この曲の眼目となっている「獅子」は文殊菩薩が乗る霊獣獅子が牡丹の花に戯れ狂うさまを模したものです。「石橋」「望月」「内外詣」の三曲があります。「石橋」は霊獣獅子が現れ戯れ狂うのですが、「望月」「内外詣」は宿の亭主、又は神官が舞う余興、奉納です。したがって演技の上でかなりの違いがあります。
獅子を舞う曲は3つあり、それぞれ曲の内容は別物ですから、獅子の舞い方も変えるべきだという話をよく聞きます。「石橋」の獅子舞は獅子そのもの、つまり生き物を演じる為に、力強く且つ俊敏に舞うことが必然となります(赤獅子において)。それ以外の獅子の出る曲(「望月」・「内外詣」)では、あくまで物真似の獅子の舞のため、生き物の獅子のように見せてはいけない。さらには「望月」は場面が座敷なので、埃を立てないように飛び上がらないとか、「内外詣」では神官が本業だから舞は下手に舞うなど…諸先輩方から色々とお話を聞いております。
が、私は先生から厳密にどうしなさいとの話は聞いておりません。従って如何に舞うか、どの意見を参考にするかを、己で選択していかなければいけませんので、少々苦悩しているのが実のところです。この「望月」においては、常に敵である望月に意識して舞う、討つ機会、隙を狙いながらの舞であることが最大の見どころであることは間違いありません。本番では、私の顔の向きや型に是非ご注目ください。
(上)楽屋での装束仕込みの様子
獅子を舞う曲は3つあり、それぞれ曲の内容は別物ですから、獅子の舞い方も変えるべきだという話をよく聞きます。「石橋」の獅子舞は獅子そのもの、つまり生き物を演じる為に、力強く且つ俊敏に舞うことが必然となります(赤獅子において)。それ以外の獅子の出る曲(「望月」・「内外詣」)では、あくまで物真似の獅子の舞のため、生き物の獅子のように見せてはいけない。さらには「望月」は場面が座敷なので、埃を立てないように飛び上がらないとか、「内外詣」では神官が本業だから舞は下手に舞うなど…諸先輩方から色々とお話を聞いております。
が、私は先生から厳密にどうしなさいとの話は聞いておりません。従って如何に舞うか、どの意見を参考にするかを、己で選択していかなければいけませんので、少々苦悩しているのが実のところです。この「望月」においては、常に敵である望月に意識して舞う、討つ機会、隙を狙いながらの舞であることが最大の見どころであることは間違いありません。本番では、私の顔の向きや型に是非ご注目ください。
石橋では獅子口という面をつけますが、望月では赤頭に金扇二枚を合わせた獅子頭をつけ緋縮緬の覆面をします。終曲にシテがこの獅子頭をとると白鉢巻の敵討ち姿が現れ感動的です。
本公演のチラシの表面、ネットで望月とググればすぐに出てくる赤覆面姿がそれです。宿屋の主人が一度幕に入り、獅子舞のための格好になって再登場します。この衣装や小道具は楽屋でシテ自らが準備をします。重習の初演(披き)の場合はそれが当然で、望月の場合は獅子頭の作り方を先輩から教わるのが伝統となっています。
石橋、乱を披かせて頂いた時も、作り物から装束に至るまで全て自分で用意をしました。自身初めての披き物は石橋でしたが、その時に大先輩から教わったことがあります。それは、舞台の上のことだけではなく、能面能装束、小道具から作り物、当日の楽屋の事まで気に掛けて、やっと"披き"なのだ、ということです。
能楽師の道の中では誰もが通過する"働き"という仕事があります。これは主に舞台を裏から支える役で、幕上げ、装束の準備、発送、片付け、荷物持ち、そのほか多くの雑務をこなします(主に内弟子修行の間が多いですが)。これを長く勤めるということが大切とされ、披き事の際にこれが活きてくるので、下積みが非常に重要なことを多くの能楽師が痛感するようです。見えない事ですが、それは恐らく舞台上の能楽師には勿論、見所のお客様にまで伝わるものが在るのです。
むしろ、そう信じることが若手能楽師にとって一種の救いでもあります…
働きに関しては、昔の記事ですが以下をご覧ください。
また、もう少し詳しい解説をご覧になりたい方は以下に祖父の望月の記事URLを載せますので、そちらをご参照ください。