月別アーカイブ / 2017年06月

『哲学は今、何を問うているのか?

「よく生きるために何をすべきなのか」が哲学にとって根本問題なのは間違いないが、こうした「人生論としての哲学」を、現代において哲学者たちが積極的に語っているかといえばそうではない。
今、哲学者は「たった今進行しつつあることは何なのか、われわれの身に何が起ころうとしているのか、この世界、この時代、われわれが生きているこの瞬間はいったい何であるのか、われわれは何者なのか。」つまり、自分の生きている時代、(「われわれは何者か」)を語っているのだ。
そして、それを捉えるために、哲学者は現代へと至る歴史を問い直し、そこからどのような未来が到達するのかを展望している。

そこで、現代と哲学を捉えるために、次の6つにテーマを分けてみる。

1、哲学は現在何を解明しているのか?
2、IT革命は、私たちに何をもたらすのか?
3、バイオテクノロジーは、私たちをどこに 導くのか?
4、資本主義制度に、私たちはどう向き合えばよいのか?
5、宗教は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすのか?
6、私たちを取り巻く環境は、どうなっているのか?

哲学や道徳も今や心理学や脳科学と密接に連携した学問となりつつある。そうしたなかで、BT革命のような生命科学と遺伝子工学の発展が「人間」を終わらせるというのは、BT革命が「人間」という概念を根底から変えてしまう可能性があるからだ。哲学とは「人間」を出発点に据えて、そこからあらゆる実在的領域を認識する学問だったのが、もしかして「人間」を遺伝子操作する現代は、その出発点である「人間」そのものの概念が揺らぐという、ポスト人間主義の時代に入ったのかもしれないのだ。
つまり、一方で情報通信技術の発展(IT革命)によって書物に基づく「人文主義」が、他方で生命科学と遺伝子工学の発展(BT革命)によって「人間主義」が終わろうとしているのかもしれないのだ。
また、資本主義もITによって変容を遂げていくだろう。今流行りの共有型経済(シェアリング・エコノミー)は、果たして資本主義にとって代わるのだろうか、それとも資本主義の一部として組み込まれてしまうだけなのだろうか。
加えて、多様な宗教の原理主義運動が活発化している現代、それは宗教への回帰現象ともいえる程なのだが、本当に宗教は対立しか生み出さないのであろうか。果たして、未来において宗教の個人化やコスモポリタン化は実現しないのであろうか。
ポストモダン化する環境哲学とは、伝統的な近代科学とそれに基づく近代的世界観から「新物理学」(相対性理論と量子理論)と「新生物学」(進化論と生態学)を基礎とするポストモダン世界観への移りかわることだった。しかし、環境的な危機に対処するのに、新たな社会倫理や世界観がはたして必要なのかどうか、そして人類滅亡というような終末論そのものに対しての懐疑的な見方があることも頭に入れておく必要はあるのだ。』

「いま世界の哲学者が考えていること」  岡本裕一朗 著

読み終えた後のもやもや感は、つまり現代において哲学がその役割を充分に果たしていないのではという思いから来るのだろうか。特に現代の宗教の原理主義回帰に対しては、哲学がその本々の「良く生きるためには何をなすべきなのか」というある意味「人生論としての哲学」をおざなりにしてきたからではないのか。そこに、哲学は立ち返ることこそが必要なような気がする。
科学や技術や資本主義制度が急速に深化し専門化するなかで、文明のスピードに心が追いつけない人間はますます孤立感を深めている。文明の膨大な知識を理解してかつそれらの文明の知識を横断・整理した上で、『どう生きるのか』という人間の基盤となり、心のよりどころにもなる哲学が必要なのかもしれない。それ故、哲学の果たす役割は今後大きく見直される必要があり、いつの日にか、哲学の時代が再度やって来るのかもしれない。しかし、それを可能にするような真の思考者・哲学者は現れるのだろうか。
ますますIT革命やBT革命が進み、また脳科学が進展した時に、それら科学的知識を網羅して体系的に哲学としてまとめ上げれるほどの知識や思考力を持つ哲学者は、果たして現れるのだろうか。
そして、もし仮にAIが、シンギュラリティ後に、神のように、膨大な知識を体系的に横断して「人間はどう生きるのか」という分野に踏み込んで来たとしたら、どんな答えを出すのだろう。

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のん公式サイト より
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『生命・人類・文明の誕生を可能にした、地球という惑星の特殊な条件とは何だったのか。その制約下で発達してきた科学と近代文明は地球環境とどのように関わっているのか。人類と文明を支え続け、消費と変革を許容してきた地球の「限界」はどこにあるのか。

☆地球温暖化について
地球温暖化は文明と地球環境の緊張関係を示す象徴的な現象だ。地球の気温は温室効果に敏感なので、全球凍結のように過去の地球の歴史には気温が温室効果に影響されたと見られる事例が少なくない。最近の事例として、氷期と間氷期が繰り返された現在までの40万年間についてみると、気温と二酸化炭素濃度の推移から、気温と二酸化炭素濃度にはきれいな相関が窺えるのだ。つまり、気温は二酸化炭素がもたらす温室効果を通して変化しているのだ。
だが、実は、極ごく最近の50年間だけを見ると、気温と二酸化炭素濃度の上昇量は、過去40万年間のデータと量的に合わないのも事実なのだ。過去40万年間のデータからすれば、最近50年間の二酸化炭素濃度の増加に見合う気温の上昇量は7℃程度になるはずなのだ。しかし、実際の気温の上昇量は0.7℃程度にすぎないのだ。
そして、この事実をどう解釈するかについては、意見が分かれている。極端な見解は、最近進行した気温の上昇は自然のゆらぎの範囲内であり、人工的に排出された二酸化炭素のせいではないとという見解だ。しかし、多くの気象学者の見解は、温室効果が表れるまでに時間の遅れがあるためであり、温室効果が高まって地球から出ていくエネルギーが減少しても、エネルギーの変化分は海洋や固体地球を含めて地球環境全体を暖める必要があるため、大気の温度変化にすぐには結びつかないのだという見解だ。
そして同じ見解をIPCCも取っている。温室効果で増加した熱の90%以上が海水を暖めるために使われていると見積もっている。実際に海の表面の平均温度は100年間で0.8℃程度上昇している。
しかし、温暖化の原因とされる人工的な二酸化炭素排出の効果を見積もろうとすると、問題はさらに複雑になる。排出された二酸化炭素はすべてが大気に入るわけではなく、一部は海に溶解し一部は植物の光合成などに使われるからだ。そして、温室効果で気温が変わると、それがまた二酸化炭素の海や植物への分配に影響するからだ。
結局、大気の平均気温と二酸化炭素濃度が上昇しているのは確かだが、その因果関係はまだ明確に理解されていない。とはいえ、温暖化の原因が人工的に排出された二酸化炭素である可能性は低くないのだし、その対応を遅らせたら取り返しがつかなくなることを考えると、二酸化炭素の排出量を削減しようとするのは政治的には正しいのだろう。
また、温室効果が遅れて表れるとすれば、現在、二酸化炭素の排出をゼロにしても温暖化がすぐに止まるわけではないということは注意しなければならない。排出を止めた後も、しばらくは温暖化が続き、その期間は数百年以上と見積もられている。

文明の発達は人類の生活圏の空間的な拡大とともに進行してきた。生活圏の拡大がないと、文明はいきづまり、経済は停滞する傾向をもつ。ところが、文明が地球の容量の限界にぶつかると、経済の成長は簡単には達成できなくなる。現代は文明が地球の容量の限界に迫っている時代だから、地球環境と整合するように文明をどう変えていくのかが人類の抱える問題の核心だ。』

岩波現代全書 『人類の未来と地球科学』 井田喜明 著より


地球という惑星の誕生からの気候変動の歴史と人類の進化や文明の興亡を並行して記述することで、いかに人類がこれまで地球環境に影響を受けてきたのかが分かりやすくまとめてあった。
また、地球温暖化や人口問題への取組みの必要性やその論点整理も分かりやすかった。


🚀

のんちゃんねる より
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『過激ジハード主義テロの本質にあるもの。

現代のイスラム系の若者が住む「ヨーロッパ」とは、彼らにとって外部のもの、外在化されたものであり、「自分たちのもの」ではない。そして、欧州各国に住む約1500万人のイスラム系住民にとっても、父祖の地ではないのだ。それどころか、「バンリューザール」の若者が抱くような憎悪の対象とさえなる存在なのだ。
「バンリューザール」....フランス大都市郊外の移民系住人が多ぃ地区で育った若者たち。     

 仏社会を緊張させるライシテ(政教分離主義)とレイシズム(人種差別)。

☆なぜイスラムだけが過激化しているように映るのか?
キリスト教にも過激化の時代はあった。ユダヤ教にも過激主義が常に存在する。しかし、ヨーロッパでは14世紀からキリスト教の世俗化が始まり、宗教と並び、国家が統治主体として登場してきた。一方、イスラムでは欧州列強による植民地支配を受け、初めて世俗化が始まった。そこからジハードという闘争、そしてアラブ民族主義の勃興と挫折。この挫折によって、以後、宗教が人々を束ね、動員する原動力となった。さらに、イスラムは欧州でキリスト教が辿ったような世俗化を果たせなかった。
世俗化とは、宗教を個人の問題としていくことにほかならない。イスラムとは元来、法学であって統治の政治学ではない。にもかかわらず、ジハード主義は宗教を上位に置き、政治を宗教に従属させる新しいテーゼを提起する。そして、それはイスラムの世俗主義を拒絶し、同時に抑圧的になることを意味している。

☆ジハード主義の理論
民主主義は過激派イスラムの標的となっている。過激派イスラムから見れば、それは有害でしかない世俗主義であり、その究極のねらいをイスラムの破壊にあるとみなす。イスラム社会における専制政権もまた、邪教崇拝の一形態であって、アッラーが政治的正統性の究極の保有者であることを拒否する点で民主主義と同類とみなされる。ジハード主義から見れば、民主主義には世俗主義に加え、人民を正統性の究極の根源とする点で反宗教的という烙印が押される。こうした型の異端の権力は、イスラムとは相容れず、それに対しては聖なる戦いを容赦なく進めなければならない、と考えているのである。
よりグローバルに見ると、ジハード主義は10年以上も前から、新しい形態の過激主義の中で支配的となっている。そうした過激主義は現代社会における深刻な不安を映す指標である。もちろん、それはあくまで個人の責任だとか、宗教的、思想的過激主義の責任だと言うこともできる。けれども、現代社会の不安とは、デュルケームが社会的つながりの切断という観点に立ち、本質的に平等主義の大衆文化の中で起きる経済的疎外と結び付けて説明したものであり、われわれの社会が極めて不完全にしか制御できない新しい害悪を生み出している結果なのである。

世界化は至る所で抑圧感と欲求不満を深めさせながら進展してきた。冷戦時代には、そうした思いがイデオロギーの枠内に押し込められていたのだが、もはや、そうはいかない。

市民であることを、その社会へ経済的、社会的に統合されることと同義だと定義するならば、過激化とは、真の市民権を欠いた世界で生きる一部の人間たちが不満をぶつけ、演じる場の一つと言うことができよう。そして過激化の最も明白な表現、それがテロということになる。』


「世界はなぜ過激化するのか?」  ファラッド・コスロカヴァール  著 より

欧州における移民の貧困化、人種差別、若者の失業率の高さ等がもたらす現代社会の不安定化。そう言った抑圧感や欲求不満のはけぐちとして、ジハード主義が蔓延している可能性についての考察や、また、ジハード主義において、民主主義や世俗主義に対して激しい憎悪を持つようになったその歴史的過程などが、とても興味深かった。

ふと、近い未来、果たしてAIと宗教は、う向き合うのだろうか。などと、考えてしまった。


過激化の対極にある写真。


対談.PNG朝日新聞デジタルより



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