月別アーカイブ / 2017年10月

『☆認知革命
七万年前から三万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場のことを、「認知革命」という。
その認知革命において、私たちの言語がもつ真に比類ない特徴といえば、現実に存在する情報を伝達する能力というよりも、むしろ、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力なのだ。伝説や神話、神々、宗教は、そういう認知革命に伴って初めて現れたのだった。神話や虚構、すなわち架空の事物について語る能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っているのだ。
そして、虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、集団でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代」の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができるようになった。そして、そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与えた。
サピエンスが発明した想像上の現実の計り知れない多様性と、そこから生じた行動パターンの多様性はともに、私たちが「文化」と呼ぶものの主要な構成要素だ。いったん登場した文化は、けっして変化と発展をやめなかった。そして、こうした止めようのない変化のことを、私たちは「歴史」と呼ぶ。
したがって、認知革命は歴史が生物学から独立を宣言した時点だ。認知革命までは、すべての人類種の行為は、生物学の領域に属していた。
しかし、認知革命以降は、ホモ・サピエンスの発展を説明する主要な手段として、歴史的な物語が生物学の理論に取って代わる。キリスト教の台頭あるいはフランス革命を理解するには、遺伝子やホルモン、生命体の相互作用を把握するだけでは足りない。考えやイメージ、空想の相互作用も考慮に入れる必要があるのだ。

☆農業革命
アフリカで細々と暮らしていたホモ・サピエンスが、食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか。その答えを解く鍵は「虚構」にある。私たちが当たり前のように信じている国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、そういった虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にしたのだ。
そして、やがて人類は農耕を始めたが、農業革命は狩猟採集社会よりも過酷な生活を人類に強いた。史上最大の詐欺だった。
やがて、歴史は統一へと向かう。そのための普遍的な秩序となる可能性を持ったものが三つ登場した。真っ先に登場した普遍的な秩序は経済的なもので、貨幣という秩序だった。第二の普遍的な秩序は政治的なもので、帝国という秩序だった。第三の普遍的な秩序は宗教的で、仏教やキリスト教、イスラム教といった普遍的宗教の秩序だった。

☆最強の征服者 貨幣
貨幣は相互信頼の制度であり、しかも、ただの相互信頼の制度ではない。これまで考案されたもののうちで、貨幣は最も普遍的で、最も効率的な相互信頼の制度なのだ。この信頼を生み出したのは、非常に複雑で、非常に長期的な、政治的、社会的、経済的関係のネットワークだった。
私たちの金融制度が政治や社会やイデオロギーの制度とこれほど緊密に結びついている理由や、政治の成り行きで金融危機がしばしば引き起こされる理由、ある日の朝、投機家たちがどんな気分かで株価が上がったり下がったりする理由も、信頼が果たす決定的な役割で説明できる。

☆グローバル化を進める帝国のビジョン
帝国とは、二つの重要な特徴を持つた政治秩序のことをいう。帝国と呼ばれるための第一の資格は、それぞれが異なる文化的アイデンティティと独自の領土を持った、いくつもの別個の民族を支配していることだ。第二に、帝国は変更可能な境界と潜在的に無尽の欲を特徴とする。帝国は、自らの基本的な構造もアイデンティティも変えることなく、次から次へと異国民や異国領を呑み込んで消化できる。
また、帝国は人類の多様性が激減した大きな要因だった。帝国というロードローラーが、数限りない民族の類のない特徴を徐々に跡形もなく踏み潰し、そこから新たなはるかに大きい集団を作り上げていった。
人類のほとんどは帝国のなかで暮らしてきた。将来も、やはり人類の大半が帝国の中で暮らすだろう。だが、将来の帝国は、真にグローバルなものとなる。全世界に君臨するという帝国主義のビジョンが、今や実現しようとしているのだ。
しだいに多くの人が、特定の民族や国籍の人ではなく全人類が政治的権力の正当な源泉であると信じ、人権を擁護して全人類の利益を守ることが政治の指針であるべきと考えるようになってきている。だとすれば、二百近い独立国があるというのは、その邪魔にこそなれ、助けにはならない。単一のグローバルな政府が人権を擁護するほうが簡単ではないか?どのような独立国であれ、地球温暖化を単独で克服することはできないのだ。
2014年の時点で、世界はまだ政治的にバラバラだが、国家は急速にその独立性を失っている。国家はグローバル市場の思惑や、グローバル企業やNGOの干渉、グローバルな世論や国際司法制度の影響をますます受けやすくなつている。国家は、金融面での行動や環境政策、正義に関する国際基準に従うことを余儀なくされている。
私たちの眼前で生み出されつつあるグローバル帝国は、特定の国家あるいは民族集団によって統治されはしない。この帝国は後期のローマ帝国とよく似て、多民族のエリート層に支配され、共通の文化と共通の利益によってまとまっていくだろう。

☆宗教という超人間的秩序
宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。そして、これには二つの異なる基準がある。
1.宗教は、超人間的な秩序の存在を主張する。その秩序は人間の気まぐれや合意の産物ではない。
2.宗教は、超人間的な秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それには拘束力があると見なす。
本質的に異なる人間集団が暮らす広大な領域を傘下に統一するためには、宗教は、さらに二つの特性を備えていなくてはならない。第一に、いつでもどこでも正しい普遍的な超人間的な秩序を信奉している必要がある。第二に、この信念をすべての人に広めることをあくまで求めなければならない。言い換えれば、宗教は普遍的であると同時に、宣教を行うことも求められるのだ。
過去300年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことを言っているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的情熱や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代ということになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は、宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾に過ぎない。もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソビィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。

☆拡大するパイという資本主義のマジック
科学革命が、進歩という考え方を生み出した。進歩という考え方は、もし私たちが己の無知を認めて研究に投資すれば、物事が改善しうるという見解の上に成り立っている。そして、この考え方は、まもなく経済にも取り入れられたのだ。
過去500年の間に、人々は進歩という考え方によって、しだいに将来に信頼を寄せるようになっていった。この信頼によって生み出されたのが信用で、その信用が本格的な経済成長をもたらし、成長が将来への信頼を強め、さらなる信用への道を開いた。そして、今日の世界には信用があふれているので、政府や企業、個人は、当期の収益や現在の収入をはるかに上回るような、多額で長期かつ低利の融資を簡単に受けることができるのだ。
そういうグローバルなパイは拡大するという信念が、社会に革命的な変化をもたらした。

☆文明は人間を幸福にしたのか。
人間の体内の生化学システムは、幸福の水準を比較的安定した状態に保つようにプログラムされているらしい。幸福そのものが選ばれるような自然選択はけっしてない。満ち足りた隠遁者の遺伝系列がやがて消滅するかたわら、ともに心配性の両親の遺伝子は次世代に受け継がれる。幸福と不幸は進化の過程において、生存と繫殖を促すか、妨げるかという程度の役割しか担っていない。それならば、進化によって私たちが極端に不幸にも、極端に幸福にもならないように形作られていても、不思議はないかもしれない。私たちは溢れんばかりの快感を一時的には味わえるものの、そうした快感は永続しない。それは遅かれ早かれ薄まっていき、不快感に取って代わられる。
純粋に科学的な視点から言えば、人生には全く何の意味もない。人類は、目的も持たずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。私たちの行動は、神による宇宙の究極の計画の一部などではなく、もし明朝、地球という惑星が吹き飛んだとしても、おそらく宇宙は何事もなかったかのように続いていくだろう。現時点の知見から判断すると、人間の主観性の喪失が惜しまれることはなさそうだ。したがって、人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものも単なる妄想にすぎない。中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も妄想であり、現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や、国民主義的意義、資本主義的意義もまた妄想だ。人類の知識量を増大させる自分の人生には意義があるという科学者も、祖国を守るために戦う自分の人生には意義があると断言する兵士も、新たに会社を設立することに人生の意義を見出す起業家も、聖書を読んだり、十字軍に参加したり、新たな大聖堂を建造したりすることに人生の意義を見つけていた中世の人々に劣らず、妄想に憑りつかれているのだ。
それならば、幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。
私たちの幸福は主観的感情と同一視され、幸せの追求は特定の感情状態の追求と見做される。対照的に、仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、すなわち自分が本当は何者なのか、あるいは何であるのかを理解することだとされる。たいていの人は、自分の感情や思考、好き嫌いと自分自身を混同している。彼らは怒りを感じると、「私は怒っている。これは私の怒りだ」と考える。その結果、ある種の感情を避け、ある種の感情を追い求めることに人生を費やす。感情は自分自身とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸に囚われるだけであることに、彼らは決して気づかない。
もしこれが事実ならば、幸福の歴史に関して私たちが理解していることのすべてが、実は間違っている可能性もある。ひょっとすると、期待が満たされるかどうかや、快い感情を味わえるかどうかは、たいして重要ではないのかもしれない。最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるかどうかだ。古代の狩猟採集民や中世の農民よりも、現代人のほうが真の自分を少しでもよく理解していることを示す証拠など存在するだろうか?

☆超ホモ・サピエンスの時代へ
サピエンスはいずれシンギュラリティに至る。それは私たちの世界に意義を与えているもののいっさいが、意味を持たなくなる時点、テクノロジーや組織の変化だけではなく、人間の意識とアイデンティティの根本的な変化も起こる段階だ。そして、それはサピエンスが再び唯一の人類種ではなくなる時代の幕開けかもしれない。
また、未来のテクノロジーはサピエンスそのものを変え、私たちには想像の糸口もつかめない感情と欲望を持たせうるだろう。』


私たちが、当然のように前提としている国家、宗教、自由、平等、それらのものは虚構であるという、一種の過激な表現には、少々たじろいでしまう程の勢いはあるが、本来抽象的で概念的なものを言語活動で共有できなければ、著者の言うように大きな集団単位での協力ネットワークシステムなどはとても創り上げられることはないであろう。そして、そういうサピエンスとしての能力こそが、サピエンスを他の種と大きく区別するものであり、文明の礎となったものかもしれない。
宗教と科学、そして経済、特に資本主義に関して、独創的でありつつ分かり易い論理展開だった。そのなかでも、資本主義の「信用」と「信頼」という視点からの論は、その本質に迫る理論でとても興味深いものだ。また、「幸福」というものへのアプローチは、共感できる手法だ。

そして、シンギュラリティ後の新しい人類種とは?

本書は、常識的で固定的な考え方を見事に覆されるそんな爽快感すら感じる著作だ。


『サピエンス全史 上下巻』 著 ユヴァル・ノア・ハアリ より


🚅🚀


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NB Press Onlineより



サブプライムローンに端を発する金融危機のような『ブラックスワン』、つまり大規模で、予測不能で、突発的な事象を著者はそう名付けている。そして、著者は、こういったブラックスワン的なものに対して、「反脆弱性」という答えを出したのだ。
それは、言い換えればシステムに害をもたらす事象の発生を予測するより、システムが脆いかどうかを見分ける事のほうが解決策になるという対処なのだ。
確かに、自然に対して人間が予知しうる限界があることは事実だろうし、人間が世の中の複雑系といった事象を完璧にシステムとして理解することも、まだ不可能だろう。
しかし、すべての事象を「脆弱 頑健 反脆弱」という「三つ組」のカテゴリーに分類しようという著者の試みに対して、私が些か無理を感じてしまったのも事実だ。
それでも、一読の価値はあった。

『☆脆弱 頑健 反脆弱
脆弱のカテゴリーの場合、間違いはめったに起こらないが、起こる時は巨大なので、取り返しがつかない。反脆弱のカテゴリーの場合、間違いは小さく穏やかなので、取り返しがつくし、すぐに克服できる。
そして、反脆くなりたいのなら、「間違いを嫌う」状況ではなく、「間違いを愛する」状況に身を置くべきなのだ。そのためには、間違いはしょっちゅう起こるが、一つひとつの害は小さいという状況を作れば良いのだ。

☆冗長性
リスク管理のプロは過去に目を向け、いわゆる「ワースト・ケース・シナリオ」に関する情報を探し、その情報を使って将来のリスクを試算する。「ストレス・テスト」と呼ばれる手法だ。彼らは史上最悪の不況、戦争、金利の動き、失業率を用いて、史上最悪の結果をずばり想定しょうとする。
しかし、その“最悪の出来事”というのは、起きた時点では、当時の最悪の出来事よりも悪い出来事だったのだ。
2011年の津波で壊滅的な被害を受けたフクシマの原子炉にも、同じことがあてはまる。フクシマの原子炉は過去最悪の地震に耐えるよう設計されていたが、建築者はもっと深刻なケースを想像しなかった。過去最悪の地震も、それが起こった当時は前例のない「青天の霹靂」だったとは考えなかったのだ。
同じように、連邦準備制度理事会元議長のアラン・グリーンスパン博士は、議会への謝罪で、「前代未聞だった」というお決まりの言い訳をした。
さて、母なる自然はどうだろう。グリーンスパンとは違って、前代未聞の出来事に備えている。もっと深刻な害が起こり得ると想定しているわけだ。人間がひとつ前の戦争と戦うのだとしたら、自然はひとつ先の戦争と戦う。

☆反脆さとは
経済全体が反脆く“進化”するためには、個々の企業が脆く、破綻の可能性を持っていることが欠かせない。進化が起きるには、生物(やその遺伝子)が死滅し、別の生命で置き換えられる必要がある。そうでければ、いつまでたってもシステム全体は改善しないし、適応度の低い生物が繫殖してしまう。したがって、階層上位の反脆さを実現するためには、下位の脆さ(つまり犠牲)が必要なこともあるわけだ。
このような集団の利益と個人の利益とのトレードオフでは、経済は個々の卵を割らずに生き残ることはできない。保護は有害になる。だから、人々の利益の為に進化の力を抑え込むことは不要に思える。だが、人々を飢饉から守り、社会的に保護し、敬意を払うことはできる。そして、それ以上のことも。

☆否定の道
知識を構築するのに一番役立つ(そして一番頑健な)方法は、間違いと考えられるものを取り除くことにある。いわば、引き算的な認識論だ。
そして、私が唱える認識論の中心的信条とは次のようなものだ。私たちは、何が正しいかよりもなにが間違っているかをずっと多く知っている。脆さと頑健さの分類を使って言い換えれば、否定的な知識(何が間違っているか、何が上手くいかないか)のほうが、肯定的な知識(何が正しいか、何が上手くいくか)よりも、間違いに対して頑健だ。つまり、知識は足し算よりも引き算で増えていくのだ。
世の中の最大の間違いは、理解不能なものを不合理なものと勘違いすることだ。ニーチェも同じようなことを言っている。ある意味では、見えないものを存在しないものと勘違いする、七面鳥問題と似ている。「証拠がないこと」を「ないことの証拠」と間違えてしまうのだ。
自然界に人間の理解できないものがあるとしたら、人間の理解を越えた深い意味がある可能性が高い。つまり、自然界のものには人間よりもずっと優れたロジックがあるということだ。母なる自然がすることは、正しくないと証明されるまでは正しい。人間や科学がすることは、不備がないと証明されるまでは不備がある。
不安定なものや壊れやすいものは、みんなこれまでの長い年月の間に壊れる機会が十分あった。さらに、母なる自然を構成する要素は、システム全体を生存させるような形で、相互作用の仕方を調整してこなければならなかった。数百万年の時を経て出来上がったのは、堅牢性、反脆弱性、局所的な脆弱性の絶妙な組み合わせだ。自然全体がもっと上手く機能するために、局所的なところで犠牲が払われる。
私たちは人間の遺伝子のために自らを犠牲にする。人間の脆さと引き換えに、遺伝子の生存を手に入れる。人間は老いる。だが遺伝子は老いることなく、人間のあずかり知らないところで、どんどん適応度を高めていく。モノは小さな規模で常に壊れている。そのおかげで、全体的な大惨事を防ぐことができるのだ。
脆さと頑健さという基準は、情報の扱いにも当てはめることができる。この文脈でいう脆いものとは、技術と同じように、時の試練に耐え抜けないものだ。したがって、本や科学論文の年齢を考慮するのが、脆いものとそうでないものをえり分ける最善のヒューリスティック(経験則)ということになる。
発表されて1年しか経っていない本は、どれだけ噂になっていて“画期的”に見えても、大抵読む価値がない(“生き残る”素質を持っている確率はとても低い)。10年間発行され続けている本は、もう10年残るだろうし、2000年前から読まれている本は、かなり先まで読まれるはずだ。

☆脆さと反脆さの倫理
現代的社会が伝統的社会と大きく違うのは、英雄的行為がなくなったことだ。他人のために負のリスクを背負った人々に、一定の敬意を示し、権力を与えることが少なくなっている。英雄的行為はエージェンシー問題とは対照的だ。他者のために進んで不利益を背負うのだ。ところが現代のシステムはその反対だ。銀行家、起業家以外の企業幹部、政治家のように、社会から無料オプションをかすめ取っているような連中に、権力が渡ることが多い。
知識人や評論家を、身分の守られた社会の超然的な一員として扱うことには反対だ。しゃべるだけで行動せず、損害に対するエクスポージャーを負わず、身銭を切らず、何もリスクを冒さないというのは、極めて非倫理的だと思っている。意見を表明する。その意見を信じた人を傷つける可能性がある。でも責任は一切負いません。こんなのはフェアーだろうか?
でも現代は情報化時代だ。この脆さを移転するという現象は、縦横無尽につながりあい、因果関係の鎖が見えなくなっている現代では、以前よりはるかに深刻さを増している。今日の知識人は昔よりもずっと影響力が強くて危険だ。この“知識の世界”は、(同一人物の中でさえ)知識と行動の乖離を生み出し、社会に脆さをもたらしている。』

『反脆弱性〈ANTIFRAGILE〉』 上下巻 「不確実な世界を生き延びる唯一の考え方」 ナシーム・ニコラス・タレブ 著 より


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のん公式Instagramより






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