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賢さとは何のためにあるべきか。
世の中の頑丈な嘘を見破り、奴隷である自分を解放し、自由と幸せを独力で手に入れるためにあるものだと僕は考える。
最近の僕自身の研究活動の中で、気づいた大きなことが1つあって、それは、世の中にはまさかと思うような嘘が、まるで真実かのようにシレっと通ってしまっているということだった。
例えば、コンピュータ上の乱数は、物理的にサイコロを振ることで得られる6分の1のように、完全な乱数ではなく、あくまでも擬似乱数であって、プログラマーの癖や故意の狙いが介入してしまう。
ほとんどの人がコンピュータ上の乱数を、自然な乱数だと信じてしまっていて、そのことによる、大変な損害に気づいていないのだ。
要は、嘘も100回言うと真実になるのだ。
人類はWWW(ワールドワイドウェブ)を獲得したことで、かねてより問題であった情報格差を見事解消したかのように思われた。
だが、話はそう単純なわけがなく、実際は、ワールドワイドウェブの情報も、やはり全て表に出揃っているわけではもちろんないし、雇われの情報工作員はいつの世にもいるし、何より、情報を選ぶ僕たち一人一人のアティトゥードや興味、洞察力などにより、最終的にどの情報を信じるかは、極論すれば、どの宗教を信じるかに等しくなる。
時代は大きく変わったのは事実だ。
賢さの定義も大きく変わってきた。
お受験を頑張り、大企業に入り、組織の中でなるべく波風を立たずうまく立ち振る舞い、出世競争を勝ち抜いていける能力を昔なら賢さと呼んだのだろうか。
今は、そのようなロボット的な、つまり、あなたじゃなくてもいいよね的な、生き方はどちらかといえば軽蔑の対象になるか、古臭いとして無視されることがデジタルネイティブ世代には増えてきた。
正しい歴史の進み方だ。
まだまだロボットは多いが、他の誰でもなくあなたじゃないといけない生き方という大テーマは、今現在もロボットをしている人達の中でさえ、悩みの種となってきているはずだ。
正しい悩みだ。
情報格差は富と権力の源泉だ。
万人が同じ情報を持つことができるようになった世界は、万人が経済的にも政治的にもほぼ平等な世界となる。
僕は生粋の理想主義者だが、さすがに、全人類が平等な世界が近いうちに来るなんて妄想はしていない。
せめて、平時は不平等ではあっても、定期的、あるいは、必要なタイミングで、弱者が強者に逆転のカウンターパンチを喰らわせるシステムがなければならないとは考えている。
例えば、中世の日本にあったような徳政令なども良いだろう。
株やFXなどの金融取引のシステム1つとっても、そもそもが不平等なシステムだ。
元手が100万の人と1億の人とでは、1ヶ月後に、その元手から100万円を創造するためのリスクと難易度が違いすぎる。
要は、元々持っている者がさらに持てる者になるために、初めから作られたような出来レースが多すぎるのだ。
僕の考える賢い人は、そんなこの世界のシステムの嘘や盲点を見つけ、風穴を開けられる人だ。
賢さだけでなく、今、多くの概念の定義変更が起こっている。
上から言われたことやマニュアル通りに振る舞えることが賢さだった時代はもう終わっていて、常識や建前、洗脳などから自分を解放し、本当の自由と幸せを手に入れる時代になっている。
愛だとか恋だとかよく言うけれど、自分が賢くないゆえに不自由でいて、どうしてそんなものが手に入るだろうかと思うことがある。
愛だとか恋だとかも良いけれど、その前に、嫌かもしれないが自分が奴隷であることを認めて、話はそこからじゃないの?


ずっと前、大学受験の参考書の隅の方のコラムに書かれていた。
賢さとは何のためにあるべきか。
大切な人を守るためにあるのだと。
今はまだ目の前の大学受験のことしか頭にないかもしれないけど、ゆくゆくは君達も考えないといけないことなんだよ、と。
この定義にも僕は大いに賛成する。
この世界を愛し続けるつもりがあるのなら、この世界に騙されない賢さを持たねばならない。
この世界は愛でしかないというのは、諦めから来る究極の優しい嘘でしかない。
愛でもあるし愛でもないのがリアルだ。
一枚岩ではないということ。
この世界は愛でしかないと妄信してこの世界に騙され続けるのが、愛に殉じて死ぬということだとは僕にはどうしても思えない。
そこを美化してしまったら真実だとかそういうことはもう完全にどうでもよくなってしまう。
嘘の世界での麻薬のような幸せを取るか、真実の世界での本物の痛みを取るか、映画マトリックスの赤と青の薬の選択のように、それは、間違いなく、テクノロジーが行き着くところまで行き着くであろう近い将来にかけて、根源的本質的に重要となる問いだ。
真実を隠蔽するための愛なら僕はいらない。
それならいっそ愛を知らない孤独な1人でいい。



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社会は、偶然性と確実性で構成されている。
後者は、労働、家庭、地域社会、街、友達など、基本的に安定していて、今日明日では変動しないものを指す。
前者は何かというと、新しい人との出会いや新しい環境への移動、また自分自身の内面の変化、あとは、病気や事故などだろう。
前者はとても刺激的だが、そればかりだと、心は休まる時を知らない。
むしろ、後者があるから前者が初めて活きてくるといえる。
例えば、階級が固定されているような伝統的社会では、その社会全体としての偶然性の割合が低いことになる。
そこでは、全ての未来は既に決まっているのだという決定論が支配的になる。
予め「誰か」に用意された脚本をなぞるだけの人生を人々は受け入れるだけだ。
「億り人」という人達が誕生した。
近年ブームとなっている株やFX、特に仮想通貨などで、膨大なレバリッジを利かせたギャンブルに成功して、若年層なども多く含めて、数多くの1億円以上の資産を短期的に築いた人達のことだ。
僕たち外野の人間が注意して見なければならないのは、その成功にどれだけの偶然性と必然性があったのかという割合についての冷静な分析である。
成功してしまった人は、その成功がさも最初からまるで半ば必然であったかのように、ものを言うことが多すぎる。
それを真に受けてしまい、その闘いへの後発組の人々が無情にも戦死するケースは表に現れないが、相当な数にのぼる。
これは脅しではない。
エールである。
成功者のほとんどは、当然だが、偶然の女神に微笑まれたからこそ生まれるのであって、そのシンプルな事実は、全ての夢を叶えるために燃える若者達を勇気づける。
そこに運があったかどうかという結果論が意外と大きなミソなんだよと。
先述したように、事故や病気は、偶然性の代表例である。
少し変な言い方をするが、僕という個人にとっては、事故や病気は敵でしかなく、できるなら、1度も出会いたくないものだ。
だが、社会全体、世界にとっては、病気や事故は、必ずしも憎むべき忌むべきものではないと思うのだ。
偶然性をもたらしてくれるものだから。
病気を敵として直すべきものとする見方は、ご存知のように、あくまで西洋近代的な見方に過ぎない。
終わりなき日常を生きる人間達に、強烈な気づきや目覚めを与えてくれるものとして、本来、病気は考えられていた。
確かに日常は愛すべきものだが、それは、日常と個人が溶け合っていて、境界線を失っていることを同時に意味する。
日常は自分そのものであり、自分は日常であって、もはや、日常と自分という対立項を人が自ら見出すことは不可能に近いゆえに、日常を変えることはできないゆえに、いわゆる、人はそう簡単に変われないのだ。
要するに、日常を打ち破るためには相当なエネルギーが必要だということ。
もしも、世界から病気や事故が消えたら、僕たちはますます日常という主人の奴隷になる可能性が高い。
自分の意志で、自分の力で、日常を打ち破ることは元々困難であるのに、病気や事故まで失ってしまうと、それは、変な言い方を繰り返すが、個人からみたら、一見幸福に見えるが、社会全体から見たら、実は大いなる損失なのだ。
社会のダイナミクスが一気に失われてしまう。
実際、僕の周りにもいる。
いっそのこと、事故や病気にかかってしまいたいと。
そんなことでもなければ、日常から解き放たれることができないからだ。
それだけ追い詰められているということだ。
愛すべき日常に追い詰められるという痛烈なアイロニーよ。
眠れ。
静かに。
鐘の音だけが聴こえる。






最後まで読んでもらい長いのにホンマにありがとうございます(๑˃̵ᴗ˂̵)

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同じことは2度と起こらない。
一回性のこの世界を恨むことに何の意味があるだろうか。
確かに個別の現象やシステム、また人間のどうしようもないサガなどを見ていくと、まともな人ほど、この世界を恨むか見限るかしかない。
なんでこんな不完全でデタラメでバカバカしいのかと。
だが、ものすごくシンプルな原理として、この世界では、同じことは2度は起こらないということがある限り、その点において、全てのことが愛おしく感じられることもありうるだろう。
どんなに同じように見える日常も、実は細部において、微妙に違う時間である。
世界に対して正当で誠実な怒りを持つことは僕も常に意識して行っていることだが、恨むことには何の生産性もないどころか、結局は自分を破滅させるだけだ。
世界への呪いは、やがて、自分へと向けられるからだ。
なぜ私はこんなクソな世界にいるのか?
いなくてはならないのか?
いや、いる必要なんかない。
自分という存在の破壊あるいは抹消により、間接的に、この世界を破壊あるいは抹消することに成功する。
そんな終わり方、正しいわけない。







最後まで読んでもらいありがとうございました(^-^)






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