NHKのドキュメントをみたときに(YouTubeから)
暁村、水俣、福島、そして拝啓、石牟礼道子さま、(思ったことの羅列に過ぎない)、

(a)
暁村からドイモイの祖国にわたしたちがボートにのってさまよい泣き叫ぶ鐵工所の兄や弟は途方に暮れそして退行してゆくそして胎内にかえりたい古里がなきじゃくって見失なう寂しさのつらさ、
(b)
冷戦がおわるとはじまる平和のつめたい島国にうらみはないけれども楽しくもないが受け入れてくれた、そしてさようならと冷戦がおわると平和のつめたい暁村のちいさな灯火があたたかで、そしてさようなら、
(c)
坂本龍一がフクシマの被災地でこわれたピアノを廃墟から運びだし体育館で演奏をしているとフクシマのみなさんがしずかにきいた曲の名前が戦場のメリークリスマスでかれはチェルノブイリをソラリスに重ねバッハをもとめている、
(d)
ユージン・スミスが沖縄戦で負傷してニホンでジャーナリストになった魂がクマモトの水俣の田中実子さんの魂をあいして涙して彼がチッソに袋だたきにされてもその魂はアクマに売らないジャーナリストとしてMINAMATAを世界に知らしめた、

フォードとエジソンが20世紀の魔法をかけた、デザインはバウハウスからきたが、フォード式生産がなければ、デザインは売れなかったし、エジソンがいなければオーディオ・ヴィジュアルそしてマス・メディアは出なかった、その先にトヨタとiPhoneがある、▶︎近代言語は明治翻訳語と夏目漱石と福沢諭吉と中国語と戦後GHQと仏教が複雑に組成された、そしてテンソル記述(多次元配列を使うことによって、数値の並びとしてプログラム上で表現)が可能な数理モデルとしてのネイチャーは、今のこの世界のどこかに内包されているから、人間も考えるときはマシンとして同様に扱える、超音波は視覚や聴覚のオーダーにないので、感覚器には記述されないが、人間のオーダー、見えるオーダーまで落とし込んで、また消してやると、不思議な現象が起きて、感覚外のテンソル計算で出されたもの、例えば、赤外線は目に見えないはずが、光の粒が浮いて見えるとか、ホログラフィー記述が現象を起こしていく、デカルトの機械論のあとに人と機械、ルソー、ジョン・ロック、と繋がって、物質と精神の二分法から男女、健常者と障害者、という区分けが意識にのぼるが、考える機械や人間のデータ解析という今日的な逆ベクトルに繋がる、そして二項対立をグラーデーションにするのはGAN(敵対的生成ネットワーク)というディープラーニングで、人工ニューロンを用いた自動偏微分の最適化で、もはや、近代的な物理モデルとは異なる着地点をもち、人間とは異なるネイチャーを提示するが、そもそも、ネイチャーとは人間が人間主体に対置する唯一の自然だが、GANのネイチャーは多自然といえるが、文化教養には合理性が伴わないから、幽玄を「べき論」としてのコンピューテーションに落とし込みたいが、ゆえに全く理解されないことの一つだが、新しい自然観の構築は、近代的主体を超えた多自然論の数理モデルで、相対移(液体気体固体のような構造相転移はあらゆることに起こりうる)、コンピューテーションによるエジソン・フォードスタイルのアップデート、知覚不能なレンジをプログラムで記述できるところまできていて、光と音も自然界では対話していることがわかってきたし、自然界にない波動をコンピューティングしてメタ構造も作れる、▶︎ポール・ヴィリリオ「情報化爆弾」「瞬間の未来派」のような非同期処理としてのタイムラグが真逆の現象をとめどなく増殖させることは、インターネットをみればよくわかるし、これから10年のうちに誰かが必ずキャズム(深い溝)を飛び越えて再魔術をアップデートをするだろうけど、ディクテーション的に補完されるようになっている、同期でないから単なる過渡期でしかない、▶︎一休宗純には「わからなくてもいい」があって、近代的な二項対立より進んでいて、その非同期性が時代を内包するし、「有漏路より無漏路に帰る一休み」、晩年の恋人の森女(しんじょ)も盲目、盲目の琵琶法師が平家物語を弾いて悟って「一休」という名をもらったと、悟ったときに見えない夜カラスの声はここにあると言った、「銀椀裏に雪を盛る」という禅の話しは、銀のお椀に雪を盛ると雪も銀も区別できなくなるという、銀の熱伝導率が最高だから、風狂という破天荒さと民衆に愛された、その弟子が村田珠光で茶道が生まれ、利休につながる、一休の着ている服は、ヨウジヤマモトっぽくて、ボロギレにガイコツなんだよね、日本人にとっての宇宙の始まりは明治時代で、ユニバースはユニは統一で、バースは方向、宇宙の宇は四方上下で空間、宙は往古来今で時間で、多様な時空間を表すが、ユニバース(人格的)は束ねられていくが、宇宙(次元的)は広がっていくゆえ、東洋人にはテンソル記述的でホログラフィー宇宙論で日本人がリードする理由でもある、▶︎ポアンカレの影響を強く受けたのが、アインシュタインとピカソ、ピカソやデュシャンのテーマのひとつが四次元、アインシュタインは五感を超えた原子や光速度不変に向かった、wowさんのLUX(ルクス)動画必見、クワ公方量感(地と図の区別がない幾何学世界、ヒエラルキー排斥)、近代セントラリーゼーション→スタンダーゼーション→スタンダードはなくパラメタリゼーション(IT化)→ダイバシティ→ユニフォーミティ(統一性)で、「多様性があるから規格化が出来なかったのを、ユニフォーミティを持たせたのが20世紀で、さらにダイバシティしたのが21世紀」ユピキタス・コンピューティング、IOTはインターネットが電化製品から人類の知的環境にいたるまで拡張していくという概念だが、デジタルネイチャーは自然そのものの概念をコンピューテーショナルに拡張し、問い直す、多対一から一対多となる、







君の敵はそれです、君の敵はあれです、君の敵は間違いなくこれです、ぼくら皆の敵はあなたの敵でもあるのです、ああその答えのさわやかさ 明快さ、あなたはまだわからないのですか、あなたはまだ本当の生活者じゃない、あなたは見れども見えずの口ですよ、あるいはそうかもしれない敵は……、敵は昔のように鎧かぶとで一騎、おどり出てくるものじゃない、現代では計算尺や高等数学やデータを駆使して算出されるものなのです、でもなんだかその敵は、私をふるいたたせない、組み付いたらまたただのオトリだったりして、味方だったりして……そんな心配が、なまけもの、なまけもの、なまけもの、君は生涯敵に会えない、君は生涯生きることがない、いいえ私は探しているの 私の敵を、敵は探すものじゃない、ひしひしとぼくらを取りかこんでいるもの、いいえ私は待っているの 私の敵を、敵は待つものじゃない、日々にぼくらを侵すもの、いいえ邂逅の瞬間がある! 私の爪も歯も耳も手足も髪も逆だって、敵! 叫ぶことのできる、私の敵! と叫ぶことのできる、ひとつの出会いがきっと ある

(茨木のり子「敵について」)

二項対立をやり続けて延々とお互いを批判しあう、全体と部分からそうじゃないという、それ、これ、あれで終わる。レッドオーシャンでわざわざ戦う。


▶︎3つの黒丸、乳児の「haar_like特徴量」つまり目と目と口を顔と認識するのは大脳が未発達時だからで、LSDを使用すると大脳が麻痺して特徴量が増幅して顔だらけになる、▶︎犬は嗅覚が発達していて未来と現在と過去がごっちゃになってるが、人間の視覚は光だから同期システムのなかで生きているから、過去は消失し、未来は見えぬ、今だけがある、しかし、インターネットは膨大な世界の記憶の可視化された海で、過去を泳いでいるし非同期世界で、 イルカは弱い嗅覚と超音波聴覚だから、世界の海がインターネットみたいでいつも、イルカはスマホしているようなもの、▶︎大衆という言葉は仏教用語で高度に仏法を遵守するように訓練された僧侶に寄る集団という意味。だから、近代はマスメディアや国民国家のその他大勢でいることを受けいれる集団として拝借していただけで、これからは、コンピューテーショナリー・コントロールド・ヒューマンになりうる、仏が国民国家よりコンピュータになるほうがいい、社会の社は道祖神の集まりで、道祖神の集まりを中国で社会と呼んだから、福沢諭吉はソサエティは仲間連中と呼んだが、誰かが社会と呼ぶようになるが、このやしろには、神=天皇として機能させた、しかし、三島由紀夫は天皇がいない国に社会はないと言ったのは、そういう意味で、社会そのものが機能しなくなり、生きづらくなったから、分散型を歌わなければならない、▶︎一休はシュレテンガー方程式、確率密度を考え、対生成と対消滅、イメージを数式で考え、言葉に落とす、しかし適切な言葉が存在しない数式はたくさんあり、プログラムに変換できるものもあるが、自然言語は脆弱で曖昧で、プログラム言語に比べたらという話しだが、その限界はある、現代物理学から哲学から仏教から数式からプログラミング言語へと再定義し、パラメータリゼーションされる、▶︎華厳の事事無礙法界とデジタルネイチャー、松尾芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」「閑けさや岩に染み入る蝉の超え」というインターフェイス、人間がいるようでいない、岩、池、人間と機械という話しでなく、世の中を波動と知能と物質で相互システムを考える、コンピュータ上では数式で書ける、波動はホログラム、知性は関数とテンソル、物質は物性とテンソル、そしてこれをディープラーニングでどう記述するかで可能性が変わる、事事無礙法界の四法界説の理と事が背反的で、事と事が相互包摂、相互生成し、事が理を含んで、対象と対象の弁証法となり、一即多の重々無尽の世界、▶︎右手三泊左手には四泊のリズムを腕に電流を流すと動くし、電流を流した後も持続するので、不随化した身体にもリハビリで機能回復できて、関係性の逆転、現象から現象が起こる、人間は自然で、機械も自然、人間は波動と物質と情報がある、▶︎脱人間化するために、リンカーンを終わらせる、「人間の人間による人間のための政治や社会」という概念を、ホッブズが語るリヴァイアサン、地球をまるごと含めたラトゥールのガイア、規模のエコシステムへ、▶︎人工減少社会や介護ふくめ、ベンチャーファイナンスだと赤字期間のM1、黒字のM2、ベンチャーキャピタルからしたら、死の谷を見て投資するけど、M1をみてるのと、M2をみてるのでは、原因も変わるし、利ざやも配分が変わる、近代思考は、現状維持でゼロサムゲームだけど、コンピューショナルな世界は、限界費用が全く変わる、





▶︎共産主義が失敗したのはインターネットがなかったからともいえるし、再分配可能な限界費用ゼロシステムに基づく労働をベーシックインカムというわけで、また、ベンチャーキャピタルかベーシックインカムかという最終節は、ゼロ和社会としてのインターネット共産主義が親和性が高くなる、皆が再分配を信じるのは、マルクスの労働の搾取を信じているからで、時間の搾取、タイムマネジメントというが実質、需要、市場、能力、いろんな要素がある、人口減少社会において、インフラ整備が終わり、人口減少が始まると、インフラ利便性は高くなるが、維持は大変となるので撤退戦を構築しなければならないし、国内標準化教育はテレビという国内同質メディアと符合しているが、グローバル多様性においては、国際競争を前にして、柔軟性による▶︎イルカはチームの通信プロトコル、共通の夢をみる、水中では天敵も少ないし、三次元空間を自由に移動できるし、シャチとイルカは会話できるのか、シャチなら尚更天敵がいない、シャチはホオジロザメの殺し方を獲得し、イメージ転送し、世界中でホオジロザメの死体が上がった、記述と行為が一体で現象to現象、マッコウクジラがここ20年、30年ぐらいで人間に対して友好的で、捕鯨の記憶が世代間で薄れてきた、たまに人間に殺されるけど、ホオジロザメより天敵感は少ないよねという感覚、そしてググれカス、ググってもカス、ググるともっとカス、となるがアーカイブにアクセスする能力は言語を見つけ出せる教養と近いし、共同研究や制作ができる能力にも近いから、ともにググろう、人類イルカ化計画、ハラリのホモデウスの超人化でなく、イルカ化で、文明はフィジカルに持たない、脳内の仮想変換、▶︎廻るピングドラムの名言BOT、世界は幾つもの箱だよ、人は体を折り曲げて、自分の箱に入るんだ、ずっと一生そのまま、やがて箱の中で忘れちゃうんだ、自分がどんな形をしていたのか、←サザランドの部屋みたいだ、
これは近代化の裏返しで、この箱を打ち破るにはコンピューテーショナルなものが必要で、多様化する社会を作るには、箱という標準化をパラメタリゼーションしてダイバーシティをあげる、批評は近代主義で、人間の解釈をしないと前に進めないが、超近代は、アウトプットが先で、そのあとに批評となる、批評は衰退するでしょうが、クリエイションとしての批評は必要、行動ある自立の世界には、潮目がない、 そして、経済的にも自立することが自由や独立と主張した福沢諭吉は偉いし、さらに、近代語をアップデートするために、仏教語、老荘思想、を問え、









一休宗純とイルカとテンソル記述のスリリングなノイズ・シンフォニーでこれは音楽(音響だね)だともいえる、そして12音階の純音率でなくギリシャ式ピタゴラス音律による数理的ハーモニクス、倍音のゆたかさ、SF小説とも感知できうるし、柄谷はかつて、優れた思想書は小説であるが、小説とは断片性であり事実性であり、物語性ではないから、どこから読んでもある事実があり引き込まれていくそれは新聞ということであり、近代小説は新聞(大英帝国の)から生まれているということの想起があるが、毒本の内的とか個人的なめり込みとハック存りきは物語が破れて一から多へのカットアップとフォールドインが喚起されているからで(豊かさとはその圧倒性)、バロウズは計算的に神経学的にカットアップ小説を生み出したんだろうし、バラードの濃縮=コンデンスの外宇宙から内宇宙へのパラダイム転換は二項を超えた多項→無意識の雪崩条件、実験は数理的快楽の落とし込みで、思考物語の切断の新規開拓なのだから、破れた先にスリリングな接地を愉しめる冒険を臨むと乱毒を多毒に同時的に刷り込んでダイアログ内宇宙で爆発しっ放しになる、それでまた純正物語を堪能すればインタラクティブな対話=ダイログが無限生まれるし、ノイズを豊かにとりこめる、

対話にノイズをたくさん呼びこむ(呼び込めるひと)、粗くガサツな具象性(雁字搦めのステロパターナリズム)よりは精緻な具象性に織り込むとフラクタル化する先にまたメタとして抽象化しインタラクティブに対話する無限思考や行動のしなやかさがないひとをみると、ただ退屈で間抜けな印象にしかうつらないので、それは是非とも非接触でいたい、





観念的に利他を主張するより、こういう議論(ああいう議論とかたくさんあるけれど)の透明性を自発的にまあ勉強したり、活動内にあるといいんだけれどもね。。それから利己を攻撃するのは結構だけれど、被害者と加害者に切り分けポジションを取り合うのは相も変わらぬ世相だなぁと。。

誤読のおすすめ。ひゆより。

坂本龍馬は、日本初の「貿易商社」ともいうべき「亀山社中」(後の「海援隊」)を組織し、その機動力をテコとして薩長同盟を結ぶなど、幕末の日本において縦横無尽の活躍をし、坂本龍馬の思想的な背骨とも言えるのが、後の明治新政府の指針に大きな影響を与えた「船中八策」であるが、長崎から神戸に向かう船(夕顔丸)の中で、坂本龍馬が土佐藩士の後藤象二郎に対して示した国家の体制を、海援隊に所属していた長岡謙吉が書き留め、後の大政奉還、議会の設置、憲法の制定、海軍の増強、不平等条約の撤廃など、明治期の日本の発展原理につながるような当時としては斬新な内容で、これが「正解」だと教えられて、それを鵜呑みにするというより知性とは、前提になっていることを疑うこと、▶︎通常行われている知的営みの枠組み自体を再構築するそのような態度は、インターネット上の動画サービスのいわばスタンダードとなったYouTubeは、著作権保護について、最初から完全な正解があるとは思っていないサービスだが、たとえ、著作権違反のコンテンツがアップロードされたとしても、それを指摘された時点で対応すれば責任を問われないし、最近では、著作権者が、自分たちのコンテンツがYouTubeに上げられることを、作品の宣伝としてむしろ容認、歓迎する傾向すら出てきたように、ペーパーテストの点数が1点でも高い志願者を選抜するのが「正解」であり「公正」であるといった日本人のマインドセットは、大学入試だけでなく、日本という文明のありとあらゆる局面に忍び込み、グローバルな競争における日本人の資質を劣化させている、






ある特定の状況の下で、どのような意志決定をすればベストなのか、それは往々にして簡単には決定できないことであるが、不完全でも、とにかくある「意志決定」をすることの方が「意志決定」をしないことよりも尊く、あたかも「正解」がどこかにあると擬制して、それを自炉にも他人にも押しつけることは、結果として意志決定不全症 候群への道となるし、日本で喧伝されてきた「政治不信」とは、案外「意思決定」をする覚悟の欠如に由来するもので、普天間基地問題の迷走も、原発再稼働をめぐる混迷も、意志決定不全症候群の一症状とみなすことができるだろうし、正解は存在しないし、他人に押しつけるべきではない、▶︎十七世紀に活躍したイギリスの思想家、トマス·ホッブズは、その著書『リヴァイアサン』の中で、国家の起源を社会契約論に基づいて説明し「リヴァイアサン」、聖書に出て来る怪物のことであり、自らの意志に基づいて自由に行動する主体のメタフアーであり、自然状態においては、すべての人間が、何の制約も受けない権利を持っているそのような状態では、事態は容易に「万人の万人に対する闘争」へと転がり落ちそれでは、自分たちの生命や財産が守れないので、人間たちは、自分が本来得た権利の一部を譲り渡し、「国家」を形成、そのようにしてできあがった国家は、何の制約も受けずに意志決定する主体「リヴァイアサン」となる、これが、ホッブズの論の概略で、国家は実際、リヴァイアサンとしてふるまって、国家と国家の間の関係を制約する「国際法」は存在するものの、「国内法」に比べれば、それは頼りないものに過ぎない、国家は、戦争をする権利を持つ、そして、戦時国際法は存在するものの、勝てば何でもよく、第二次大戦中のアメリカによる二度の原爆の投下や、東京大空襲はたくさんの非戦闘員を巻き込み、明らかに戦時国際法に違反しているが、それでも、東京裁判によって罷り通るのが実態、日本側の責任が問われることはあっても、勝った側のアメリカの責任が問われることはなく、不当だが、もともと、国際社会というものはそのようなものであって、リヴァイアサンとしての国家間の衝突は、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」に近く、さまざまな国家の上に立つ法秩序は、確固たるものとしては存在しない、






地球上のさまざまな地域が密接になるにつれて、次第に国家のリヴァイアサン性は制約されるようになってきて、それでも、各主権国家が、基本的には「何をしても良い」状態にあることは、北朝鮮によるミサイル発射や、核実験といった動きを見ているだけでも明白だが、もっとも,国家と国家が植民地の獲得競争をしたり、あるいはイデオロギー対立を背景に全面核戦争の瀬戸際にアメリカの政治学者フランシス·フクヤマが『歷史の終わり』で記述したように(それはイデオロギーの終わりだが、ハンチントンの「文明の衝突」がその背後に始まる、終わりの始まりを追記)、民主主義と市場経済という単一のシステムの中に、世界中の国々が取り入れられようとし、インターネットが地球を覆い、イタリアの哲学者アントニオ·ネグリとアメリカの哲学者、比較文学者マイケル· ハートが共著『帝国』で言うところの「脱中心性」と「脱領域性」によって「帝国」が世界を支配していて、この「帝国」は、特定の国を盟主とするのではなく、国家のリヴァイアサン性の急性期が終わる中で、奇妙な新しい事態が進行し、リヴァイアサンのようにふるまうのは、国家だけとは限らずに国家以外の制約を受けない自由な主体としてふるまう者たちが出現し、新たな「リヴァイアサン」となる、▶︎例えば、アメリカのネット·ベンチャーがそうで、マーク·ザッカーバーグがフェイスブックを発案したのは、ガールフレンドにふられた腹いせに、大学のシステムに侵入して得た女の子の写真をアップして、「どちらが魅力的か」というサイトを立ち上げたのがきっかけ、アップルの創業者のスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックは、学生時代に長距離電話を無料でかけられる装置を作製·販売して資金を稼いでいる(もちろん違法)、「新しいリヴァイアサンの文化」は地球規模で、国家の権威を認めず、国家と対立する組織や個人も出現し始め、国家の機密をネット上で公開してしまうウィキリークスは新時代の登場を認識させ、国際的なハッカー集団アノニマスは、ネットの自由を脅かす主体に対して、それが国家であろうと大企業であろうと組織だった攻撃をしかけてくる、リヴァイアサンでなければ輝くことはできない時代が到来して、もちろん、世界がホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」の状態に戻るという意味ではなく、現代社会は、むしろ、リヴァイアサン性が文明を更新し、進捗させる、








現代の日本の行き詰まりが幕末と似ているのか、欧米のメディアでは現代の大きな思潮を象徴する存在として取り上げられているウィキリークスやアノニマスが、日本ではほとんど話題にならず、それに呼応する動向として戦後軍部組織として唯一の生き残りの(GHQも手を出せなかった)東京地検にリヴァイアサン性を発揮して新しい日本をつくる堀江貴文氏が対立しながら触媒社会的に制裁を受けたが、日本社会の中に蔓延する「目立つ人」をたたく風評と日本社会の伝統的感性である「空気を読む」という風潮が利用されるリヴァイアサン文化の抑圧で、世界文明を進捗させている現代のエートスと符合しない、▶︎ユダヤ人であったアインシュタインは、ナチスの迫害を逃れてアメリカに移住し、十二年間をアメリカで過ごしたが、もともと、「自由」や「人権」についてアメリカ建国の思想と共鳴するところの多かったアインシュタインだが、第二次大戦後、思わぬ苦境を迎えた、ソ連との間の冷戦を背景にして、アメリカ国内で吹き荒れたマッカーシズムの旋風で、知人の間に「共産主義者」がいるかどうかを証言することを強制される風潮の中で、アィンシュタインは断固抵抗、そのことによって、アインシュタインは、愛国的なアメリカ人たちから、烈しい非難を受けた、しかし、アメリカの社会の基本的な性質は、外部者から見ると危険な政治的熱情の波に時折押し流されるように見えても、実際には、これらは一時的な感情に過ぎず、マッカーシズムは、「急性期」を終えると、急速に衰退し、やがてその健全な民主主義の中に吸収され、憲法の精神によって訂正される、この国では、すべてのものは、狂気でさえ、大量生産され、そして、あっという間に流行遅れになってしまい、大量生産や、商業主義は、アメリカという社会の文化的な浅さ、弱さの象徴であるとも考えられてきたが、マッカーシズムの嵐に対しては、強靭さとして現れ、逆にドイツのように、観念を大切にする国では、マッカーシズムの影響は、より深刻なものになっていたかもしれない一方で、▶︎すべてが「ネタ」にされる国「外の世界」から見た日本の社会の最大の「弱み」の一つは、普遍的な価値に基づいて、第一原理から考えるのが苦手で、血星座占いなど(日本のネットに流布するオカルトや陰謀論など)、科学的な根拠のない風説が未だに流布し、日本人自然哲学の発展としての「科学」は、「技術」とほとんど区別がされ、西洋文明を成り立たせてきた根本がなく、夏目漱石がしばしば指摘した西洋近代列強に追いつくことを優先させるために余りに急ごしらえの「安普請」だったと、インターネット文明の台頭の中で、日本がグローバル化の時代、日本の動かしがたい保守性とは、全てが「ネタ」として消費され、TPPの問題も、日本人のガラパゴス化も、英語も、大学のグローバル化も、ツイッターやブログなどの現代的な言論空間の中で、これらのテーマが盛んに議論されても、それが、社会の根幹を動かすことへとつながらない、大量生産、商業主義のアメリカが、冷戦を背景としたマッカーシズムをも消費してしまったように、現代の日本もまた、すべてを「ネタ」としてしまう点において、侮れない成熟と強靭さを兼ね備えているのかもしれないが、現実の日本社会を見極めないなかで、概念の「空中戦」をしていても、一向に変化は実らない、またアニメや漫画には、「プリンシプル」も「普遍的な価値」も必要ないし、そのような画一的イデオロギーとは無縁の豊饒の中で、これらの「サブカル」は花開いてきた、






▶︎福沢諭吉のような複眼的なアプローチで「第二の敗戦」「第三の開国」という言葉が繰り返される割に、グローバル化やインターネット文明が、概念の「空中戦」として飛び交うだけで、原理的思考に戻って自分たちの立ち位置を反省することができず、ただ「雑居的無秩序性」の中でうごめく日本のあり方で「キリスト教」や「マルクス主義」が、あるいは「科学主義」がかつてそのような運命を辿ったように、どんな外来思想も、日本という生態系の中で、「ネタ」として吸収され、流行として消費され、そして、お辞儀の仕方から名刺交換のやり方まで、相も変わらず、明治以降の知識人にとっては「克服すべき後進性」で「進歩を妨げる障壁」で、日本の中にある「安らぎの文化」は、安穏があるからこそ、日本の若者は外に出たくなくなるし「安らぎ」の中で時間を送っていると、次第に、異質な他者に向き合う緊張感 失われていく「ホーム」だけでなく「アウェイ」でも新しいことに直面し、そこから学んでいくことが新しい脳の現れだとすれば「安らぎ」の中でまどろんでいる脳は、老いてしまって、新奇性や好奇心も溶けてしまう、▶︎西洋キリスト圏の統一的に理解しようという試みの長い歴史に「万能の神」が宇宙を創り、その中で人間が存在し、もし神が万能ならば、なぜ、人間は罪を犯すのか、人間には、自由意志はあるのか、宇宙の歴史が有限ならば、万能の神は、それ以前には、何をしていたのか、このような、ヨーロッパの神学上の、原理·原則に還ってゼロから考え直す、という彼らの知的風土があってこそ、哲学上の問いかけは、日本の「雑居的無秩序性」の中においては、全てを統一的に理解しようという動機付はもともと希薄で、神学上の問いかけや、人間の自由意志に関する疑念は、日本的営みの中軸に置かれることはなく、さまざまなノイズに満ちており、混沌とし、すべての人が基本的人権を享受すべきであるとか、表現の自由が認められるべきであるとか、そのような理念的な議論を重ねることはできるが、それらの理念が実体化する時には、世界は、各国政府の外交 を公開したウィキリークスや、インターネットの自由を守ろうと様々な活動を展開するハッカー集団アノニマスなどの「擾乱」を引き受けざるを得なくなり、そこに出現するのは、日本では「雑居的無秩序性」に他ならない、





消えたとはいえ、少しは残っているのでデータベースとしてここにも保存していこう(加筆修正もしたいので)、今読んでるのが骨折りまくるけど、濃密でおもしろい、ネットだけで利他な関係性を叫ぶのは利他の事実性がないからと思ったりする、、、

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