常は不信心の者でも何か困難の際には仏の足元に平伏して助けを求める事を言う。
昨年夏に奈良の長谷寺に参拝した際、中の仏様を拝観したことを思い出す。小さいお堂の中を潜ると、巨大な仏様の足元に到達する。初老過ぎとみえる女性が正に仏様に平伏して懇願する姿を見つけた。その姿が僕の脳裏に焼きついていて、今でも鮮明に再現される。昔も今も変わらず、人の力ではどうにもならぬ事は、もう仏様に縋るしかない時があるのだろう。目には見えずとも、人の念や思いには強大な仏や寺を作り上げる力がある。これに畏怖の念を感ぜずにはいられなかった。
話が逸れたが、足元といえば、能楽師にとっても重要なものである。我々の世界では白足袋を履くことが原則とされている。この白足袋はぴったりと合う寸法のものが市販であれば万歳である。が、人の足の寸法はその性格と同じだけ存在するため、見つけることは難しい。足元を見られるとはよく言うたもので、神様人様の前で皺のある足元は宜しくない。素足であるが如くぴたりと合うた足袋が理想的である。最近、足の形が微妙に変わった為、誂え直した。誂え、是非お勧めでござる。
白黒は良い。映し出された対象物や風景の濃淡と輪郭がより浮き彫りになる。先に色の情報が目に飛び込まないため、写真に写る物の鮮やかさや力強さといったものを読み取りやすい。上は桜の写真だが、桜が美しいのは色が理由だけではないはずである。例えば、梅には見られない豪快で華やかな咲き方が、彼らの持ち味なのではないか。