今日はデビュー30周年を迎えるエレファントカシマシの「All Time Best Album THE FIGHTING MAN」がリリースされました。

写真は篠山紀信さんに撮ってもらったもので、僕はこれを額装してあります。
僕はDisc1に収録されている曲のうち6曲プロデュースや作曲で関わらせてもらっています。
今年はさらに4月4日に10周年を迎えるSuperflyのベストと、20周年を迎えるゆずのベストが4月26日に発売されます。
僕はこの3組はかなり近い時期から一緒に仕事をしているので、30、20、10周年を迎えるアーティストたちとこの10年仕事させてもらったことになります。
これだけのアーティストとたくさん仕事できるようになった大きなきっかけはエレファントカシマシです。
エレカシと初めて仕事したのは29歳のときでした。
僕はYUKIさんの作曲で徐々に仕事が来るようになっていた頃で、ある日スタッフの紹介で宮本さんから「涙のテロリスト」と手書きで書いたカセットのデモテープが届きました。
カセットデッキを持っていなかったのでCDに変換してもらったのですが、それは後の「笑顔の未来へ」で、この曲を皮切りにたくさんの曲を一緒にレコーディングしてきたしライブもたくさん一緒にやってきました。
カセットデッキを持っていなかったのでCDに変換してもらったのですが、それは後の「笑顔の未来へ」で、この曲を皮切りにたくさんの曲を一緒にレコーディングしてきたしライブもたくさん一緒にやってきました。
当時からプロデューサー志向だった僕ですが、10歳も上のベテランのバンドをプロデュースするなんてやったこともないし想像もつかなかったのですが、若さの勢いと持ち前の怖いもの知らずもあり、ずけずけと思ったことをそのまま、失礼なことをたくさん言っていたと思います。
その全てを受け入れて、いい作品を作ることだけを一緒に考えて前に進んでくれたエレカシには本当に感謝しかありません。
バンドをプロデュースするということ、ライブまで関わってそのバンドの空気を感じること、こんな場合はどういう行動をすればいいのか?その他色んなことを教えていただきました。
エレカシと過ごしたことで僕の仕事の幅は大きく広がって、時を重ねるにつれありがたいことに忙しい日々が続いていきました。
そして僕は基本的に来た順番に仕事を受けていたので、エレカシのレコーディングやライブに参加できないことも増えていきました。
しかし、僕をここまで忙しくなる音楽人に育ててくれたのはまぎれもなく宮本さんでした。
僕は心底エレカシに惚れ込んでいたし、宮本さんもきっとそう思ってくれていたと思います。
エレカシがもっと輝くには、もっとかっこいい曲にするには、常にそれだけを考えていました。
だからこそ、宮本さんは僕がメンバーになれないことはわかっていたし、僕も同様に永遠にエレカシのメンバーではないことはわかっていました。
2年前の野音終わりのリハで宮本さんが僕と2人になって話す機会を作ってくれました。
この何年もずっと蔦谷さんに頼ってきた、いないときはまるで何人もいなくなったかのように思ってしまうと。
そしてそれは蔦谷さんのこれからにとって、そしてエレファントカシマシとしてもよくないと。
僕らはもう一度バンドとして強くならなきゃいけないし、蔦谷さんはもっと羽ばたいてほしいと。
お互いにでっかくドーンと行くために宮本さんは言ってくれたのです。
僕は宮本さんに振られた形ですが、それを言わせたのは僕です。
エレカシとはあまりにもたくさんの想い出がありすぎて、帰りの車で一人泣いてしまったし、何日も落ち込んでいましたが、決まっていたミスチルとの大阪での対バンのライブがあったので気持ちを切り替えて、自分という人間がどこまで集中してライブに挑めるかという心持ちで一緒に演奏しました。
その日を最後にエレカシのメンバーとは会ってないです。
たしか一回宮本さんから間違い電話がかかってきて話したな。
でも多分すごい近々、別々の仕事で会いそう。
また会える日が楽しみでしょうがないです。
僕を一人前のプロデューサーに育ててくれた、僕というプロデューサーをプロデュースしてくれたのは宮本さんだと思っています。
「俺はお前に負けないが
お前も俺に負けるなよ」

写真は篠山紀信さんに撮ってもらったもので、僕はこれを額装してあります。