人に対して、諦めの感情を抱くのがとてもはやい。

「わたしとは合わなかったんだね」
自分が発するこの言葉に、わたしは何度も救われてきた。

諦める理由は単純で、人を嫌いになりたくないからだ。わたしは悲しいことに、初対面で人を苦手だと感じることがほとんどない。人の悪いところが見えない。これは良いことのようで、実は厄介だ。というのも、苦手な人は一定数いるはずで、誰とでもうまくやるなんて幻想だから。「わたしはこの人が苦手だ」と気づくまで、ずいぶん時間がかかる。

苦手な人だったとわかったとき、わかったと同時に悲しくなり、こわくなる。今からわたしはこの人を嫌いになるかもしれない。お互いに傷つけ合うかもしれない。わたしにとって、嫌いになってしまうことは失うことよりもずっと虚しい。

だから嫌いになる予感がしたときは、すぐに失うことにしている。「合わない」「理解できない」と、その人を諦める。そうすることで、自分を感情の波から救い出す。いつからか癖になっていたこの方法は、人を傷つけずに、自分が傷つかずに生きていくのにひどく役に立った。

失うときには勇気がいるかもしれない。ひとつの物語を読む前の自分はどんな気持ちだったのだろう。大切なものが増える、その前のわたしは何を大切にしていたんだろう。わからない。わからないからこわい。当たり前だ。

でも戻る選択肢はない。前に進む道が2つなら、迷わず失う方をえらぶ。失ったらまた手に入れればいい。それがわたしのナニだったのか、わかるはず。

「嫌い」だけじゃない。
負の感情はわたしに、大切なものを忘れさせる。
いつだって確認できるように、強く、生きていかなければならない。

またひとつ大切なものが増えたから、そんなことを考えた。
あかるい夜。


かなしい涙が流れる前は、決まって気分が悪くなる。

身体の奥底から実体のないナニカが込み上げてくるような気持ち悪さ。吐き気がして、深呼吸をすると、吐く息とともに涙が溢れ出る。

わたしが悲しくなるのは、しあわせが頂点から下がり始めるときと、人の悪意を感じたときだ。特に、大切なものが増えた直後や、自分が人を傷つけたと気付いた瞬間。なにも先のことが考えられなくなり、言葉にできない不安や苦しみが涙となって現れる。

涙が枯れるころ、すべての出来事は「諦め」という形で収束を迎える。楽しいこともかなしいことも今だけ。もう既に、わたしからは切り離れた過去となった。そう考えたところで、わたしの「イマ」が終わるのだ。

おかげでかなしみが長引くことも、かなしみがぶり返すこともない。ただ、自分のかなしみを人と共有することも、分析することもわたしにはできない。人知れず作られてゆくマニュアルにかなしみについての項目はなく、次にそれがやって来るまでかなしみの存在を忘れてしまう。

やはり人間、弱ったときはネガティヴ思考になりがちだと思う。人のかなしみを自分のことのように感じることが出来るのに、自分のかなしみは人には感じられないのだと考える。他人のかなしみなど誰も興味ないのだろう、と、なぜか思ってしまう。

じゅうぶん頑張ってるよ、甘えてくれていいんだよ。大切な人にはそんな風に伝えておいて、自分には言ってやらない。どうしてだろう。

わたし自身がそんな人間だから、人に想いを伝えることができない。大切なものを、守れない。

「人のため」も、「自分のため」も、端と端のように思えるけれど実は繋がっていて、きっとそれらは輪になっているのだろう。

その事実が、わたしをかなしみから救い出し、前を向かせてくれる。

忘れたくないことだから、こうしてここに残しておくよ、未来のわたしへ。

これはきっと、「臆病」なのかもしれないと思うときがある。

ありふれた言葉でいってしまえば秘密主義。
わたしには誰にも見せるつもりのない、もう一人のわたしがいる。理解されたくない、知られたくない自分。

柔軟さをよく褒められるが、信じられないほどの強い意志に自分で圧倒されることがある。根本にあるのは、白と黒ほどはっきりした「わたしはわたし、ひとはひと」という考え。競争の絶えない十数年を経てわたしがたどりついたもの。

いまとなっては人の評価を気にすることも、人に嫉妬をすることも、人と比較し悲しくなることも、ない。

苦しいことから逃げずに苦しんでいる、考えると悲しくなるとわかっていて考えている。そんな人間らしい自分を見つけて、ああなんてうつくしいんだろうと、刹那的に涙する。

くるしい、いたい、でもたいせつ。

進んでいく人生なら、これくらいが丁度いい。

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