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闘病中の人を撮り、翌日に写真展で初対面の人を撮り、その会場で子供が亡くなり、翌日には幸福そうな妊婦さんを撮った。

否応なく「生きる意味」を考えさせられるここ数日。友人のカメラマンたちは俺より数倍のキャリアがあるから比較にならないけど、経験の浅い俺でも膨大な人数の写真を撮ってきた。

知り合う人が増えるほど幸福と不幸の知らせの両方に感情移入しなくてはならなくなる。でも圧倒的に幸福な方が多いからいいのだ。TDWでほんの一瞬カメラの前に立ってもらい、たった数回シャッターを切り、握手をして別れた人々は100人を超えていた。写った人はたぶん俺のことをずっと憶えているだろう。

昔、ロンドンに行ったときに初めて知ったのは「握手やハグをするとその人のことをより憶えている」ということだった。それから俺はそうしている。「袖振り合うも多生の縁」という言葉があるようにまったく無関係に暮らしているように見えて、知り合う人とはどこかで関係があるのだ。

鎌田ありさちゃん、堀潤さんたちの世界を股に掛ける動きを見ているとスゴいなあと思う。自分の目で現場を見て、膨大な人と出会って握手している人はどんどん視線が優しくなるんじゃないかと感じる。自分とは違う価値観を持った人が自分と同じように別の場所で生きている、と確認するほど他人を許容できるようになる気がする。

ネットで攻撃的な人を見るたび、近所のコンビニへの不満のようなものを感じる。ふれあうサンプルが少ないほど憎悪は凝縮していくのだろう。親がムカつく、クラスの友達が嫌いだ、というのは出会う人が少ない子供の頃だけでいい。大人になったら自分が嫌いだった友人なんて出会った人の数千分の一の数になるんだからね。好きな人を増やしていきましょうよと思いながら、おはようございます。

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自分が好きで「やりたいこと」に集中できると、他人のことが気にならなくなる。

自分がインディペンデントな存在であると思っている人は、属しているコミュニティに多くを望まない。会社員であれば会社に不平や不満を持つものだけど、それは「属している自分」がいつの間にか空中に浮いて、俯瞰で眺めてしまう間違いを起こす。これは客観性とは違っているし、集団のジレンマはそこにある。

昔から文壇バーなどという言葉を聞くと不思議な気がしたんだけど、小説家という孤独な職業だからこそ同業者と語る場が欲しいんだろう。独立した個人が集まってもデパート自体に意味はなく、全国物産展に出店しているお隣さんって関係なのかな。

もちろん自分がやりたいことは社会と直結しているから何かしらの集団やイデオロギーに接触するんだけど、繋がりながらも切り分ける、というスタンスにこそ個人の能力や倫理が問われる。

ネットの世界がそれをより加速させている。俺は自分のダメさを誤差の範囲にとどめようという姑息な戦略をとっている。1000回くらい何かを言うと、7回くらいの間違いは赦してくれるんじゃねえか、という方式。7/1000あの人は気にくわないってことで。

でも、年に2回だけ自分が得になる宣伝や告知をしたりすると「あいつ告知しかしねえな」というゴリ押した印象だけが残ってしまう。2/2、そう思われてしまう。

働きかけの有効性は、その人のプレゼンスにある。毎日会議に出ている人たちは、3年に一度会議に出てくる人の提案を素直には受け入れない。これはストラテジーなんて話じゃなくて「人情」ってヤツだ。いつもこういうことを主張している人のイベントに行く、という根拠はわかるが、イベントだけを放り込まれても誰も行かない。

小学生が言う友達というのは、たまたま同じ教室で毎日会ってるヤツのことで、決して唯一無二の存在ではない。大人もそれと大差ないよね。おはようございます。

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誰の責任を問うつもりもなく、ひたすら切ない気持ちで一日を過ごした。お子さんを亡くした親御さんは当然のことながら、あの展示を行った学生たちも想像できないほど辛いはずだ。

俺はここ数日間、毎日「TDWに来てくれ」とここに書いてきた。休日はお子さん連れも多く、その人たちが事故に巻き込まれる可能性があったかと思うとやりきれないし、責任も感じる。

俺は現場ブースで人物撮影をしていたが、自分の目の届かないところは責任が持てないので、何もないとは思うが毎日モノブロックストロボを持ち帰っていた。最近のストロボは発火・爆発などはほぼしないんだけど、知らない誰がどう触るかわからないところに機材を放置することはできない。これは無意識の行動に近く、撮影の現場で微かな危険の兆候を感じた何十年かの経験によっている。

撮影でもタングステンなどの加熱しやすい照明機材に可燃物は決して近づけないものだけど、後から「あれは引火しやすかった」と批判するよりも、学生などアマチュアの展示にはプロの経験によるサポートが必要だったのだろうと、結果が悔やまれる。

台北のタツヤからメッセージが来て、何も言わずサプライズで最終日に観に行こうとしていた、と言われた。サプライズの種類が変わってしまったが、遠くからわざわざ来てくれたたくさんの人たちと、いいイベントだったと言って終われなかったことが残念でならない。

写真は向かいのブース、中国から来たプロダクトデザイナーのチーム。おはようございます。

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とても暗い気持ちで週末が終わった。

昨日はウーマン村本くん、平松さん、森さんのおかげで、人が生きていくことを真剣に考えた。二人は病気があるからこそ惰性で生きている時には気づかない時間の貴重さを意識しながら行動している。

ボクは生きている。

この主語+動詞のシンプルさの中に、我々は修飾する言葉を挟もうと必死になっている。ボクは豪邸に生きている、ボクはブランドモノをまとって生きている。

主語と動詞の間に挟まっているモノは、命と比べるべき状況が来たらすべて無意味になる。TDWで亡くなった幼いお子さんは、その大事な動詞がなくなってしまった。

しかしTDW運営側の発表には、人の命が失われたこと、それに対する悔やみが何ひとつ書かれていない。事故があったのでイベントは中止、本日の入場はできません、とだけ書かれていた。

俺はできるだけシンプルに生きていようと心がけている。ここで言うシンプルさは何もオーガニックに断捨離しようみたいなことではない。自分が大事だと思っていることだけを、自分の責任において最重要視する、ということだ。

それは協調を否定することにも繋がるから摩擦も生むんだけど、そんなことは何も気にしない。命令されなくていい環境を何十年もかけて作ってきた。生命はスマホの中にはないし、お金とも地位とも関係がない。自分が大事だと思うことだけをする。五歳の子供が安全に生きられることより優先することなんて何もない。

俺が事態の深刻さも知らずにTDWの会場を出たとき、テレビ局がたくさん来ていた。「誰か映像を撮っていた人はいませんか」「火事の現場を見てた人、いない?」と声を張り上げていた。

君たちがテレビ局から給料をもらっていることはわかるよ。それで家族を養っていることもわかる。でも、それって自分にも子供がいるってことだろ。これ以上は何も言わないけどね。

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TDWは残念な結末だったけど、多くの意味のある実験もできたし、知り合った人もいる。

今日は「コエール」の榎戸教子さんとお話をした。コエールはナレーション・サービスなんだけど、従来のナレーションブースを使う方法ではなく、所属しているナレーターが自宅で収録するという画期的なビジネス。

これが面白いなと思ったのは、子育てなどで現場を離れてはいるがスキルのあるアナウンサー、ナレーターが在宅で仕事を受注できるところ。WEB納品なんていう方法が確立したからこそできるようになったスタイルだ。

榎戸さんの話の中で感じたのはクオリティと利便性・経済性のバランス。スタジオと自宅収録を比較したとき、当然だけどどうしても質は落ちる。ただ明らかに品質が落ちていては困るが、90点の品質が保証できるなら選択肢としては十分、と言う。

ここなんだよなあ。90点から100点の間にかかる費用はべらぼうに高い。でもある程度の人が納得する十分なクオリティが90点であるとするなら、残りの10点を追求するコストはカットできる。

この「完璧主義」を選択できるかどうかはとにかく時間とお金の問題。本当にその仕事の内容で100点にこだわる意味があるのか、と精密に考えていくなら、こういう選択肢があっていいと思った。この価格ならVコンテなどでナレーターを呼んでMAルームを使うより遙かに安いし、素人がやるより品質は高い。

あと、現代の仕事の方法は、効率を見直したところに発生するエアポケットが、実は子育てなどに都合がいい部分と偶然にも合致したりする面白さなんだよね。とか思いました。

http://koyale.jp/

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