実は、エマニュエル・トッドの著書を読むのはこれが初めてだった。
どうも、家族構造から世界を読み解くということに、あまり興味を惹かれなかったからだ。
しかし、一読した後は、エマニュエル・トッドが指摘するような、権威主義的な直系家族、もしくは絶対核家族または平等主義核家族といった家族構造の差異が社会の在り方に影響を与える事、更に外婚制共同体家族と共産主義との親和性についても、一応なるほどと理解できる点はあると思った。確かに家族システムというものは社会における根源的なシステムではある。
しかし、そういった家族システムという視点は、あくまでも社会構造を理解するための多面的な視点のひとつとしては有効であると思うが、その視点をあまりに分析の中心に据えるのには、やはり違和感が若干残った。やはり社会構造に関しては多層的・複眼的視点から見るべきであるように思うのだが。
尚、トッドがあまりに英国とロシアに対して寛容で、EUについて、なかでも自国フランスとドイツとの関係性について、更に特にドイツそのものに対して辛辣で批判的であるのには驚いた。
ドイツの移民政策についても、ドイツの移民受け入れを批判するのであれば、そこからもう一歩踏み込んで、世界的視点からの移民問題の解決の糸口の提示まですべきなのではと思ってしまった。
しかし、中国の歪な人口構成が生み出すリスクの分析や、個人主義と国家との関わり合いなどに関するトッドの分析は、やはり鋭い指摘だと思う。

本文の引用から、
『☆歴史を動かすのは中産階級 
中産階級とは、所得や教育水準がある程度高く、階層として一定の規模をもった集団です。この階層が歴史の変動を左右しているのであって、この階層を考察しなければ歴史の現実は見えてきません。中産階級に比べれば、上層の貴族層も、下層の庶民層も、現実社会への影響という点でさほど重要ではありません。現在のフランス社会が閉塞状況にあるのも、中産階級に原因があるのです。
「1%の支配」という超富裕層とそれ以外との格差の問題は、確かに存在します。まったく不公平な格差です。しかしこのことを指摘したからといって、「西洋先進社会は閉塞状況に陥っているのに、なぜみずから方向を変えられないのか?」という問題の説明にはならないのです。
この問題を解くには中産階級の分析が不可欠です。つまり、1%の超富裕層の存在を許し、庶民層の生活水準の低化を放置しているのは、中産階級だからです。
「中産階級こそが歴史の鍵を握っている」ということは、歴史を眺めて確認できます。
ナチズムは中産階級の現象でした。フランス革命も同様です。日本の明治維新も中産階級に主導されたものだったはずです。上級武士ではなく、下級武士という中間層が中心的役割を担ったわけですから。
―中略― つまり1914年の狂気とは、ヨーロッパの中産階級の狂気だったのです。当時のヒステリックなナショナリズムも中産階級の所産でした。』

『☆核家族と国家
「家族システムの起源」という本で明らかにしたのは、西欧などユーラシア大陸の周縁部に存在する「核家族」システムが、家族構造としては実は最も原始的である一方で、この「原始的な家族構造」(核家族)が、むしろ近代的な変化や社会の進歩を促した、というパラドックスです。
ここで重要なのは、この「核家族」も、それぞれバラバラに存在するのではなく、ある大きな社会構造のなかに存在しているという点です。
家族構造と国家の関係は、まさに私の現在の研究中のテーマなので慎重に述べる必要がありますが、たとえば、直系家族の社会は、核家族の社会ほどには、国家を必要としません。なぜなら、直系家族自体が、いわば国家の機能を内部に含んでいるからです。家族としての団結そのものが「ミニ国家」的です。その分だけ、通常の意味での国家の必要性は弱まります。
これは今日にも通用する話です。核家族は個人を解放するシステム、個人が個人として生きていくことを促すシステムですが、そうした個人の自立は、何らかの社会的な、あるいは公的な援助制度なしにはあり得ません。より大きな社会構造があって初めて個人の自立は可能になります。「個人」とより大きな「社会構造」には、相互補完関係があるのです。』

『☆「個人主義」は「国家」を必要とする
しばしば「個人」と「国家」は対立させられますが、国家が大きな役割を果たすことと、核家族システムのなかで個人が個人として活きることは、矛盾するどころか、実は相互補完的なのです。この点を、ネオリベラリズムの信奉者はまったく理解していません。
ネオリベラル革命がもたらした逆説的結果の一つは、核家族の進展、つまり個人の自立を妨げたことです。
―中略― ネオリベラル革命の皮肉な結果として、成人になっても経済的に親元を離れられない子供が急増しました。つまり、ネオリベラル革命は、個人が家族に頼らざるを得ない状況をつくりだすことで、結局は「個人の自立」を妨げています。

このように、核家族と国家との間には共振関係があります。たとえば、教育の分野に国家が大きく介入することなしに、核家族社会は成立しません。
それに対して、直系家族の場合は構造が核家族よりも複雑で、家族内の連帯がより大きな役割を果たし、そのぶん核家族ほど国家を必要としません。直系家族の社会文化では、多くのことが国家ではなく家族に依存します。』

『☆経済的危機と宗教的危機の重なり
もちろん私は、さまざまな地域や国の危機が、もっぱら宗教的な危機だと言うつもりは全くありません。経済は大きな重要性を持っています。
―中略― しかし、ここでは、社会の安定性を突き崩すものは経済問題だけではないということを強調しておきたいと思います。
例えば、世界史の中でも一番悲劇的なドイツの1930年代、ナチス台頭直前のドイツは大変な経済危機で失業率も非常に高い状態でした。そのことは歴史の本にはたくさん書かれています。しかしそのナチス台頭の少し前に、ルター主義的なプロティスタントの沈没という事態があったことを明確に書いている教科書はあまり見ません。世界の危機に関して、こういう側面を見なければいけないと思っています。
つまり、経済的な危機と、宗教的な空白の重なるときが、非常に危ないのです。』

『☆世界の多様性はなぜ保たれるのか
現在、アメリカのような移民の国はたくさんあります。それにも関わらず、どうしてある一つの家族形態に基づく価値観が、ある地域にはずっと支配的であり続けるのか。
それを説明するためには、どうしても一つの仮説が必要です。
実は社会の経済や政治の在り方までも決定するような影響力をもつ集団の価値観というものは弱い、希薄な価値観なのです。しかし、その価値観の存在が非常に大きなパワーを生んでいる。希薄な価値観はなぜ希薄かというと、その地域で育った人が別の地域へ行って長く暮らしたり、あるいは次の世代になれば、新しく移った別の地域や国の価値観を採用するようになるからです。そのように希薄な、空気のような価値観が、職場や自分の付き合う仲間の間にある。それが実は非常に強い、一つの場所(テリトリー)を形成しているのです。個人はそれを長年の間に自分のものにしていきます。しかし、その人が他の場所(テリトリー)へ行けばまた変わるわけで、一つの社会文化から脱却する自由もあるのです。
―中略― この理論によれば、社会文化は集団を特徴づけることはできますが、個人をその社会文化で決定することはあり得ないからです。個人が移住すれば、自分が生まれ育った界隈や階層の価値観から脱却して、別の価値観に馴染んでいくことがあるわけです。

そういう意味で私の仮説は、人類は本質的に異なる民族や文化があるのではなく、多様性は事実として存在するが、それでも人類は普遍だという考え方に馴染みやすいのです。』


「問題は英国ではない、EUなのだ  21世紀の新・国家論」  著 エマニュエル・トッド


🍉🎶


pREOft6yUU.jpg
LINE BLOGより

今、世界では、グローバル時代の民主主義の現状について、それを懸念する多くの声が挙がっている。
また同様に、資本主義の現在・未来についても様々な危惧が表明されている。
本書は、そういった民主主義と資本主義への現状分析、そしてその未来への提言に関しての、4名の国際的な論者、エマニュエル・トッド、ピエール・ロザンヴァロン、ヴォルフガング・シュトレーク、ジェームス・ホリフィールドの講演記録とインタビューを纏めたものだ。

私は、そのなかで特に、ピエール・ロザンヴァロンが語る「ポピュリズムと21世紀の民主主義」の講演やインタビューにおける、「代表制」や「多数派」や「ポピュリズム」についての分析にとても興味を持った。

ポピュリズムというと、一般的には大衆迎合と理解されることが多いが、ロザンヴァロンによると、ポピュリズムとは、それが社会を統治するエリート層への不満・反発から生じているだけではなく、既存の政党が社会の声を代表できなくなっている民主主義の現状そのものがポピュリズムの根底にあるという。
そして、ポピュリズムというものが、市民が今の民主主義の代表制では我々の声は聴いてもらえないという、今の民主主義の代表制そのものに対して抱く不満や怒りや不信が根底にあるとすれば、それは代表民主主義自体が機能不全に陥っていることの一つの明確な現われであるというのだ。
また、政治的に未成熟であり民主主義そのものの歴史が浅い新興国だけでなく、民主主義が進展してきた歴史を持つ西側世界にまでにもポピュリズムが蔓延しているということは、問われているのは民主主義の本質そのものなのだと言っている。

私は、更に、今の日本においても、そういったロザンヴァロンが指摘するような民主主義の機能不全が現実問題として起きていることに震撼する。


*「ポピュリズムと21世紀の民主主義」より
『☆ちゃんと代表されない時代

代表制は、政党が社会を代表する役割を担っているときはうまくいっていた。ところが、20年ほど前から政党が社会を代表しなくなった。つまり、政党が変わってしまったのだ。
そして、その理由は二つある。まず一つは社会がより複雑になって政党が社会を代表できなくなったことだ。たとえば、社会の個人化によって、社会はより複雑になっしまった。社会が階層や社会集団によってのみで構成されているときは、代表制はより簡単だった。
しかし、それだけではない。もう一つは、政党は代表するのではなく、統治する機関になったからでもある。
そして、更に、議会もその本質を変えてしまった。歴史的には、議会とは、熟議の場所、社会の声を聴かせる場所のはずだったのだが、ところは今日、そこは政府への支持か反対かだけが演じられる場所になってしまったのだ。そこは、もはや大問題について議論する場所ではなくなった。
まるで、政党と社会の関係が逆転したかのようだ。政党は今、政府に対して社会を代表するより、社会に対して政府を代表している。つまり、与党は、社会に向かってどうして支持しなければならないかを説明し、野党はどうして批判しなければならないかを説明しているだけだ。

だから社会には、既存の政党では、われわれは代表されていないという感覚が生まれているのだ。』

*ピエール・ロザンヴァロンのインタビューより
『市民にとって、民主主義の欠陥とは声を聴いてもらえないことです。つまり何の相談もなく物事が決定されるということです。大臣たちは責任を果たさず、指導者たちはウソをついても罰せられない。癒着がものごとを動かす、政界は内輪の論理でふるまい、説明しない、そして行政は不透明なままなのです。
そして、問題は、この政治的な次元をありのまま考えてみることがなかったという点にあります。民主主義はつねに体制として把握されて、ほとんど統治の機能として見なされることがありませんでした。体制と政府という言葉がしばしば歴史的に混乱して使われてきたことからして、それを物語っています。
民主主義体制が歴史的に最初の形のときはこんな問題は二次的でした。議会制代表性の最初のモデルのころは、立法権力がほかのすべてを支配していました。けれども今、要となっているのは行政権力なのです。

行政権力が支配的となった時代、民主主義のカギは、社会が行政権力をコントロールしうる条件がどのようなものか、ということにかかっています。
だからどうしても必要なのは、選挙のような認可の時の民主主義を、執行の時の民主主義にまで広げていくことなのです。
その目的は、「統治する者たち」に期待される資質を決め、「統治される者たち」との関係を組織するルールを作ることにあります。そして、こうした民主主義の確立によって、本質的なことは動き出すでしょう。』

*「ポピュリズムと21世紀の民主主義」より
『☆多数派

投票による政治権力の正当化はつねに暗黙のうちに、社会全体の一般意思という理念を映していると考えられてきました。大多数とは社会全体の肖像だと思われてきました。したがって選挙での大多数獲得は社会全体と同じ価値を持ち、「統治する者」のふるまいを正当化するのに十分であるかのように見なされてきました。
多数派は、数字上では、したがって法的にも完全に定義できるでしょう。でも社会学的にはとても多数派とは言えなくなってきたのです。実際、大多数の人の利益といっても、かつてのように選挙での多数派の利益と同一視することができなくなりました。
それに、人々といってももう同質性の高い大衆として見ることができなくなりました。一人ひとりが特異な人生、社会環境にいて、社会はそんな人々の総和のようなものになっています。つまり、現代社会は、次第にさまざまな少数者の総和という概念で理解されるものになっているのです。

少数派とはもはや社会の中の小さな部分ではなく、社会全体からさまざまに折れ曲がって出てくる夥しい数の声の一つになっているのです。今や社会とは、たくさんの少数派の被っている境遇の集まりになっている。「人民」とは、たくさんの少数者のことになっているのです。』

『☆ポピュリズム運動とは

ポピュリズムを真面目にとらえてみると、それは代表や人民主権の行使、一般意思の支配ということについての独特な理解に呼応して登場した運動であることが分かります。
ポピュリズムによれば、良い代表とは、権化・化身なのです。つまり指導とは人民の権化・化身。この考え方が理論化されたのは20世紀半ばのラテン・アメリカで、でした。そして、21世紀に入り、近年ではベネズエラのチャベスが、大統領選挙でそれを実践しました。
このような代表=権化とは、論理的に言えば「喝采としての選挙」という考え方での主権の概念と連動します。人民は直接に権利を行使すると見なされるのです。その分身を通してですが。
それと並んでこの展望の中では、国民投票は優れて民主的な表現方法だと考えられています。これは人民主権を形にするのに議論の余地のないものとして神聖視される。
ー中略ー
その結果、ここが決定的なところなのですが、ポピュリズム運動は、一般意思を表すほかの形を拒絶します。たとえば、憲法裁判所などのその他の独立機関による形を拒絶するのです。
*ポピュリズムは、いずれ権威主義へ  』

『☆「カウンター・デモクラシー」とは何か

「カウンター・デモクラシー」は、人々が声を表明できる新しい方法です。つまり、それによって政府を牽制したり監視したりといった機能を担う方法です。たとえば、政策への抗議デモとか、権力を批判監視するNGOなどもそれに当たります。そしてメディア。これは、取材によって政府を牽制することに寄与し、政治的な言動を読み解く役割を担うのです。
また、代表制は多数決の民主主義ですが、選挙で棄権が増えている今は、とりわけ多数決以外にも社会を代表する方法が必要です。更に、公平の原理や社会を代表するための、第三者的な、司法や第三者委員会や独立委員会といった組織の役割も大切なのです。』

『☆代表制とカウンター・デモクラシーの相互補完

選挙での投票は、期待通りに行動してくれそうな人への「信頼」を表明することです。それに対して、カウンター・デモクラシーは、「不信」感を通して、制度に一種の試験をすることです。

つまり、民主主義は、この2本の足で立つのです。一つは「信頼」、もう一つは「不信」です。前者を代表制が、後者をカウンター・デモクラシーが引き受けるということなのです。』


「世界の未来 ギャンブル化する民主主義、帝国化する資本主義」  エマニュエル・トッド、ピエール・ロザンヴァロン、ヴォルフガング・シュトレーク、ジェームス・ホリフィールド

🌈🍦


IMG_20180727_153444.jpg
you tubeより

本書は、哲学書としては異例ともいえるベストセラーを続けている、時代の最先端の哲学者マルクス・ガブリエルの著書だ。
しかし、哲学書がベストセラーになるというのは、現代人が心のどこかに急速な自然科学の発展に精神世界が追い付けていないことへの疎外感を抱え、また私たちが、近代的ニヒリズムの無意味論やニューロン構築主義に対する救いを哲学に求めていることの現われなのかもしれない。
私自身は、そんなに学問としての哲学に関心を持っているわけではない。
しかし、
自然科学的に理解すると、モノを見るということが、光子つまり電磁波が私たちの眼に衝突し、その電磁波が電気的刺激に変換され、脳の大脳皮質の視覚野でそれを像として知覚するという活動だとしたら、私たちがモノを見るということは、哲学者が「心的表象」と呼ぶような、こういった電気信号が繰り広げる「世界」という映画のようなものを見ていることなのだろうか?
更に、こういった見えているモノが、いったい脳の幻想ではなく現実に存在すると考えられるわけは?
外界が色彩のない素粒子といっそう高次の巨視的水準での素粒子の集合体とでできているとしたら、私たち自身も世界というひとつの巨大な容れ物のなかにある単なる素粒子の集積にすぎないのだろうか?

と、いったような素朴な疑問を持つ現代人は私を含めて多いのではないだろうか。
また、私に限って言えば、ニューロン構築主義のような思考にひきづられがちな部分があることも自覚している。
だから、できればこういった疑問や行き止まり感に対して、何がしかの答えの糸口を探している。

本書で、著者は、世界は存在しないという挑発的な表現を使っているが、それは著者の「世界」というワードそのものの哲学的定義から出発するものだ。そして、そういった論理を進める前提となる定義については、著者は丁寧に押さえながら論理を進めている。
一読したところ、自然科学や宗教における世界像に関しては、少し強引かなと思える箇所はあったが、おおむね、世界は存在しないという論理展開について理解できる所も多かった。特に宗教というモノの本質を考える際に、なるほどと思わせるものがあった。
しかし、一方、芸術における意味やエンドロール等の章では、一言で言えばどうも切れ味が鈍いような。
更に、本書では自然科学の世界像のなかで、人間の知性を超える可能性を秘めたAIのようなものには全く触れられていない。
もし今後、AIの知性が爆発的に進化した時にも、自然科学と人間と哲学の関係に変化はないのだろうか?

本文からの引用
『☆世界は存在しない
本書では、新しい哲学の原則を示してみせたいと思っています。この哲学の出発点となる基本思想は、ごく単純なものです。
すなわち、世界は存在しない、ということです。これは、およそ何も存在していないということではありません。
世界は存在しないという原則には、それ以外のすべてのものは存在しているということが含意されているわけです。したがって、いったん前もって、こうお約束することができます。わたしの主張によれば、あらゆるものが存在することになる――ただし世界は別である、と。
また、本書の第二の基本思想は、新しい実在論です。ここで言う「新しい実在論」は、いわゆる「ポストモダン」以後の時代を特徴づける哲学的立場を表わしています。
この新しい実在論が想定するのは、わたしたちの思考対象となるさまざまな事実が現実に存在しているのはもちろん、それと同じ権利で、それらの事実についてのわたしたちの思考も現実に存在している、いうことなのです。
これに対して形而上学は現実を観察者のいない世界として一面的に解し、また構築主義は現実を観察者にとってだけの世界として同じく一面的に解することで、いずれも十分な根拠なしに現実を単純化しています。
しかし、この世界は、観察者のいない世界でしかありえないわけではないし、観察者にとってだけの世界でしかありえないわけでもない。これが新しい実在論です。』
*構築主義:「およそ事実それ自体など存在しない。むしろわたしたちが、わたしたち自身の重層的な言説ないし科学的な方法を通じて、いっさいの事実を構築しているのだ」と主張するあらゆる理論の基底にある考え方。

『☆そもそも、この世界とは?
この世界全体とは何なのかを突き止めようと思うなら、さしあたってわたしたち自身が知っていると思っている一切のことをいったん忘れ、一から問い直さねばなりません。慣れ親しんだ確信をいったん手放して、地球外生命体や子供のように、そもそもわたしたちはどこに存在しているのかと問うてみましょう。
この世界全体はそもそも何だと考えられるべきなのかと問うより前に、この世界全体はそもそも何であるのかという問いに答えるほうが、ずっと意味があるように思われるからです。
まず世界とは、わたしたちとは無関係に、単にそのものとして存在しているすべてのもの、わたしたちを取り囲んでいるすべてのものの領域であると、そう考えてよいでしょう。
他方で、今日では、何らかの特殊な意味を込めて「宇宙」という言葉が用いられます。この言葉が指しているのは、ひとつの無限な拡がりに他なりません。
わたしの主張したいことは、宇宙は事実として存在はするがすべてではないということです。厳密に言えば、宇宙はごく特殊な限定領域にすぎません。
宇宙という言葉によって思い浮かべるものは、実験によって開拓できる自然科学の対象領域に他なりません。
ところが世界は、そのような宇宙よりも明らかに広大です。世界には、国家も、夢も、実現しなかったさまざまな可能性も、芸術作品も、それにとりわけ世界についてのわたしたちの思考も含まれているからです。つまり世界には、触って確かめることのできない対象がかなり数多くあるわけです。ここでわたしが披露している世界についての思考を読み、追考しているからといって、その間、あなたが世界から消え去って、いわば外から世界全体を観ていることにはなりません。世界についてのわたしたちの思考は、世界のなかに存在し続けています。
したがって世界を有意味に定義しようとすれば、すべてを包摂する領域、すべての領域の領域とするほかありません。世界とは、何といってもすべてを―この人生、この宇宙、そのほかすべてを―包摂する領域なのです。
*世界:すべての意味の場の意味の場。それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象している意味の場。
*宇宙:実験によって開拓できる自然科学の対象領域。
*現象:「現われ」、「出来事」、「存在」を表す一般的な名称。現象は、数のような抽象的なものでありうるし、時間的・空間的な制約のもとに存在する物のような具体的・物質的なものでもありうる。
*意味の場:何らかのもの、つまりもろもろの特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域。
*対象:真偽に関わりうる思考によって考えることのできるもの。そのさい、すべての対象が時間的・空間的な拡がりをもった物であるわけではない。夢のイメージや数も、形式的な意味において対象である。
*対象領域:特定の種類の諸対象を包摂する領域。そのさいには、それらの対象を関係づける規則が定まっていなければならない。

つまり、
1、宇宙は物理学の対象領域である。
2、対象領域は数多く存在している。
3、宇宙は、数多くある対象領域のひとつにすぎず(大きさの点で最も印象的な対象領域であるとしても)、したがって存在論的な限定領域にほかならない。
4、多くの対象領域は、話の領域である。さらにいくつかの対象領域は、話の領域でしかない。
5、世界は、対象ないし物の総体でもなければ、事実の総体でもない。世界とは、すべての領域の領域にほかならない。』

『☆存在するとはどのようなことか

*存在すること=何らかの意味の場に現象すること。
そして、世界とは、すべての意味の場の意味の場。それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象している意味の場であり、もってすべてを包摂する領域である。
すると、存在するいっさいのものは、世界のなかに存在していることになります。世界こそ、いっさいの物事が起きる領域にほかならないからです。世界のそとには何も存在しません。世界のそとにあると考えられるものも、そう考えられるものとして世界のなかに存在しています。
かくして、存在するということには、つねに何らかの場所の規定が含まれていることになります。存在するとは、何かが何らかの意味の場に現象することだからです。
だとすると、こう問わなければなりません―世界が存在しているとすれば、その世界はどのような意味の場に現象するのだろうか、と。
世界は、世界のなかに現れては来ないことを簡単に確かめることができます。
視野を例にして考えてみると、視野という領域のなかでは、けっして当の視野それ自体は見えません。そこで見えるのは、眼に見える対象だけです。せいぜいできそうなことは、視野を絵に描いて表現しようとすることくらいでしょう。ここで、たとえば眼前に拡がる視野を寸分違わず絵に描く才能が、わたしにあるとしましょう。このときわたしは、わたし自身の視野を描いた絵を、じっくり見ることができるでしょう。けれどもこの絵は、もちろんわたしの視野そのものではなく、わたしの視野のなかにある何かにすぎません。これと同じことが、世界にも当てはまります。わたしたちが世界を捉えたと思ったとしても、そのときわたしたちが眼前に見ているのは、世界のコピーないしイメージにしかすぎません。わたしたちには、世界それ自体を捉えることはできません。世界それ自体が属する意味の場など存在しないからです。

世界は存在しません。もし世界が存在するならば、その世界は何らかの意味の場に現象しなければなりませんが、そんなことは不可能だからです。

そして、わたしたちが世界についての像を描けないのは、外から世界を眺めることができないからだということに関連しています。トマス・ネーゲルの卓抜な言い方を借りてすでに述べたように、わたしたちは「どこでもないところからの眺め」を獲得することはできません。現実を眺めるということは、つねに何らかの地点から行うほかないからです。わたしたちは常にどこかに居るのであって、どこでもないところから現実を眺めることは決してできません。』

『☆自然科学の世界像
科学的世界像がうまくいかないのは、科学それ自体のせいではありません。科学を神格化するような非科学的な考え方がよくないのです。どのような科学も、世界それ自体を明らかにするわけではありません。
精神を無視して宇宙だけを考察すれば、いっさいの人間的な意味が消失してしまうのは自明なことです。しかし悪いのは宇宙ではなく、わたしたち自身です。つまり近代的ニヒリズムを支えているのは、わたしたち自身が犯す非科学的な間違いに他なりません。すなわち、物それ自体を宇宙のなかに現れてくる物と取り違え、それ以外のすべてを生化学的に惹き起こされた幻覚と見なすという間違いです。このような幻想を黙って受け入れてはいけません。』

『☆宗教の意味
宗教の源となるのは、いかにしてこの世界に意味が存在しうるのか―それも、わたしたちが好き勝手に捏造することなく理解できる意味が存在しうるのか―を理解したい、という欲求です。こう考えてみれば、宗教とは意味の探究の一形態であると言って間違いありません。
宗教の源となるのは、最大限の距たりから自身へと回帰したいという欲求です。人間は自身を放擲して、自分など無限なもののなかの些細な一点にすぎないと考えることさえできます。このような距たりから自身へと回帰するとき、わたしたちにはおのずからこんな問いが浮かんできます。
わたしたちの人生にはそもそも意味があるのだろうか。それとも、意味があるようにと願うわたしたちの希望は、無限のものという大海のなかの水滴のように空しく消えゆくものなのか、と。
かくして宗教と源となるのは、この迂回の運動―わたしたち自身から全体へと向かい、そこからわたしたち自身へと回帰する運動―が無意味ではないという印象、この運動が全体にとって何らかの意味をもっているはずだという印象なのです。
―中略―
わたしたちには、すべてを知ることはできません。何といっても、すべてを取りまとめて組織化している原理が存在しないから、つまり世界が存在しないからです。
したがって、そのような原理としての「神」を考えるのであれば、そのような意味での神も存在しません。わたしたちは、けっして自らが何ものなのかを知っておらず、むしろいつでもそれを探究している状態にあります。この自己探究を単純な答えで打ち切ってしまおうとすれば、何らかの形態の迷信と自己欺瞞になるほかありません。
宗教は、世界を説明するのとは正反対のものです。世界は存在しないというテーゼに近いところに宗教が立っているのも偶然ではありません。
この世の生は夢であるというヒンドゥー教の教えから、「わたしの国はこの世には属していない」というイエスの有名な言葉、それに仏教に言われるこの世からの解脱に至るまで、そのような例には事欠きません。
ごく挑発的に、こんなふうに言うことさえできるかもしれません。
神は存在しないという洞察、つまり神はわたしたちの人生の意味を保証してくれる対象ないし超対象ではないという洞察にこそ、宗教の意味はあるのだ、と。
宇宙ないし人生を統べる偉大な主が存在すると考えるならば、それは自らを欺いていることになります。そのような世界全体など存在せず、したがってそれを統べるはずの者も存在しないからです。
しかし、宗教ないし神についての話が無意味だということにはなりません。むしろ逆に宗教の意味は、わたしたち人間の有限性を認めるところに見て取ることができます。宗教は、まず最大限の距たりの立場をとってから人間へと回帰してきます。人間は、神に取り組むことによって精神の歴史という冒険に乗り出したのでした。』
「なぜ世界は存在しないのか」   著 マルクス・ガブリエル

🍺🍺



新潟.PNG
Komachiより

↑このページのトップへ