
ある試算だと、富士山より高い山は「世界に17500ほどある」という。連峰をどこまで区切るかなど定義は難しいらしいんだけど、まあそんなところだ。
それを我々は日本一である、世界で見ても素晴らしい山である、と誇っている。この「我が家で一番メカに詳しいのはお兄ちゃんだ」という理屈を「客観と愛情」に分けてみる。
客観性が簡単なのは事実を数値化できることで、これは誤魔化しようがない。問題は愛情に関わる部分で、子供が「僕のパパは世界一」と言うのは間違ってはいないということ。自分にとって唯一の存在であるんだから。
ただナショナリズムは愛国と優越と盲目を上手に使いこなすことで知られていて、我が国は素晴らしい国であるからして、野蛮な他の国を攻撃しても差し支えないと論理をすり替える。ここは幼稚園児の発言とは次元が違っていて、注意しなくちゃいけないところ。
でも、富士山より高い山が世界に17500あると認めたくない人々は、それをないことにしてしまう。だって富士山は素晴らしいじゃん。と主張するのが愛情ならそれでまったく問題はないけど、愛情が暴力的な客観に変化していることに気づかないと危ない。
日本がバブル景気で盛り上がっていた頃「日本はスゴい」とは言っていなかった気がする。客観的事実をお金で示せたから。経済状況が悪化している現在の方が、クール・ジャパン的な拠り所を求めて「取るに足りない自分」を何かで修飾できないかと必死になっている。
他の家のパパを知り、うちのパパが別に世界一ではないということを知ってから子供は大人になって、反抗期を迎え、大人になるともう一度パパは自分にとって世界一の存在であったと感じる日が来る。
飛行機から富士山を見下ろすと毎回日本人が持つ愛情が発動されて撮るんだけど、イタリアン・アルプスも迫力がすごい。これも撮るよ。何かを愛することで何かを排斥する必要はまったくないと感じながら、おはようございます。