月別アーカイブ / 2016年09月

人と人との関係において、互いに気心が知れて分かり合っていると思っていても、気づかない内にすれ違いが起こってしまうのは、それぞれが独立した個体である以上、仕方がない事なのでしょうか。

しかも、場合によっては「分かり合っていると思っている」こと自体が独りよがりのこともあります。
自然にコミュニケーションを取れていると思っていたら、実は相手に相当な負担を強いていた、意図通り伝わっていなかった。

双方が気づいていないのならばお互い様だが、片方が無理しているのはなんとアンフェアなんだろう、と超絶自己嫌悪に陥ります。

人がどう受け取るかなんて、受け取り手が決めることとはいえ、それが必要なコミュニケーションならば誤解させないことも自分の責任です。

となると相手側の受け取り方に歩み寄る技術が必要となりますが、自分が相手でない以上そこに不確実性、アンコントローラブルな状況が生まれ、時にはそれが苦悩となって現れることがあります。

相手の事情を想像するといったテクニックもありますが、それにしたって想像のみではあくまで机上の相手像であって、実際のところではない。最終的には対話が必要なんでしょう。

常識なんていうものは人によって違うため、互いに互いを尊重できるならばそれがベストです。が、仕事や特別な関係のように複数人で何かを成そうとした時にはそうもいかないケースが出てきます。

コミュニケーション、特に上辺ではない対話には勇気が要りますし、なんだかんだ人間も生き物ですので、体調の善し悪しや虫の居所というパラメータも関わってきます。性格の合う合わないも場合によってはあるでしょう。

親友、友人、上司、同僚、知人。言い方はバッサリですが所詮は赤の他人。あるいは親族や家族だって、それを維持しようとする気持ちがなければ、簡単に離れ離れになってしまう類のものだと確信しています。

一方で、袖触れ合うも他生の縁と言いますから、無数の中から得られた縁を一つ一つ尊いものとして大事にしていきたいのです。

魚心あれば水心、そのきっかけを作るのは自分自身でありたいものです。

……まあ、それが難しいんですけれどね。 

スタートアップにおいては、短い期間でガーッとハードワークするのが常態化しているイメージを持たれがちです。社畜上等というか、そもそもが仕事とプライベートが渾然一体になっているというか。

就職してから今日に至るまでを振り返ってみると、確かに勤務時間でいうと増えはしても減ることはない気がしていますし、フリーランスとなった今では、そもそもの曜日感覚らしいものすら怪しくなってきています。

個人的には割とのらりくらりとやらせていただけているといいつつも、いわゆる「安定度」とか「収入」の軸でいうと、新卒時をピークとして未だに越えられてはいないでしょう。

ならば不幸への道を歩んでいるのか、と問われれば、むしろ日々の充実度は増しているんじゃないかと胸を張れるあたり、また不思議な感じがします。

最近の私の中での一つの仮説として、危機感がないと人間は成長しない、というのがあります。

格言らしく述べてみましたが、実際のこれの主語は「人間」ではなく、「私」かもしれません。というのも、私自身の性分として甘えたがり、自戒するよりまずだらけてしまうというのが最近になってようやく分かってきたのです。

しかし、いつからでしょうか。私は自分の中で危機感を醸成できないからこそ、無意識の内にあえて危機感を煽られるような環境に身を置く決断をするようになっていました。

特に社会に出てからが顕著で、3年いると誓って新卒で入った会社を2年経たずに出てみたり、次に入った会社ですら1年と少しで飛び出しています。

中には無知が故そうなってしまったという類のものもあります。それが無意識の選択ならば私は自分の中で危機感を醸成できないからこそ、あえて危機感を煽られるような環境に身を置く決断をしてきたとみることもできます。

そしてその安全ではない状況の中で何かしら成長のヒントとなる気づきを得て、実際に成長できたと、そう断言できるのです。

宗教家・常岡一郎さんの『人間は何のために生まれてきたのか』という文章の中で、「人は多分、育つために生まれさせられたのだろう」というくだりが出てきます。

育つこと、すなわち成長が人生の意味であるならば、あえて現状に甘んじず「自分自身を試す」ことこそ育つための条件であり、生まれさせられた理由にあたるのかもしれません。

幸せは定義できる類のものではないですし、いわゆる人生におけるやりがいの形も人それぞれあるでしょう。

ただ私の場合は、性分として何だか分からないけれどわちゃわちゃしている、どうなるか分からないけれどやるっきゃない、その雰囲気が大好きなのです。

そこで少なくとも向こう数年は何かを決める際に「ぬるま湯を出る」ということを意識していきたいのです。

1,2年ほど前にYouTubeの広告に使われた「好きなことで、生きていく」というコピーをよく目にしていましたが、YouTuberでない私たちが好きなことで生きていくためにはどんなことができるのかを考えてみます。

好きなこととはなんでしょうか。少しざっくりしすぎていますかね。場合によっては実体が見えづらいかもしれません。ここではやりたいこと、と表すことにしましょう。

他方、生きていく、ということについてはまだ想像が容易です。生きるためには食べていかねばなりません。生きていく、というところは食べていくと言い換えることができそうです。

社会に出ると、食べるために稼がねばならなくなりますが、憲法で基本的人権が権利として認められている現代では、幸いにも自分自身の稼ぎ方を自分自身で決めることができます。

ここまで分からないなりに自分で動いてみた感覚値として、実は食事の口を確保すること自体はそこまで難しくなくなってきているのかもしれません。

特に昨今ではアフィリエイトを始めとするインターネットを通じた収入、副業解禁やクラウドソーシングの流れがあります。収入といえば社会人生活の長きにわたって一社から継続的にいただけていた(らしい)頃に比べて稼ぎやすくなっているに違いありません。

そして自分の力で糊口をしのげるくらいの収入を確保できる、ということに確信を持ててようやく、自分がどうありたいか・何をやりたいのかということに真面目に向き合うことができるのでないでしょうか。

では自分は何がやりたいのか好きなことはなんなのかということになりますが、こればかりはあらゆる手段を使ってでも自分で見つけていくしかないでしょう。既に決まっている方は僥倖だといえます。私はまだ分からないです。

やりたいことで食べていくのか、やりたいことを探しながら食べていくのか。

食べていく形は様々あるにせよ自分の仕事を稼業とするためには、それがどうやって相手に価値を与えられるか、こちらの求める対価を払っていただけるか、その意識が必要になってきます。

ビジネスの場におけるお金はとても神聖なものです。やはりなあなあで扱ってはいけないでしょう。

支払う側においても結果が想定より違うものであればその旨を素直に伝え、その先を話し合うべきです。受け取る側についても報酬が過剰・不足だと思えばその旨を素直に伝え交渉すべきです。

実際にはどちらかの発言力が増すこともありますが、原則として両者はお金の前では対等です。互いに納得感があってこそ、よいビジネス関係は築かれるものと思いますし、歪な関係はいつかは破綻してしまうでしょう。  

自分の中のやりたいことと向き合う面と、相手の要求に応える面。

その両面がしっかりとあって、私たちでもやりたいことで食べていく、好きなことで生きていくことができるようになるのではないでしょうか。

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