どーも!秋野です。
鶴の全ての曲から何が演奏されるか分からない、お楽しみ会のような今年のALL TIME CLASSICSです。
初めは不定期でいきなり開催されるイベントでしたが、次第に形を変え全国47都道府県ツアー3周目では全公演がATCになり、リクエストも挟みつつ毎回セットリストが異なるツアーにまで発展し、配信がメインになっているこのコロナシーズンにおいてはほぼほぼリクエストのみで構成されるイベントという所まで来ました。
なるべく広くリクエストに応えるようにやってきましたが、どうしてもあぶれてしまう曲も少なくないわけです。
そこで今年開催されるATCは「確実に演奏する曲を予告する」というものです。野球でいうところの予告先発スタイルです。
アルバム、ミニアルバムの単位で選び、指定された作品の曲は全て演るというものですので、聴けなかった曲が狙い撃ちで聴けるチャンス!今ならもらえる!系のキャンペーンのようですね。笑
ある人には懐かしかったり久しぶりだったり、またある人には新しかったり初めてだったり、沢山の人がそれぞれのタイミングで鶴を知ってくれているわけでして、今回は様々な記憶や思い出と共にめくるめく鶴ワールドを堪能してもらえれば幸いです。また誰かにとっての入り口になりますように。
と、前置きは完全なるコピペ、その2です。
せっかく色んな作品に焦点を当てたATCなので、当時の感覚を思い出しながらつらつらと書いていきましょう。

『素敵CD』
2004年の夏にリリース。
名前の由来は「自分たちが素敵だと思っている音楽を鳴らせたなら、それはもう素敵としか言いようがないじゃん。いや、これは誰がどう見ても素敵じゃん。間違いなく素敵な曲が入ったCDじゃん。この感覚、自己満足だけじゃないと思うんだよねーー」という根拠のない自信から生まれた、まんまのタイトルでした。これが「やりたい放題ベイベー」というワードの根源です。この概念は以降、上手くいくにしろいかないにしろ全ての作品に共通しているものとも言えます。
それまでCDというものはMTR(マルチトラックレコーダー)という多重録音機器で録音し、自分たちでミックスして(主に神田)、CDに焼きまくり(主に神田)、音源として会場で手売りするというのが僕らの流れでした。もちろん既にパソコンの音楽ソフトも出回っていましたが、何故か我々はアナログな手法に手を出してたんですね。たぶん誰も音楽ソフトをいじれなかったんだと思います。主に全員。
そんな技術の進化を遅ばせながら感じた鶴の歴史の第一歩となる初の全国流通盤です。我々は22歳。
MTRで作ったCDを元にライブハウスの門を叩いたわけですが、その中に新宿JAMというライブハウスがありました。
当時ブッキング担当をしていたのは、現在鶴マネージャーである森田氏。これが早速運命の出会い。この時はまだ誰も気づくわけなどなく。今もまだ真っ最中なので本当の運命など解らず。
ライブハウスはデモを渡すとまずはオーディションライブと称して昼の部にブッキングされ、そこで観てもらってから肌が合えば夜の部に出演させてるもらえるというのが常でした。夜の方がお客さんが入りますから、ここがまず最初の関門なわけです。今ではもうライブハウスが飽和状態で逆にバンド数が足りていませんから、このシステムは緩くなっていると思われます。
なぜ新宿JAMに行ったかというと〝たまたまそれ以前にやっていたバンドで出たことがあるから〟という単純な理由でした。
オーディションを受けるつもりで行ったのですが、音源を気に入ってくれた森田氏の独断と偏見によりいきなり夜の部にブッキングされます。
さらにその後はチケットノルマを通常より安くするから出ないか?という囲い込みようなもの受けます。笑
いやいや囲い込みとっても強制力はありませんよ。聞こえは悪かったかも知れませんが、ぶっちゃけこちらとしても条件が良かったわけですのでWin Win。ライブハウスからすれば集客が確実に期待できるならば、そもそもノルマなんてものは必要ないわけです。
自分で言うのもあれですが、損して得をとれって感じでしょうか。しかしこんな集客なしの駆け出しのバンドに目をかけようとした森田氏の独断と偏見は、こちらはWinでも下手すると損して得もない可能性も十分にあったわけですから、Mなのでしょうか。Mなんでしょうね。森田のMはM。あの頃からチャレンジ精神とライブハウス本来の感覚を持つ男。
こういうことを推し進めていける環境にあった新宿JAMは、当時主流だったギターロックの聖地的存在の下北沢になかなか定住できなかった僕らにとってとても魅力的で居心地のいい場所になっていったのでした。
JAMに出始めてしばらくたったある日、森田チャレンジから「ライブハウスでレーベルを作りたいから、その第1弾でやらないかい?」と言うお誘いを受けました。寝耳に水というか青天の霹靂というか神田の裸眼というか、驚きでした。疑いました。歌舞伎町の片隅にある小さなライブハウスでそんなこと言われたことなかったですから。東京って怖いって思いました。埼玉県民ですら思いました。隣にあるからって首都圏だからってそんな余裕はなく、ただただ何となくTOKYOナイズされた鶴ヶ島市民達は震え上がりました。
しかし今思うと森チャレの雰囲気は不思議と東京のそれではなかったように感じます。イケイケのギラギラではなかったんです。僕らが恐れていたのはどうやら歌舞伎町という響きと、ライブハウスがまだ未知なる大人の世界に感じていたからかもしれません。
東京近郊の僕らと似たような距離感で育った神奈川の男ですから、そこに親近感を覚えたんですねきっと。流行りに流されていないスタンスが相性良かったんだと思います。
レコーディングは初めてのことばかりでしたが、特に変わったことはしていません。
それまでバンドがやってきたように、せーのでリズムを1発録り。全員同じ部屋で鳴らしていますので音被り上等。
というかこの頃は別々の部屋で鳴らすという発想自体ありませんでしたから。レコーディング無知でエンジニア泣かせ。今だにエンジニアをよく泣かせていますが。
でもギターのダビングは新鮮でしたね。ギターソロの後ろにバッキングがいるぞ!すごいぞ!みたいな。笑
エンジニアは小野寺さんという方でした。
連日のように遅くまでスタジオ缶詰め作業はとにかく楽しいもので、小野寺さんからしたら当たり前の作業の一つ一つに感動し、作品を作るっていう概念がすっぽり抜けていた感じでしたね。大きい卓のフェーダーをいじって遊ばせてもらいました。いま逆の立場から想像したら、なんて可愛い奴らなんだろうって思いました。笑 ずっとキャッキャキャッキャしていましたからね。
レコーディングで一番覚えているのは小野寺さんに「今日終わったら肉を食べに行こう」と言われ、夜遅くに環八沿いのビリーザキッド荻窪店に行ったことです。あと台風のような大雨の中、ポンチョで原付に乗って帰って行った小野寺さんも今だに焼き付いています。
音源における個々の細かいプレイ内容は本当にラフなもので、考えが足りていない部分が多々あるのですが、だからこそ間違いなく初期衝動はそこに詰め込まれていて、鶴が表現したかったモノが鳴っています。今聴いてもカッコいいなと思えるポイントがあり、スタジオでリハーサルに入っては「素敵CDなんかカッコいいよね〜」と言い合っています。あの頃からバンドの楽しさは変わっていません。瑞々しく演りたいけど良くも悪くもグルーヴにはだいぶ年齢が出てきてしまいました。笑
歳を重ねた分だけアンサンブルは良くなっていくものだと思いますが、何も考えていない初期衝動はそれを凌駕するエネルギーを持っています。
ロックバンドなら尚更。鶴はそのどちらも鳴らしたいといつも思っているバンドです。
そんな思い出がある根拠のない自信は、その後の鶴の飛躍に繋がっていく作品になったのでした。
果たして岡山ではどんな素敵が鳴るのか、お楽しみに☆
鶴の全ての曲から何が演奏されるか分からない、お楽しみ会のような今年のALL TIME CLASSICSです。
初めは不定期でいきなり開催されるイベントでしたが、次第に形を変え全国47都道府県ツアー3周目では全公演がATCになり、リクエストも挟みつつ毎回セットリストが異なるツアーにまで発展し、配信がメインになっているこのコロナシーズンにおいてはほぼほぼリクエストのみで構成されるイベントという所まで来ました。
なるべく広くリクエストに応えるようにやってきましたが、どうしてもあぶれてしまう曲も少なくないわけです。
そこで今年開催されるATCは「確実に演奏する曲を予告する」というものです。野球でいうところの予告先発スタイルです。
アルバム、ミニアルバムの単位で選び、指定された作品の曲は全て演るというものですので、聴けなかった曲が狙い撃ちで聴けるチャンス!今ならもらえる!系のキャンペーンのようですね。笑
ある人には懐かしかったり久しぶりだったり、またある人には新しかったり初めてだったり、沢山の人がそれぞれのタイミングで鶴を知ってくれているわけでして、今回は様々な記憶や思い出と共にめくるめく鶴ワールドを堪能してもらえれば幸いです。また誰かにとっての入り口になりますように。
と、前置きは完全なるコピペ、その2です。
せっかく色んな作品に焦点を当てたATCなので、当時の感覚を思い出しながらつらつらと書いていきましょう。
『素敵CD』
2004年の夏にリリース。
名前の由来は「自分たちが素敵だと思っている音楽を鳴らせたなら、それはもう素敵としか言いようがないじゃん。いや、これは誰がどう見ても素敵じゃん。間違いなく素敵な曲が入ったCDじゃん。この感覚、自己満足だけじゃないと思うんだよねーー」という根拠のない自信から生まれた、まんまのタイトルでした。これが「やりたい放題ベイベー」というワードの根源です。この概念は以降、上手くいくにしろいかないにしろ全ての作品に共通しているものとも言えます。
それまでCDというものはMTR(マルチトラックレコーダー)という多重録音機器で録音し、自分たちでミックスして(主に神田)、CDに焼きまくり(主に神田)、音源として会場で手売りするというのが僕らの流れでした。もちろん既にパソコンの音楽ソフトも出回っていましたが、何故か我々はアナログな手法に手を出してたんですね。たぶん誰も音楽ソフトをいじれなかったんだと思います。主に全員。
そんな技術の進化を遅ばせながら感じた鶴の歴史の第一歩となる初の全国流通盤です。我々は22歳。
MTRで作ったCDを元にライブハウスの門を叩いたわけですが、その中に新宿JAMというライブハウスがありました。
当時ブッキング担当をしていたのは、現在鶴マネージャーである森田氏。これが早速運命の出会い。この時はまだ誰も気づくわけなどなく。今もまだ真っ最中なので本当の運命など解らず。
ライブハウスはデモを渡すとまずはオーディションライブと称して昼の部にブッキングされ、そこで観てもらってから肌が合えば夜の部に出演させてるもらえるというのが常でした。夜の方がお客さんが入りますから、ここがまず最初の関門なわけです。今ではもうライブハウスが飽和状態で逆にバンド数が足りていませんから、このシステムは緩くなっていると思われます。
なぜ新宿JAMに行ったかというと〝たまたまそれ以前にやっていたバンドで出たことがあるから〟という単純な理由でした。
オーディションを受けるつもりで行ったのですが、音源を気に入ってくれた森田氏の独断と偏見によりいきなり夜の部にブッキングされます。
さらにその後はチケットノルマを通常より安くするから出ないか?という囲い込みようなもの受けます。笑
いやいや囲い込みとっても強制力はありませんよ。聞こえは悪かったかも知れませんが、ぶっちゃけこちらとしても条件が良かったわけですのでWin Win。ライブハウスからすれば集客が確実に期待できるならば、そもそもノルマなんてものは必要ないわけです。
自分で言うのもあれですが、損して得をとれって感じでしょうか。しかしこんな集客なしの駆け出しのバンドに目をかけようとした森田氏の独断と偏見は、こちらはWinでも下手すると損して得もない可能性も十分にあったわけですから、Mなのでしょうか。Mなんでしょうね。森田のMはM。あの頃からチャレンジ精神とライブハウス本来の感覚を持つ男。
こういうことを推し進めていける環境にあった新宿JAMは、当時主流だったギターロックの聖地的存在の下北沢になかなか定住できなかった僕らにとってとても魅力的で居心地のいい場所になっていったのでした。
JAMに出始めてしばらくたったある日、森田チャレンジから「ライブハウスでレーベルを作りたいから、その第1弾でやらないかい?」と言うお誘いを受けました。寝耳に水というか青天の霹靂というか神田の裸眼というか、驚きでした。疑いました。歌舞伎町の片隅にある小さなライブハウスでそんなこと言われたことなかったですから。東京って怖いって思いました。埼玉県民ですら思いました。隣にあるからって首都圏だからってそんな余裕はなく、ただただ何となくTOKYOナイズされた鶴ヶ島市民達は震え上がりました。
しかし今思うと森チャレの雰囲気は不思議と東京のそれではなかったように感じます。イケイケのギラギラではなかったんです。僕らが恐れていたのはどうやら歌舞伎町という響きと、ライブハウスがまだ未知なる大人の世界に感じていたからかもしれません。
東京近郊の僕らと似たような距離感で育った神奈川の男ですから、そこに親近感を覚えたんですねきっと。流行りに流されていないスタンスが相性良かったんだと思います。
レコーディングは初めてのことばかりでしたが、特に変わったことはしていません。
それまでバンドがやってきたように、せーのでリズムを1発録り。全員同じ部屋で鳴らしていますので音被り上等。
というかこの頃は別々の部屋で鳴らすという発想自体ありませんでしたから。レコーディング無知でエンジニア泣かせ。今だにエンジニアをよく泣かせていますが。
でもギターのダビングは新鮮でしたね。ギターソロの後ろにバッキングがいるぞ!すごいぞ!みたいな。笑
エンジニアは小野寺さんという方でした。
連日のように遅くまでスタジオ缶詰め作業はとにかく楽しいもので、小野寺さんからしたら当たり前の作業の一つ一つに感動し、作品を作るっていう概念がすっぽり抜けていた感じでしたね。大きい卓のフェーダーをいじって遊ばせてもらいました。いま逆の立場から想像したら、なんて可愛い奴らなんだろうって思いました。笑 ずっとキャッキャキャッキャしていましたからね。
レコーディングで一番覚えているのは小野寺さんに「今日終わったら肉を食べに行こう」と言われ、夜遅くに環八沿いのビリーザキッド荻窪店に行ったことです。あと台風のような大雨の中、ポンチョで原付に乗って帰って行った小野寺さんも今だに焼き付いています。
音源における個々の細かいプレイ内容は本当にラフなもので、考えが足りていない部分が多々あるのですが、だからこそ間違いなく初期衝動はそこに詰め込まれていて、鶴が表現したかったモノが鳴っています。今聴いてもカッコいいなと思えるポイントがあり、スタジオでリハーサルに入っては「素敵CDなんかカッコいいよね〜」と言い合っています。あの頃からバンドの楽しさは変わっていません。瑞々しく演りたいけど良くも悪くもグルーヴにはだいぶ年齢が出てきてしまいました。笑
歳を重ねた分だけアンサンブルは良くなっていくものだと思いますが、何も考えていない初期衝動はそれを凌駕するエネルギーを持っています。
ロックバンドなら尚更。鶴はそのどちらも鳴らしたいといつも思っているバンドです。
そんな思い出がある根拠のない自信は、その後の鶴の飛躍に繋がっていく作品になったのでした。
果たして岡山ではどんな素敵が鳴るのか、お楽しみに☆
鶴「ALL TIME CLASSICS2021~ 素敵CD~」
4月10日(土)岡山CRAZYMAMA KINGDOM
開場 18:00 / 開演 18:30
入場チケットなど詳細はこちら
https://afrock.jp/live/11475/開場 18:00 / 開演 18:30
入場チケットなど詳細はこちら
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ただただ楽しみです。
素敵グルーヴが生まれるのを
楽しみにしています☆
ひっさびさに週末を楽しみに待ちながら過ごしてます!!