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【ご報告】

TDWの会場内で起こった事故により、最終日である明日は中止が決定しました。自分の展示についてはどうでもよく、怪我をされたりなくなった方がいらっしゃるということが、とても残念です。

事故が起きた頃に我々は会場内にいましたが、何のアナウンスもなく、もしごく近くで起きた火災などで延焼があれば危険だったことは言うまでもありません。事故の後も何事もなかったかのようにフィールドでは展示が続けられていました。

今日展示を観に来てくれた友人の中には、ベビーカーに乗ったお子さんもいました。自分が呼んだ展示会場で事故が起きたことはショックですし、その後の主催者発表には何も事故の経緯が説明されておらず、そこにいた自分たちが一番何も知らなかったというのが実際のところです。

とてもいい展示ができたのに、最後がこんなカタチで終わってしまったのは残念というしかないんですが、まあ仕方ありません。ご来場いただいた方、撮影させていただいた方々には心より感謝しております。明日の最終日の展示を楽しみにしていた方、申し訳ありません。

ありがとうございました。

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数日前、ウーマン村本くんから連絡があり「友人を撮影して欲しい」と言われた。土曜の夜にAbemaTVでオンエアしている「TheNIGHT」という番組に二人の友人をゲストとして迎えるのだと言っていた。

平松さんは若い頃からお世話になっていたテレビのプロデューサーで、森さんは元コンビの相方だ。二人はともに重大な病気を抱えていて、これから何度会えるかわからない。だから番組に呼んで「生きる意味」を話したいのだと言う。

深夜1時から始まる生放送の前に、青山のスタジオでお二人を撮ることにした。ほんの少し話しただけで村本くんとの関係や気さくな人柄が伝わってくる。

写真は好きな人を残しておくモノなんだけど、いつまでも健康で隣にいるという幻想のもとにある。結果として会えなくなってしまうことがあっても、それがいつかは誰にもわからない。でも、今回は「近い将来に会えなくなってしまうかもしれない」という理由がハッキリしている。

もちろんできるだけ病気が治ったり、進行を抑えて欲しいと思うから、村本くんの中にもここで写真を残しておこう、話しておこうと決めることはリミットを強く感じることで逡巡はあったと思う。俺にしてもそれがわかっている撮影をするのは初めてなので本当に緊張した。

お二人は番組の中で朗らかに、その立場じゃないとわからない多くの素晴らしい言葉を与えてくれた。俺も別にどういう気持ちで撮るかなんてどうでもよくなって、ただひたすら仲のいい人たちを撮ればいいのだと思って夢中でシャッターを切った。

3時に放送が終わり、スタジオを出るときに「来年も撮りましょう」と言っておいた。生きていることを更新し続けることは誰でも平等で、来年は俺もそこにいるかわからないんだから、と思うのだ。

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目があまりよくないドジな父親が、息子と二人で暮らしている。父親は古めかしいカメラでいつも一人息子の写真を撮り、疎ましがられている。時間が過ぎ、父親が撮っていた膨大な量のピンボケ写真を眺める息子。そこには幼い自分や亡き母や、育った懐かしい場所が写っていた。

そういうショートフィルムを観て「写真を撮ることは愛情」であることや、乾いた風景がこの前行ったテキサスの風景に似ていたので一通り泣いた土曜の昼です。

写真でも映画でもそうですが、表現はつねに自分を試される堂々巡りの旅です。どう生きているかがアウトプットされる。こうしたら新しいとか、こうしたらウケるとかいうノイズが時々生まれてくるんだけど、結局のところは自分が育った環境や考えていること、つきあっている人々の影響しかコアとして残っていかない。

ノイズに翻弄されたことを反省し、何度もスパイラルを辿って同じ地点に戻ってくる。その場所は平面で言うと同位置なんだけど、垂直の軸は少しだけ上がっている。毎日それの繰り返しです。

写真を撮っていると必ず誰かに会う。俺が撮ったという事実と、相手が撮られたということがリンクするのが写真の素晴らしい部分で、そういう仕事をしていられることを幸運に思うし、感謝しています。

表現として何もチャレンジングじゃないね、なんて言われ方はひとつも耳に入らない。逆に言うとそんなことしか考えずに写真を見ているのかと可哀想になる。俺がやっていることは、それまで知りもしなかった人を最初に書いた映画の家族のように撮ることで、そこにあざとい表現のエフェクトなんて邪魔になるだけだ。

今日はTDWで「初対面の俺の家族」を撮影し、夜はたぶん俺と友人の一生に関わる撮影をしてくる。誇張ではなく自分が写真を撮って生きていく上で重要な経験になるだろうと思っている。

男性であれば最大限の尊敬と共感を、女性だったらセックスしたように記憶して欲しい。俺にとって写真はビジネスなんかじゃなくてそういうことなんです。

みなさん、よき週末を。TDWで会いましょう。
http://tokyodesignweek.jp/ ブース:CA03

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昨夜、写真をまとめたFacebookページのアカウントに入れなくなっていた。見たことのない表示が出て「この写真を削除しないとアカウントを停止」と書かれていた。それは女性のおっぱいを正面から撮ったモノなんだけど、特にどうってことない写真だ。

Facebookの警告に初めて直面したのでやや驚いた。写真で描かれるヌードなどは常に「芸術かワイセツか」なんて大島渚時代の議論から進んでいないんだけど、あまりそこには興味がない。

俺は今までと変わらずにヌードを撮るし、あとは発表の場を考えるだけ。実際にヌードを撮った・撮られたことがある人はわかると思うんだけど、その場にワイセツな空気が漂うかというとそんなことはない。と、俺は思っている。他の人のことは知らないから一切言及しないけど。

「血の通った大理石の彫刻を撮っている」というのが率直な感想。俺はエロさというのを主題にしていない。人との関係にエロは含まれるけど、Facebookなどの基準を持ち出すとすれば、おっぱいが、いや、そういう言い方は下品かな。パイオツがダシマルになっているとエロで、見えていなければオーケーみたいなことじゃないと思っている。

俺はとにかくマニュアル主義が嫌いなんだけど、わかりやすい外見としての裸とエロさの本質はピッタリとは重ならないよね。またそこに日本独特の陰湿なエロ原理があって、ウエストコーストっぽいマチズモに俺たちのピョン吉が何も反応しないことに似ている。

友人に変わったヤツがいた。冬が好きだそうで、理由を聞くと女性が厚着をするからだと言う。着ていれば着ているほど興奮するらしい。理想は?と聞くと「宇宙服とか剣道着」と答えた。彼の変態性はとてもオリジナルだ。おはようございます。

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デザインだけしていたときよりも写真家の知人が増えた。写真を撮っている人の気持ちは、写真家にしかわからないのかもしれない。やっていることは全然違っていても、本質的な部分で共感できることがある。

幡野さんとは今回が初対面。以前から写真の良さと自然に向かう姿勢を尊敬していた。狩猟をする幡野さんのfacebookの写真に「動物が可哀想」みたいなコメントが書かれたことがあって、俺はとてもイヤだなあと思った。

俺たちは毎日、鶏肉、豚肉、米沢牛、松阪牛、但馬牛、飛騨牛などを食べている。それはどうしたって「人間のために殺した動物の肉」って事実からは逃れられない。それなのに幡野さんのさばいた動物の肉に対してそういうことを言う。

これはある種の論争を呼んだんだけど、俺は動物や自然やそれを撮ることに幡野さんがどれだけ考えたのかがよくわかる。たまたま投稿を読んで「可哀想」と言ってしまう人よりも。

スーパーで並んでいる肉のすべては、誰かが血を浴びて肉のカタチにしてくれている。死んだウサギとか鴨とかの写真を見たくない気持ちはわかるけど、見なければなかったことにはならないんだよ。

写真は欲望であり、インテリジェンスであり、モラルである。だからいい写真を撮る人は無条件に尊敬するのだ。実際に会ってみるとやっぱりゴツくて暖かみのある、いいカンジの人だったよ。

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