『見た目が大事』

おはようございます

先日、若い世代の生徒から

『周りからどう思われるか気になって
思い切り歌えない。どうしたらいいですか?』

と質問されました。

どう答えようか、少し迷うところですよね
「きにするな!」という答えは
安直で中身がなさすぎて
言えないので

僕の結論は
『どう思われているか』
以上に
『どう見られるか』
を気にしてみたら?

と告げてエクササイズしました。

まず1つ目
『気になる』点が、気になっている限り
その点が「気にならなくなることはない」
というのが僕の持論。(難しいですね(笑)

まぁ想像してください(^^)

そして二つ目
『どう思われるか?』はコントロールできないけど
『どう見られるか?』はコントロールできる
と判断したからです。

つまり、『歌うときの見た目』に特化したエクササイズでした

それは、「姿勢」「立ち姿」だけでなく
「表情」「メイク」「衣装」に至るまで

あえて自分を「見られて遜色ないレベル」に
『武装』させる『見られ方にこだわる』ことで
『思われること』が気になるメンタルベクトルの
向きを変えました。

これに関しては、女性の方が
ピンとくる発想ではないかと思います

この辺りは、僕の持論なので
ご意見あるかと存じます。

『見た目が大事』

「武器」ではなく「盾」として
それを使った時に、その意味に気づけるのではないかと思います

彼女が、次に、どんな顔で舞台に乗るのか
とても楽しみですよ(^^)

部屋の窓から、曇天の中
色が灰色にくすみ始めた花を見つけたので
スノーで「盛って」みました。

随分と違うもんですね(^^)

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インターネットに散らばっている情報は
すでに「食べカス」である

例えば
Aクラスさんが1000円で買ったお菓子を食べている

私たちBクラスは、1000円レベルのお菓子など見たことがない

Aクラスは、そのお菓子を8割食べたところで
もう一度形を整え、そのお菓子を1000円で売り始める

売り文句は「このお菓子を食べれば、僕ら(Aクラス)のような
ライフステージに立った気分になれる」

私たちBクラスは、これを買うだろうか?
ほとんどの人は「まさか、買うもんか」というだろう。

しかし、あなたたちBクラスユーザーはすでに
オンラインサロンや、Noteの購入などによって
「食べカス」を買わされていることを覚えて欲しい。

すでに知っている人たちから得た情報は
「中古」だということを忘れてはならない。

そして私たちBクラスは、Bクラスとして
中古を買わされて、感謝するような
プライドでは、永久にBクラスから這い上がることはできないということも
覚えなければならない。

そんなこと、Aクラスの人間は、朝飯前にわかっていて
僕らに情報を提供しているんだ。

「もらうな」とは言わない
ただ、Aクラスを見上げ、媚びへつらうのはやめたらどうだ?

今は、食べカスの施しを甘んじて受けるのは仕方ない、
それを、Bクラス流に
アレンジするセンスが私たちに試されているのだ。

貴族の食べカスから、庶民は何を生む?

私たちの使命は、そこにある。

『その先に』

〜未来に遺るものに、興味はない〜

自分が作品を作らなかった理由の一つ
これは「本音」だった

そもそも、「作品」というものを作ること自体が
自分にとって特別なことであり
特別な存在になって初めて、それが「許される行為」だという認識が
子供の頃からあったように記憶している。

それが「変わった」39歳。
ふと思った

『あぁ、このまま、何も起こさずに、死ぬんだなぁ』

それを望んですらいたはずなのに
それがなぜか、怖くなった。

40年近く生きて、自分の器はわかった
どのレベルが自分の天井なのかもわきまえた。
なりたいイメージはあった。
この器では、出来ないことを知ったのは比較的早かった。
その時点で、「この器から出るものは、遺るべきではない」と判断した。

20代で得たものを捨てて30代に突入し
30代で得たものもまた同様に捨てて
40代に突入している。それは僕の中での「RESET」

現状も相変わらず、この手に遺るものは、何もない。
何もないうちに、いなくなることができたら
どんなに楽だろうと、思って生きてきた。
早く、1日も早く。

そう思っていた、はずなのに。

怖くなった。

どうして、積み上げて来なかった?
どうして、捨てて生きる必要があった?
どうして、若くして「絶望」を受け入れてしまった?

屁理屈と怠惰によって、時間を食いつぶしつつある器から
いよいよ、意識を超えたところでの
何かしらのシグナルが出始めている

「終わり」が近づいている。

そこに、「向かう」ことで、生きている実感が得られた
しかし、それがリアルになってくればくるほど
「向かう」ことすら辞めて、「ただ、待つ」

向かうことでたどり着くところがなんとなく見えてしまった今
ただ、待つことによって
〜その先に〜
実は、それが「境地」なのかもしれないと、感じている。

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