言しましたが、この場合、法律に明記する場合何を中傷や陰謀とし、その流布やデモ・暴動の唆しがどこまで行われたのかを判断する裁判所が緊急避難させる線引きをどう用意するかという議論は置き去りになっています。

 プラットフォーム事業者に契約解除や削除の権限を与えてネットの自由な言論空間にも一定のルールがあると示すことを是とするか、プラットフォーム事業者のような民間企業が実質的な事後検閲を行うことよりも法律による線引きを用意し削除などの緊急避難を司法判断に委ねるかは、おそらくこれからの議論になることでしょう。

 一方、俺たちの川上量生さんは「ついに自分たちが行ってきたブロッキング議論に時代が追いついてきた」などと与太話を飛ばしています。川上量生さんの記事にツッコミどころは多数ありますが、本質的なところで言えばトランプさんや陰謀論サイトの削除や問題SNS事業者の契約解除は、具体的に面白人物たちの議会突入と殺人事件が発生したという具体的な事件も引き金のひとつになっています。アメリカ政治における21世紀の最大の汚点のひとつとまで評される理由は、結果的に、言論の自由もある中で陰謀論が野放しになってしまった結果が信じた面白人物によるテロ・殺人事件に発展したことにもあります。

 まがりなりにも、国民が選出した大統領が、まさかSNSで自ら陰謀論やフェイクニュースを垂れ流すことなど制度上担保されていなくても当然です。

 川上量生さんのいうブロッキング議論は、商品である漫画などの著作物に対して海賊版サイトが登場したことへの対抗策であって、そもそもが著作権、すなわち財産権に関する問題が発端です。

 これが通信の秘密の侵害や電気通信事業法への抵触があってもなお正当とされるのは、人身に危険がもたらされるような重大な事項であるなど緊急避難の対象となるかであって、児童ポルノですら緊急避難とするべきか議論が分かれたところ、単なる財産権である著作権侵害が緊急事態にあたるはずがありません。

 しかしながら、川上量生さんはこれらのアメリカでの陰謀論をきっかけとする政治事変と、彼らの商品である漫画の海賊版サイト対策とを同列扱いとしたうえで、川上量生さん自身が言ってきたブロッキング議論のとおり本件が処理されていると豪語するのは、与太話以外のなにものでもないでしょう。

 ブロッキングと契約解除(BAN)の違いも明確ではないようです。川上量生さんは大丈夫なのでしょうか。

 近ごろ、川上量生さんの発言を正面から取り上げるメディアも少なくなったのか、4Gamer.netから引き抜いてきた平信一さん主宰のメディアで持論を述べていたようです。落ちぶれ方が半端ない印象がありますが、それはアンチがどうとか誰の責任だという話ではなく、話していることが与太話である以上、超大手企業の経営者という肩書でもない限り価値の乏しい与太話を掲載してくれるメディアはないということではないかと思います。

 川上量生さんの長寿と繁栄をお祈り申し上げております。

山本一郎既刊!『ズレずに生き抜く』(文藝春秋・刊)

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毎年いろんなことがあるなあと思いながら迎えた47歳でしたが、まさかコロナウイルスの流行で皆さんと一緒に動揺しながらあーだこーだ言う一年になるとは思っていませんでした。

 やろうと思っていたことがいくつも吹っ飛び、友人だったはずの人たちは実は友人ではなかったことを知り、逆に新たな取り組みで素晴らしい仲間が増え、いい歳してまた新しいことに挑戦しようという気概が湧くのは私の良いところなのでしょうか、改善すべき難点なのでしょうか。

 今年も無事にお誕生日を家族に祝われる一方、もう歳を重ねても新たな感慨を抱くこともなく、むしろ家族の健康を悦び、子どもたちの成長を慈しみ、家内と手を取り合って暮らしていくことこそ大事なことなのだと改めて思ったりもします。



 コロナの影響で家にいるのに逆に親父やお袋にもなかなか会えない日々が続き気を揉んだりしましたし、三兄弟も団子になってゲームをして遊び、机を並べて学んでいる姿を見ながら暴れる長女を抱っこしていると「この子らが巣立つのを見届けられるように、頑張って生き抜いていかなきゃなあ」なんてことも思います。そのぐらいには、重ねた年齢は自分ひとりの人生のためではなく多くの人たちの行く先を未来に繋ぐためにあるという柄にもない自覚を強く持つようになりました。

 テーマとして、美しく老いるっていう垂れ幕もそろそろ見えてきたところでしょうかね。当面は、若い人たちや勢いのある事業家らと一緒にいる機会も多いので、いかに老害にならないか、それでいて、勢いで車輪の再発明を喜びそうな連中の横で大人の役割をきちんと果たすかを考えていきたいと思います。

 神と家内と子どもたち、祝ってくださる家族や友人たちに限りない感謝を。この世にあるものすべてに愛情を。なによりも、この文章を読まれた方にもそうでない方にもご多幸と神の祝福があらんことを心よりお祈り申し上げますとともに、今年も一年、よろしくお願い申し上げます。

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