そもそも3~7月のあたりは能繁期などと呼ばれ、舞台の数が多いのですが、本年は私にとって大変勉強になる機会が多くありました。
曽我兄弟の仇討ちの話「小袖曽我」ツレ(準主役)、平家滅亡後に出家隠棲した建礼門院を後白河法皇が密かに訪ねた話「大原御幸」ツレ、禁漁により殺された漁師の話「鵜飼」シテ(主役)、身の上の辛さを嘆く安達ヶ原の鬼の話「黒塚」シテ、青年が邯鄲の枕により悟りを得る話「邯鄲」シテ…
いずれも、人は何の為に生きるのか、ということを深く考えさせられる曲でした。
邯鄲の主人公、盧生(ろせい)は隣の国の偉い僧に「生きる意味」といった教えを乞いに行くのですが、途中で泊まった宿にある“邯鄲の枕”で寝ることで、とある夢を見て悟りを得ました。
その夢というのは、自分が皇帝になる、というもの。それも中国の皇帝、全ての権力や財は我が物で、欲という欲は満たされる立場である。正に酒池肉林、贅の限りを極めた生活をするが、気が付くと在位50年もの時を経ていた。
すると突然、視界からすべてが消え去り、夢から目覚めた盧生は「何事も一炊の夢」と悟り、人生は儚いものだと知った。
一炊(いっすい)という事には、盧生の見ていた50年もの王位の夢は、たった飯の炊ける間の出来事だったということ。
長生きは幸せなのか
能「邯鄲」の盧生は、皇帝として酒池肉林の贅沢三昧を明かし暮らした50年間の歳月を、たった飯の炊ける間の儚いもの、と感じた。途中、臣下が長寿の酒を持ってきて飲むのだが、仮に何百年も生きながら得たとしたら、どうだろうか… すべてが思い通りになる中、何のために生きるのだろう。長生きといえば、手塚治虫さんの「火の鳥」を思い出す。“火の鳥”という鳥の生き血を飲めば永遠の命を手に入れられるというもの。さて、永遠の命をもってして何を望むのか。それは快楽でしかない。そして永遠の命を持つということは、同時にこの世の終わりを見るということ。決して幸せとは思えない。
長生きにも限度がある。おそらく時間の長短は問題ではない。愛しい人や家族と共にありたい、目標を達成したい… という目的を持った生き方こそが、本来の幸福の姿であり、満たされていることは不幸なのだと私は思う。
盧生は邯鄲の枕の知識によって“人生の儚さ”のほかに“幸福とはなにか”を見つけたはずである。儚い時の中に生きる意味を見出だすこと、これが大事といえる。
不老門前日月遅とは
邯鄲の謡に「不老門の前には日月遅し と言う心を学ばれたり」とあります。不老門(ふろうもん)というのは中国の洛陽にある城門の一つということですが「門をくぐると時の流れが遅くなる」そうです。つまり、歳をとらない。 君主の長久を願い祝うために作られたのでしょう。縁起が良く、我が国日本でも昔から慣れ親しまれている言葉のようです