月別アーカイブ / 2016年06月

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俺は子供の頃、保険が下りるほどの人見知りだった。克服したのは36歳くらい。人格は変わらないとか言うけど、その気があれば強引に変えることができると思っている。

デザインは深夜の誰もいない部屋で自分の内部と葛藤する仕事なので対人スキルなんかなくても根暗上等で成り立つんだけど、写真を撮るのは衆人環視の状況で他人と対峙するのでそうはいかない。アホみたいに人なつっこければいいということでもない。そんなのは相手に見透かされる。

撮っているとき現場にいる皆が「あ、今のはよかったんじゃないか」とわかる一瞬がある。その時はステージの上に立っているギタリストみたいに気持ちがいい。パフォーマンスとして途中経過も見せる仕事がカメラマンで、デザインは徹夜で何百回もやり直した結論である「最後の一つ」を唐突に見せる正反対の仕事だ。

その計算し尽くされたエレガントな驚きもひとつの魅力なんだけど、どこかに割れたガラスの形のように二度とない偶然や、相手のチカラでこちらが変化させられてしまう、推測不可能な広がりが欲しい。

だから目の前に現れたモデルがどんな人であろうと、その人の人生に数秒でチューニングする。「私はこのカメラの前に立っていて大丈夫なのだ」と思われればそれでいい。

写真は昨夜撮影した、ペンシルバニアから来た13歳、アナ。

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誰かを褒めたいときに、その反対の人を貶す方法は賢くないよね。ここはカジュアルに「モテ」に絡めちゃうけど、モテる人を観察していると当たり前なんだけど他人を貶さない。

貶す、という行為は立場の違いを言っていることが多く、自分、もしくは自分が属するコミュニティを褒めたいというキツ目の意識の現れから「コミュニケーションが取りづらい人」と認識される。

モテる人の肯定力・肯定の寸止め力というのは素晴らしい。否定せず肯定するっていうのはわかりやすいんだけど、すべてを肯定してしまうと安っぽいから寸止める。ここは一番スキルがいるところなのでメモっといて。

寸止めは言い換えると客観性。客観性のない過激な好き嫌いを言う人と関わると、たとえ味方になったとしても危険だという信号を受け取ってしまうことになる。ネガティブなのは論外として、ポジティブであろうと、これがモテない理由になってしまう。

九州の和食屋さんで「これは目の前でとれたアワビ、これは近所の沖合でとれた魚ですが、ウニだけはこの時期一番美味しい北海道から取り寄せました」と言われたことがある。これです。自分の地元の産物に誇りを持ってはいるけれど、客観的な評価軸を別に持っている。ここに人として信頼が持てるわけです。

自分が好きなモノを盲目的に褒める人はとても気持ちが悪い。九州を褒めるために北海道を貶す必要はないとわからない人とはつきあいにくい。モテとはそういうことじゃないかと思っています。

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写真を撮っていると、その行為は俳句によく似ているなあと思うことがある。17文字の凝縮された世界と1/1000秒の選択。 連続した52年間の中、自分が選んだ1/1000秒のみが写真になる。もちろん大量に撮ってはいるんだけど、できた句を選ぶのと同じように他のモノはすべて捨てられてしまう。 能力が向上する多くの部分は撮ること、作ることじゃなく「選択の目」なんじゃないかと感じる。選択する目と揃ったペースで技術が向上すればいいんだけど、目の進化の方が速いから自分がヘタに感じてしまう。 目が自分の能力に苛立ちを感じたときは、すべてを忘れたつもりになってゼロから始めることを繰り返す。慣れてうまく行く方法を捨てる。 秋に東京と福島とParisを並列にした写真展をすることが決まった。本格的な撮影は次回だけど、取りあえず来週は初めて行くように自分の目と脳を騙して、Parisで撮影をしてくる。いまだに毎日専門学校生と同じようなことをしている。 おはようございます。

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