
初対面の俺の家族。

昨夜、写真をまとめたFacebookページのアカウントに入れなくなっていた。見たことのない表示が出て「この写真を削除しないとアカウントを停止」と書かれていた。それは女性のおっぱいを正面から撮ったモノなんだけど、特にどうってことない写真だ。
Facebookの警告に初めて直面したのでやや驚いた。写真で描かれるヌードなどは常に「芸術かワイセツか」なんて大島渚時代の議論から進んでいないんだけど、あまりそこには興味がない。
俺は今までと変わらずにヌードを撮るし、あとは発表の場を考えるだけ。実際にヌードを撮った・撮られたことがある人はわかると思うんだけど、その場にワイセツな空気が漂うかというとそんなことはない。と、俺は思っている。他の人のことは知らないから一切言及しないけど。
「血の通った大理石の彫刻を撮っている」というのが率直な感想。俺はエロさというのを主題にしていない。人との関係にエロは含まれるけど、Facebookなどの基準を持ち出すとすれば、おっぱいが、いや、そういう言い方は下品かな。パイオツがダシマルになっているとエロで、見えていなければオーケーみたいなことじゃないと思っている。
俺はとにかくマニュアル主義が嫌いなんだけど、わかりやすい外見としての裸とエロさの本質はピッタリとは重ならないよね。またそこに日本独特の陰湿なエロ原理があって、ウエストコーストっぽいマチズモに俺たちのピョン吉が何も反応しないことに似ている。
友人に変わったヤツがいた。冬が好きだそうで、理由を聞くと女性が厚着をするからだと言う。着ていれば着ているほど興奮するらしい。理想は?と聞くと「宇宙服とか剣道着」と答えた。彼の変態性はとてもオリジナルだ。おはようございます。
デザインだけしていたときよりも写真家の知人が増えた。写真を撮っている人の気持ちは、写真家にしかわからないのかもしれない。やっていることは全然違っていても、本質的な部分で共感できることがある。
幡野さんとは今回が初対面。以前から写真の良さと自然に向かう姿勢を尊敬していた。狩猟をする幡野さんのfacebookの写真に「動物が可哀想」みたいなコメントが書かれたことがあって、俺はとてもイヤだなあと思った。
俺たちは毎日、鶏肉、豚肉、米沢牛、松阪牛、但馬牛、飛騨牛などを食べている。それはどうしたって「人間のために殺した動物の肉」って事実からは逃れられない。それなのに幡野さんのさばいた動物の肉に対してそういうことを言う。
これはある種の論争を呼んだんだけど、俺は動物や自然やそれを撮ることに幡野さんがどれだけ考えたのかがよくわかる。たまたま投稿を読んで「可哀想」と言ってしまう人よりも。
スーパーで並んでいる肉のすべては、誰かが血を浴びて肉のカタチにしてくれている。死んだウサギとか鴨とかの写真を見たくない気持ちはわかるけど、見なければなかったことにはならないんだよ。
写真は欲望であり、インテリジェンスであり、モラルである。だからいい写真を撮る人は無条件に尊敬するのだ。実際に会ってみるとやっぱりゴツくて暖かみのある、いいカンジの人だったよ。