月別アーカイブ / 2018年07月

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笹の葉さらさら なんて題名のブログを書きかけて、下書き保存にしたまま時が流れておりました。この一週間、灼熱のように暑い毎日が続いて外の植物も我が体も干からびている。皆様はいかがお過ごしでしょうか。
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私は先日から、芸術センターで行われている夏の子ども教室の講師を勤めている。これは能楽の普及事業として、小学生から中学生の子どもを対象に毎年募集されているそうだ。1日90分の5日間の稽古を経て舞台に立つことができる、正に夢の企画である。

求められる内容は、仕舞や囃子を舞台までに繰り返しくりかえし稽古をして、ひたすら覚える事。

もしかすると子どもには能の本質部分を理解することは困難かもしれない。しかし、いずれ彼らが大人になってこの体験を思い出し、"能に触れてみよう"なんて思わせたらば、この事業はそこで成功したといえる。

その後、彼らは能を観に能楽堂もしくは薪能へ行く。そのとき初めて能楽師の真価が舞台上で問われる…決して今ではない。嗚呼、なんて遠い道程。いつも能の舞台はそこにあるのに、という悲しさ。普及とは何ぞや。

今はわからずとも、いつかはわかる。そういう世界はきっと存在する。

この普及は遠くもあるが近道でもある。私はこの催しが数ある能楽の普及事業の中では結構価値の高いものだと思う。折角の普及事業なので、是非多くの方々に参加をしていただきたいものである。


それにしても子どもの吸収、呑み込みの早さには驚かされ、また元気に圧倒されている。己の老いを一瞬感じてしまったことは悔しい。残りの2日分の稽古も、負けじと頑張ろう。




いよいよ梅雨が本領を発揮した。濡れた草木や雨音の心地良さはあるが、なかなか散歩という気持ちにはならぬ

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能「望月」…を振り返る

先月は潤星会に御来場の皆様、誠にありがとうございました。無謀な挑戦から早くも2週間以上が経ちて候。こうして、また恐ろしく早い時の流れを感じている。不思議なもので、一難去ればまた一難、次から次へと降ってくる。大きな難題が過ぎれば、次に大きな難は、もはや最大なのだ。難無き人生は無いといえる。

_var_mobile_Media_DCIM_114APPLE_IMG_4355.JPG上写真:花若<いざ討とう>のあたり

役者にとって舞台の成功・失敗に関しては答えにくいものがある。個人の芸の出来不出来は師匠が評価すれば良いが、舞台の成功においてはどうか。これには能楽師側と客席側の視点によって異なることもしばしばあるらしい。今回は、助演の役者による素晴らしいサポートにより、舞台は滞りなく勤められた。この点から、成功と言いたい。

さて、いち能楽師として「望月」の能に求められるべき芸を勤められたか。これに関していえば、成功とは言い難く、むしろ失敗であっただろう。

先ずひとつに、役に負けた。望月のシテ小沢友房は"何があっても動じない大人"で花若の<父に会いたる心地して>という台詞を言わせる程の、いかにも頼りがいのある父らしい風格が出し切れなかった。ただの若者に写ったはずだ。これには悔しくも望月を舞うことが決まってから、大先輩に言われた言葉を思い出す。

"望月を舞うのか。早すぎるわ。もっと君が舞うべき曲があるはずだ。望月のシテは武士の宿屋の主人だからね、もっと人生経験を積んだ人が勤めるべきものだ"

直面の能では、素の顔を面として使用するため、雰囲気や風格は己自身をさらけ出すことに等しい。若さや芸の未熟さなどがあった場合、それらを補うことは厳しい。逆に能面を使用するれば、それらを補うことは技術によって可能である。改めて能面の持つ力を感ぜずにはいられまい。この望月という曲では、身体から湧き出てくる風格が無ければ勤まらない、つまり能「望月」として成立しない、先述の大先輩は、それが言いたかったのであろう。
_var_mobile_Media_DCIM_114APPLE_IMG_4364.JPG上写真:獅子舞のところ

しかし、それは勤めなければわからない事でもあった。身の丈に合わぬ舞台も、勤めてしまえば良かったことばかりである。実際に稽古や舞台に対する試行錯誤の数々は有意義なものであった。また、大曲は当日を勤める事に意味があるのではなく、勤めるまでに本当の意味があると云われている。実際、初めての披きである石橋や、昨年の乱の稽古は苦労し、また何よりも、基礎が大切である意味を思い知らされた。
_var_mobile_Media_DCIM_114APPLE_IMG_4358.JPG上写真:獅子舞のところ

今回収穫となったことは、舞台の経験は言うまでもなく、これを機に思うようになった事。それは、すべてが挑戦でよい、ということ。今の自分が十分な能を舞ってやろうなんて思うても、おこがましい。先人や諸先輩方にすれば、ケツの青い若造に能の何がわかるのか、と笑われてしまうだろう。
挑戦において、それは当然、能楽師としての最低限の芸の上に成り立つものである。何をしても良いということではなく、玄人としての良識は持ちながらのことである。

そして会を支えるお客さまに対しては、自分の能を観て、心に響いた・感動したと1人でも多くの方に感じていただきたい。またそう思うて頂ければ、自分は舞台に立つ喜びを覚える。
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上写真:望月を手籠めにするところ

恥ずかしながら、何があっても動じないような友房を演じていたはずが、内心はワキの森常好さんの望月の風格と威勢に気負いした自分がいた。これには、まこと、道半ばと思わざるを得ない。


長々と書き連ねましたが、ここまでご高覧頂き有難うございました。


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