日々を生きている。当たり前の中を生きている。あの日から日常は何も変わったこともなく、雨が降ったり、タマゴからは色違いのココドラがうまれたり(ポケモンGOネタです)、赤字がついて返ってきた原稿をなおしながら、日々を生きている。

私たちは日夜それなりに忙しくて、ご飯を食べたり、何かを学んだり、働いたり、寝たりしなければいけない。その合間に本を読んだり、友だちと遊んだり、思考に耽ったりする。案外自分が、自分のために使ってあげられる時間は少ないものだったりする。だから彼の死を、真っ向から見つめることから逃げ続けている。

あの日から、一週間以上経過した。

面白いことが起きたら笑って、仕事で怒られて凹んで、疲れたーってぼーっとしていれば、気づけば今日で。今日だ。それで、何が変わった?私たちはどう生きていけばいい?

人は死ぬ。人は死んだ。でもそれだけ考えて生きていけるわけではない。死に囚われて、日常を放棄できないほどには、存外、生きていくことが、すきで、すきなのかな、そうするしか選択肢がないと思っているだけなのかも。ともかく、暮らせてしまっている。

どうすりゃよかったんかなぁ。

前の自分のつぶやきに、気に入っているものがあったりするので、見てほしい。
「昨日より 一昨日より 普通で入れる時間が長くなった 普通でいるフリをしているのかもしれないけど 受け入れるってこういうことなのかも。色水に透明な水を足して、足して、薄めて、限りなく透明になるのかもしれないけど、色水であったことには変わらないし、真水には戻れないもんね」

などと。などとね。そうなのかね。フタをして見て見ぬフリをしているだけで、変わっていないかもと、今は思ったりしている。考えが変わる。

本当に生きる、って死ぬってどういうことなんだろう。アーティストの死にどう向き合えば、もっと有り体に言えば「私が信じていた神さま」の死に対して、どう向き合えばいいのか、全くわからないままだ。なにも変わらない。

わからないねえ。

 昨日の雨から一転。今日は青空の広がるあたたかな、気持ちの良い日になった。今年は寒の戻りが強かったからか、桜が長いこと咲いている。とはいうものの、今年の時間はさほど残されていないみたいで、風が吹くたびにザワザワと花弁を散らしていた。すごく綺麗で、目の奥が不思議とツンとする。生きているなと思う。春に近づいたとはいえ、肌にあたる空気にはまだ冬の名残がいてヒンヤリとしているし、太陽はいつも眩しくて、日々は続いていく。

 だいすきなバンドの、リーダーが死んだ。死んだらしい。私がそれを知ったのは仕事の合間のトイレの個室の中でで、11時を少し過ぎた頃だった。インスタのストーリーで、フォロワーさんが「はやすぎる」とそうアップしていて、ああ、と思った。本当にそうか、と。「諸事情」の理由、私たちが予想していた最悪のものだったんだ。
 そのままツイッターを開いて、すぐ「wowaka死去。享年31歳」の文字と彼の写真が飛び込んでくる。訳がわからなかった。トイレの個室の中で叫んでいた。頭の中で「彼の声をライブで聴くことはもう二度とないのだ」と、とにかくそれだけがぐるぐるしていた。
 どうしようもできなくて、そのままオフィスを出てそこらへんを泣きながら歩いた。どうしようってどうにもできないくせにそれだけを繰り返していた。本当に人って死ぬんだ。なんで、よりによってと思った。正直ベガス、というバンドの方が同じように亡くなった時のことを自分はよく覚えていないし、ヒトリエというバンドのwowaka、という人間が亡くなったところで、なにも感じず、何も知らない、何も思わない人間がごまんといる。どうしてヒトリエの、だいすきな、貴方が死んだのだろうかと、どうにもならないことを何度も何度も何度も繰り返し考えた。

 それでも人が死んでも、世界は変わらない。ボロボロと目を腫らして泣いているやつなんて、電車には一人もいなかった。みんな笑ったり、無表情だったり、当たり前でしかない日常だった。こんなにもTwitterには悲しんでいる人がたくさんいて、彼の死を悼んでいるのに、一方現実に目を向ければ、そんなことはなくて、きっとこの中には誰かしらいるんだろうけど、ここでは見つけることができなかった。
 それが当たり前なんだとはわかっていたけれど、なんだか、そんなもんかと、思った。彼が死んでも、wowakaが死んでも世界は変わらない。変わらないのに、こんなに苦しいんだね。苦しくて悲しくて、辛いことを私は知りませんでした。リーダーがこの世界からいなくなってしまったことが、こんな風だとは思っていませんでした。

 だからと言って彼が死んだところで、わたしは多分言われなければ、なにも変わらないし。ライブが行われなければ会えもしないような関係性であって。
 例えば彼が生きていたとしても、音楽を作るのをやめ、ライブをやめて仕舞えば、今と変わらないとも言えるというか。仮にライブツアー中でなく「諸事情」にもならず、発表もされなければ、昨日も、5日という日も、普通の日だったんだろうと思う。
 彼の死が私に与える影響なんて、本当は生きていく、という意味で微々たるもので、微々ももしかしたら存在しないかもしれない。だってお腹は空くし、トイレにもいくし、眠くもなるから。そして生きていけるし。ご飯も食べるし、トイレもいくし、睡眠も取るから。そこに彼が必要なわけではない。
 でもなんでだろう、やっぱりこんなにも悲しいんだよ。年に数回ライブで見るだけの彼が、新しい音楽をもう2度と発表しないことが、もう2度と生の声が聴けないことが、こんなに辛くて、悲しくて、どうしようもないんだ。こんなに大切なものだったんだなぁ。
 とはいえ、知らなければ、悲しむこともできないわ けで、ヒトリエの音楽を、ただ受け取るだけの、人間で、だから、教えてくれて、ありがとうだなと、それはすごくやっぱり思いました。

 リーダー。HOWLツアー行けなかったな。アルバム曲聴けてないよ、下北のバレンタインでちょっとしか聴いてない。リーダーのピック直接キャッチできなかったし。握手会だってまた行きたかった。里菜ちゃん!!ってかいてもらったアルバムは宝物です。あの最前で泣いてた子だって、覚えてくれてたのすげー嬉しかったんだって。ボカロ曲、アンノウン・マザーグース発表されたとき、上野で思わず泣いたし、また聴きたかった。wowakaさんのボカロ曲。これから音楽、ヒトリエもwowakaさんの曲も全部、リーダー死んじゃったんだなって思いながら聴くの、やっぱり今は苦しいよ、沢山聴くけど、それでもリーダー、生きていて欲しかったよ。
 ライブで生きてまた会おうって言ったじゃん。ここから生きるのに疲れて、いやになった時はどこに現実逃避すればいいのか、わかんなくなっちゃったよ。リーダー。生きていてくれればよかったのになあってそれだけ今は考えている。ほんとだよ。嘘でもいいよ、怒らないから、生きて出てきてくれないかな。そんだけ。

 ヨルシカの曲で、あの世ではきっとロックンロールが流れているってところがあって、だって、ロックスターがそっちに沢山いるから。らしい。リーダーみたいだなと思いました。 

悲しむのはここまでで、ヒトリエというバンドに出会って本当に良かったなと思います。1番だいすきなバンドです。多分これからも。特別なんだろうと思います。しあわせな、思い出と、最高の音楽を沢山沢山ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。

 22年間も生きていれば、自分がどんな風に何を感じるのかも、多少わかるようになる。

 電車の外で右から左に消えていく、ありきたりな日常のなかに、幸せを見た。白いタイル造りのベランダに、少し雑多に干された洗濯物。自分とは関わりのない、誰かの生活がなぜか「快い」。と思う。思った途端に目の端のふかふかタオルは遠く遠くに消えて行った。

 なんの前触れもなく、死にたくなる。苦しいと感じる。泥の中でゆるくもがいて、深く落ち込んでいくみたいな、絶望なんだろうかと思う。理由も何もない無意味な絶望に襲われる。

これは人間の、サイクルの中の仕方のない上がり下がりだと。私は知っている。人生は割と幸せが転がっていることも。私は知っている。この苦しみが永遠でないことも知っている。なんでも知っている。ような気になることもある。

 誰が死にたいと思っていようが、空は青く、空気はのどかで、鼻がむずむずする。くしゃみ。


満足したので終わり。

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