日本の株式市場で株に携わった経験のある人ならだれでも、日本の株式市場が外国人投資家次第であることを知っている。
しかし、その外国人投資家といっても、政府系のソブリン・ウェルス・ファンド(SWF)のような巨大な資産を運用するアセット・オーナーからヘッジファンドまで様々だし、その真の姿はごく曖昧なイメージだ。
また、現場で直接投資運用するマネーの代理人たちの生身の姿は映画やドラマでしかなかなかお目にかからない。
私は、そういった現場でのマネーの代理人たちの生々しい姿に興味があった。
筆者は、まず、日本のマスコミで働き、その後、外資系金融機関に転職し、日本株の投資運用や調査に携わった経歴を持つ。
主に外資系金融機関ではニューヨークとボストンの職場で働き、キャリア的には「リサーチ・アナリスト」という「セル・サイド」側のスタートラインからキャリアを始め、実際に日本株を動かしている生身の現場運用担当者に混じって仕事をしていた人だ。だから、本書で、ウオール街等での現場の生々しい状況を知ることができると思ったのだ。
そして、本書では、その点に関して期待した通りに、筆者は活き活きと、かつ、分かりやすくその現場を描写してくれていた。とにかく、読みやすい本であった。
次に、ウオール街で日本株というものが一体どう扱われているのかという点についても興味があったのだが、本書のなかでは、多分、私がこうなのではと予測していた通りの日本株の扱いだった。が、しかし、不思議とそれらもなるほど当然だろうという感想しか湧いてこなかった。
それは、投資運用において資本効率の指標だけが絶対的な指標ではないが、資本効率からかけ離れたような日本の企業の閉鎖性や保守性は、海外から見ると不思議で理解しずらいのは当然だろうと思っているからだ。
また、『日本株は、下落相場では特に敏感に世界市場と下方に連動してしまう「ハイ・ベータ」資産であり、過去のトレンドからは、日本株は金利敏感で、世界の景気が良くなって金利がマイルドに上昇する局面では、米国に代表されるグローバル市場にアウトパフォームしやすい。』という筆者の指摘にも納得するところだ。
筆者は、本書の最後で、どうしても短期的な利益の追求に走りがちな、投資家を動かす「恐怖(fear)」と「欲(greed)」というインセンティブに変わる新しいインセンティブのひとつとして、ESG投資を強調している。

このESG投資とは、Environment(環境)、Social(社会)、Governance(企業統治)の三つの言葉の頭文字をとったもので、これらの要素に着目して企業に投資するのがESG投資である。
その真意は、これからは投資の世界においても、資本効率一辺倒の発想からサスティナビリティ(持続性)という指標にもウエイトを置くべきだという思考なのだ。
また、市場では年々HFTというAIによる超高速取引が主流になりつつある。いずれ、取引だけではなく投資運用の全般をAIが担う時代がやって来るのかも知れない。
やがて、投資という現場は更に大きく変容するだろう。
そうなると現実には更に大きな変革が必要になるかも知れない。
投資市場の小手先の変革ではなく、格差社会や資本主義の修正といった社会制度にまで踏み込むくらいの変革が起こるとすれば。


「マネーの代理人たち」 著 小出・フイッシヤー・美奈

IMG_20190204_151830.jpg
Medical DOCより

世界はこれからますますカオス化するだろうと、著者であるジャック・アタリは予測している。また、地球規模で大惨事を引き起こすシステミック・リスクのような危機が、世界中でますます頻発するだろうことも危惧している。

そして、そのようなシステミック・リスクの頻発やカオス化する世界に対向する手段は、新たな世界秩序の構築だと断言している。その上、そういった新しい世界秩序の構築には、「世界統治機関」のような超国家的な機関構想の実現化が何よりも必要であるとも考えている。
そこで、この著書のなかで、その構想のたたき台となるべき「世界統治機関」の具体的で詳細なプランを開示しているのだ。

本文より、
『歴史的・地政学的な制約をいっさい考慮に入れないとすれば、先行するすべての議論を踏まえて、最良の新世界秩序はどうあるべきか、構想することができる。
それは必然的に連邦制で、分権的で、透明性が高く、民主主義的なものであろう。
引き受けるテーマは地球規模のものに絞り、長期的な課題に専念する。そして、先に見たような二種類のリスクに対応できるだけの能力を備えていなければいけない。二種類とは、統制の行き届かない地球上の一地点に端を発した暴力が地球全体に波及するリスクと、直接地球全体に影響を及ぼすリスクである。

第一のリスクに対しては、各国に干渉する手段が求められるし、第二のリスクに対しては、地球規模の行動を起こす手段が求められる。
またそれは、世界の潜在力のすべてを活用する能力もなければいけない。そうした対応能力を備えた世界統治機関であれば、アメリカ憲法の定める三権分立も、経済と社会に関する北欧諸国の取り組みも、中国の長期的な方針も、すべてを取り込んで理想的な組み合わせに調整することもできるだろう。

☆新世界秩序への戦略
深刻な危機がなければ、超国家的な世界統治機関はけっして設立されないだろう。アメリカも、中国も、インドも、ブラジルも、日本も、ヨーロッパも、また現在、世界を牽引している帝国と肩を並べたいと望む可能性のある他のどの国も、その実現を支援することなどないであろう。
これまで見てきたように、いつの時代の強国も、既存の秩序を何か少しでも変えようとすることを、けっして良しとしてはこなかった。

たとえ仮に今日ではそれを望む強国があったとしても、そのために必要な力をだんだんと失いつつあるのが現状だ。
新興国は新興国で、求めることは既存の世界経済、既存の国際機関に自分たちがしかるべき位置を占めることばかりである。場合によってはあり得る超国家的政府など、新興国にとっては、衰退しつつある既存の強国がその優位性の維持を迷彩するための手段にしか見えず、信用などできないのである。

しかしながら、世界が自分の未来を自分の手の内に正しく握ることができるように導くための戦略を構想することは可能である。

☆「世界統治機関」への3つの戦略と10の方策

1つ目は、実践的な道。たとえばモントリオール議定書やモンテゴ・ベイ条約は、この戦略の成功例である。その交渉過程が証明しているのは、グローバル共有財を保護するための、グローバルな、そして相対的に効果的な仕組みを設立することは可能であるということである。
しかし、断乎として、ヨーロッパ統合構築と同じ道を、グローバルな規模で進まなければならない場合もある。これが2つ目の戦略である。
まずは市場統合から始めること。次に規範の統合。その次に通貨統合と税制の一本化に向けて進む。その後で、政治的・制度的統合に関心を持つ。実際、EUが世界機構のモデルであると、しばしば考えられてきた。

3つ目の戦略として、既存の多国間機関を徐々に変化させるのがふさわしい場合もあろう。そうした機関のアイデンティティはそのままに、民主主義と超国家性という次元を付加するのである。
別の言い方をするなら、そうした機関をパズルの一齣のように少しずつはめ合わせていくことによって、理想のモデルに向けて進化させるのである。
以上の3つの戦略のいずれにもせよ、理想のモデルへの進化を始動させるのはいかなる要因であるのか想像するのは難しい。また、人類全員の意志が等しく一つの方向へ向かうことなど当てにできない。主な当事者だけでも足並みがそろわないのだ。

しかし、世界全体を巻き添えにするような大惨事を、飢饉を、インフレを、金融危機を、座して待つわけにはいかないのである。そういったシステミック・リスクがはっきりと姿を現すのを待つ代わりに、しっかりと前に進んでいくためには、今日からもう、以下の10の現場に手を着けなければならないのである。

⑴既存の連邦の統合過程を実用主義的に利用すること
⑵人類の存在理由の自覚
⑶脅威をもっと警戒すること
⑷既存の国際法を遵守させる―グローバル基準―
⑸計画を一つずつ先に進めること―ミニラテラリズム
⑹世界統治評議会
⑺持続的開発のための長期企画院
⑻民主化同盟
⑼世界統治機関のための資金を掘り起こす
⑽世界全体会議   』


超国家的な「世界統治機関」の構築というと、その実現化があまりにも困難のように思えて、まるで遠い夢物語のように思えるかもしれない。もしかして、ジャック・アタリが懸念するように、一刻の猶予もないほどシステミック・リスクが膨張し、そして最悪の結果としてそれが破裂した後になって、やっと過去の歴史にならって新「世界統治機関」のようなものが実現することになるのかもしれない。
しかしできれば、今直ぐにでも、人類がシステミック・リスクの解決策として、それを回避するための手段のなかに「世界統治機関」という選択肢を入れ、そのプランの実現性に関しての十分な時間をかけた考察を始めるべきだろう。


「新世界秩序」 著 ジャック・アタリ


2019正月.PNG
のんInstagramより

本書の著者であるユヴァル・ノア・ハラリは、歴史学者であるとともに、軍事史で博士号を取得している。
彼のそういう軍事的な考察力が、その歴史観の構築にどのように影響を及ぼしているのだろうか。
軍事史家としての彼の論文等を読んだことがないので、確かなことは分からないが、通常の歴史学者とは歴史を俯瞰する視点がかなり違っているように感じている。その即物的とも言える史観は、論理的でかつ冷静に、歴史の新たな一面を提示したように思える。
とにかく、素晴らしく、そして稀有な思考家の一人だと思う。
しかし、また、彼の歴史学的思考体系は、この21世紀という時代でなくては生まれない思考体系でもあるのだ。
21世紀の、人間至上主義革命からデータ至上主義革命へと移り変わっていく時代に、明確にそれを歴史観としてまとめ、その混迷も苦難も、もしかしてかすかな希望の可能性も展望している。
私も含めて、ごく普通の人間たちは、もし人間至上主義の根本である人間の感情や経験さえもアルゴリズムの一種でしかないのであれば、そもそも「私とは一体何なのだろうか?」といった手に負えない数々の難問や、また、生物と非生物の関係性やそもそも「生命とは一体何なのか?」といった大きすぎる課題に対して立ちすくんでいる。

著者ユヴァル・ノア・ハラリは、私たちが立ちすくむその道の数歩前を明かりで照らしてくれた。たとえ、それが混迷の道であっても、真っ暗な闇よりはマシだろう。


前書「サピエンス全史」では、
『アフリカで細々と暮らしていたホモ・サピエンスが、食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか?
その答えを解く鍵は「虚構」にある。私たちが当たり前のように信じている国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、そういった虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にしたのだ。』
『純粋に科学的な視点から言えば、人生には全く何の意味もない。人類は、目的も持たずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。私たちの行動は、神による宇宙の究極の計画の一部などではなく、もし明朝、地球という惑星が吹き飛んだとしても、おそらく宇宙は何事もなかったかのように続いていくだろう。現時点の知見から判断すると、人間の主観性の喪失が惜しまれることはなさそうだ。したがって、人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものも単なる妄想にすぎない。中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も妄想であり、現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や、国民主義的意義、資本主義的意義もまた妄想だ。人類の知識量を増大させる自分の人生には意義があるという科学者も、祖国を守るために戦う自分の人生には意義があると断言する兵士も、新たに会社を設立することに人生の意義を見出す起業家も、聖書を読んだり、十字軍に参加したり、新たな大聖堂を建造したりすることに人生の意義を見つけていた中世の人々に劣らず、妄想に憑りつかれているのだ。
それならば、幸福とは人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。
私たちの幸福は主観的感情と同一視され、幸せの追求は特定の感情状態の追求と見做される。対照的に、仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、すなわち自分が本当は何者なのか、あるいは何であるのかを理解することだとされる。たいていの人は、自分の感情や思考、好き嫌いと自分自身を混同している。彼らは怒りを感じると、「私は怒っている。これは私の怒りだ」と考える。その結果、ある種の感情を避け、ある種の感情を追い求めることに人生を費やす。感情は自分自身とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸に囚われるだけであることに、彼らは決して気づかない。
もしこれが事実ならば、幸福の歴史に関して私たちが理解していることのすべてが、実は間違っている可能性もある。ひょっとすると、期待が満たされるかどうかや、快い感情を味わえるかどうかは、たいして重要ではないのかもしれない。最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるかどうかだ。古代の狩猟採集民や中世の農民よりも、現代人のほうが真の自分を少しでもよく理解していることを示す証拠など存在するだろうか?』

と、著者ハラリは述べている。そして
更に続けて、

『サピエンスはいずれシンギュラリティに至る。それは私たちの世界に意義を与えているもののいっさいが、意味を持たなくなる時点、テクノロジーや組織の変化だけではなく、人間の意識とアイデンティティの根本的な変化も起こる段階だ。そして、それはサピエンスが再び唯一の人類種ではなくなる時代の幕開けかもしれない。
また、未来のテクノロジーはサピエンスそのものを変え、私たちには想像の糸口もつかめない感情と欲望を持たせうるだろう。』

で、前書「サピエンス全史」は終わっていたのだ。

本書「ホモ・デウス」は、前書「サピエンス全史」を受けてホモ・サピエンス以後の人類の可能性についての著作である。

本文引用より、
『生命科学者たちは、生物は遺伝子やホルモン、ニューロンに支配されたただのアルゴリズムであることを明らかにしている。人間の心や意識は、脳の中でニューロンが信号を発し、あるパターンに則ってデータを処理しているだけなのである。我々は何一つ自由に選択しておらず、意識や意志を持った「私」でさえも、虚構なのだ。それならば、人工知能が人間の能力を凌駕するようになったとき、そしてコンピュータがあなた自身よりもあなたについて詳しく知るようになったとき、資本主義や民主主義、自由主義は崩壊するのだろうか?そのとき、あなたはこの世界に何を求め、何のために生きればいいのか?』

という問題提起がされている。
認知革命、農業革命、科学革命と続いたホモ・サピエンスの歴史は、いよいよ、その後の人間至上主義革命からデータ革命へと進もうとしていると言うのだ。

『*人間至上主義革命
2016年の時点で、個人主義と人権と民主主義と自由市場という、自由主義のパッケージの本格的な代替となり得るものは一つもない。
2011年に西洋世界で猛威を振るった「ウォール街を占拠せよ」やスペインの15M運動のような社会的抗議行動も、民主主義や個人主義や人権に敵対するものでは断じてなかったし、自由市場経済の基本原理にさえ盾突くものではない。
中国は21世紀の経済大国になったが、この経済大国はイデオロギーの影はほとんど落としていない。中国は依然として共産主義であるというのが建前だが、実際には大違いなのだ。
それでは、イスラム過激派はどうだ?あるいはキリスト教原理主義や、メシアニック・ジュダイズム、復興主義のヒンドゥー教はどうか?
神は死んだとニーチェが宣言してから一世紀以上過ぎた今、神は返り咲こうとしているように見える。だが、それは幻想にすぎない。神は死んだ。
ただ、その亡骸の始末に手間取っているだけだ。
イスラム過激派は、自由主義のパッケージにとっては、真の脅威ではない。なぜなら、狂信者は甚だ熱烈ではあるものの、21世紀の世界を本当には理解しておらず、私たちの周り中で新しいテクノロジーが生み出している、今までにない危険や機会について、当を得たことは何も言えないからだ。
今日もなお、カトリック教会は何億もの信徒の忠誠と献金を享受し続けている。とはいえ、カトリック教会やその他の有神論の宗教は、創造的な勢力から受け身の勢力に変わって久しい。それらは斬新なテクノロジーや革新的な経済手法や先駆的な社会的概念を開発するよりも保守的な現状維持活動にせっせと励んでいるのみだ。
20世紀にイスラム教やキリスト教のような伝統的宗教が成し遂げた、最も影響力のある発見や発明や創造は何だったか?
これは難しい質問だ。なぜなら、選ぼうにも、候補がほとんどないからだ。20世紀にラビやムフティーが発見したもののうちに、抗生物質やコンピュータやフェミニズムと並べて挙げられるようなものがあるだろうか?
21世紀の大きな変化はどこから生まれ出てくると思うか?イスラミックステート(イスラム国)からか、それともグーグルからか?
たしかにイスラミックステートはYouTubeに動画をアップロードする方法を知っているが、拷問産業を別とすれば、最近シリアやイラクからどんな新発明が出現したのか?
そういうわけで、伝統的な宗教は自由主義の真の代替となるものを提供してくれない。
聖典には、遺伝子工学やAIについて語るべきことがないし、ほとんどの司祭やラビやムフティーは生物学とコンピュータ科学の最新の飛躍的な発展を理解していない。なぜなら、もしそうした発展を理解したければ、あまり選択肢がないからだ。古代の文書を暗記してそれについて議論する代わりに、科学の論文を読んだり、研究室で実験したりするのに時間をかけざるを得ないのだ。
だからといって、自由主義は現在の成功に安んじていられるわけではない。たしかに自由主義は人間至上主義の宗教戦争に勝ち、2016年現在、現実的に見て、それに取って代われるものは存在しない。だが、ほかならぬこの成功が、じつは自由主義の破滅の種を宿しているかもしれない。勝利を収めた自由主義の理想が、今や人類を駆り立て、不死と至福と神性に手を伸ばさせようとしている。
本書は、21世紀には人間は不死と至福と神性を獲得しようとするだろうと予測することから始まった。この予測はとりわけ独創的でもなければ、先見の明のあるものでもない。それはただ、自由主義的な人間至上主義の伝統的な理想を反映しているにすぎない。
人間至上主義に従って感情を信頼したおかげで、私たちは代償を払うことなく現代の契約の果実の恩恵にあずかることができた。私たちは、人間の力を制限したり意味を与えてくれたりする神を必要としない。消費者と有権者の自由な選択が、必要とされる意味をすべて提供してくれるからだ。
それならば、消費者と有権者は断じて自由な選択をしていないことに私たちがいったん気づいたら、そして、彼らの気持ちを計算したり、デザインしたり、その裏をかいたりするテクノロジーをいったん手にしたら、どうなるのか?もし全宇宙が人間の経験次第だとすれば、人間の経験もまたデザイン可能な製品となってスーパーマーケットに並ぶ他のどんな品物とも本質的に少しも違わなくなったときには、いったい何が起こるのだろう?

*知能と意識の大いなる分離
今日までは、高度な知能はつねに、発達した意識と密接に結びついていた。ところが今では、意識を持たない新しい知能が開発されている。なぜなら、そうした仕事はみなパターン認識に基づいており、意識を持たないアルゴリズムがパターン認識で人間の意識をほどなく凌ぐかもしれないからだ。
SF映画はたいてい、人間の知能と肩を並べたりそれを超えたりするためには、コンピュータは意識を発達させなければならないと決めてかかっている。だが、現実の科学はそれとは大違いだ。スーパーインテリジェンス(人間の能力を超えるAI)へと続く道は、意識という隘路を通るものは、その一部だけかもしれない。何百万年にもわたって、生物の進化は意識の道筋に沿ってのろのろと進んできた。
非生物であるコンピュータの進化は、そのような隘路をそっくり迂回し、スーパーインテリジェンスへと続く別の、比べ物にならないほどの早道をたどるかもしれない。
パターンを記憶したり分析したり認識したりする点でもコンピュータのアルゴリズムが人間を凌いだら、何が起こるのか?
意識を持たないアルゴリズムには手の届かない無類の能力を人間がいつまでも持ち続けるというのは、希望的観測にすぎない。この幻想に対する現在の科学的な答えは、以下の三つの単純な原理に要約される。
1、生き物はアルゴリズムである。ホモ・サピエンスも含め、あらゆる動物は厖大な歳月をかけた進化を通して自然選択によって形作られた有機的なアルゴリズムの集合である。
2、アルゴリズムの計算は計算機の材料には影響されない。ソロバンは木でできていようが、鉄でできていようが、プラスティックでできていようが、二つの珠と二つの珠を合わせれば四つの珠になる。
3、したがって、有機的なアルゴリズムにできることで、非有機的なアルゴリズムにはけっして再現したり優ったりできないことがあると考える理由はまったくない。計算が有効であるかぎり、アルゴリズムが炭素の形を取っていようとシリコンの形を取っていようと関係ないではないか。

自由主義者は自由市場と民主的な選挙を擁護する。一人ひとりの人間が比類のない価値のある個人であり、その自由な選択が権威の究極の源泉であると信じているからだ。21世紀には、この信念を時代遅れにしかねない、3つの実際的な進展が考えられる。
1、人間は経済的有用性と軍事的有用性を失い、そのため、経済と政治の制度は人間にあまり価値を付与しなくなる。
2、経済と政治の制度は、集合的に見た場合の人間には依然として価値を見出すが、無類の個人としての人間には価値を認めなくなる。
3、経済と政治の制度は、一部の人間にはそれぞれ無類の個人として価値を見出すが、彼らは人口の大半ではなくアップグレードされた超人という新たなエリート層を構成することになる。

*「無用者階級」とは?
21世紀には、私たちは巨大な非労働者階級の誕生を目の当たりにするかもしれない。経済的価値や政治的価値、さらには芸術的価値さえ持たない人々、社会の繁栄と力と華々しさに何の貢献もしない人々だ。この「無用者階級」は失業しているだけではない。雇用不能なのだ。

*ホモ・サピエンスからホモ・デウスへ
自由主義的人間至上主義からテクノ人間至上主義そしてデータ至上主義へ。
データ至上主義は従来の学習のピラミッドをひっくり返す。これまでは、データは長い一連の知的活動のほんの第一段階と見なされていた。人間はデータを洗練して情報にし、情報を洗練して知識に変え、知識を洗練して知恵に昇華させるべきだと考えられていた。ところがデータ至上主義者は、次のように見ている。もはや人間は厖大なデータの流れに対処できず、そのためデータを洗練して情報にすることができない。ましてや知識や知恵にすることなど望むべくもない。したがってデータ処理という作業は電子工学的アルゴリズムに任せるべきだ。つまり事実上、データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、ビックデータとコンピュータアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ。
データ至上主義は、母体である二つの学問領域にしっかりと根差している。その領域とは、コンピュータ科学と生物学だ。とりわけ生物学が重要だ。生物学がデータ至上主義を採用したからこそ、コンピュータ科学における限定的な躍進が世界を揺るがす大変動になったのであり、それが生命の本質そのものを完全に変えてしまう可能性が生まれたのだ。生き物はアルゴリズムで、キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法に過ぎないという考えに同意できない人もいるかもしれない。だが、これが現在の科学の定説であり、それが私たちの世界を一変させつつあることは知っておくべきだ。
この見方によれば、自由市場資本主義と国家統制下にある共産主義は、競合するイデオロギーでも倫理上の教義でも政治制度でもないことになる。本質的には、競合するデータ処理システムなのだ。資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存する。
サピエンスは何万年も前にアフリカのサバンナで進化したため、私たちのアルゴリズムは21世紀のデータフローに対処するようには構築されていない。私たちは人間のデータ処理システムをアップグレードしようとするかもしけないが、それでは十分ではないだろう。「すべてのモノのインターネット」は、あまりにも大量で急速なデータフローをほどなく生み出すかもしれないので、アップグレードされた人間のアルゴリズムでさえ対処できないだろう。自動車が馬車に取って代わったとき、私たちは馬をアップグレードしたりせず、引退させた。ホモ・サピエンスについても同じことをする時が来ているのかもしれない。
データ至上主義は、人間に対して厳密に機能的なアプローチを採り、人間の経験の価値を、データ処理メカニズムにおける機能に即して評価する。もし同じ機能をもっと上手く果たすアルゴリズムが開発されれば、人間の経験はその価値を失うだろう。だから、もしタクシー運転手や医師だけでなく法律家や詩人や音楽家も優れたコンピュータプログラムに取り換えることができるなら、それらのプログラムが意識や主観的経験を持たないからといって気にする必要があるだろうか?
人間中心からデータ中心へという世界観の変化は、たんなる哲学的な革命ではなく、実際的な革命になるだろう。新に重要な革命はみな実際的だ。「人間が神を考え出した」という人間至上主義の発想が重要だったのは、広範囲に及ぶ実際的な意味合いを持っていたからだ。同様に、「生き物はアルゴリズムだ」というデータ至上主義の発想が重要なのは、それが日常生活に与える実際的な影響のためだ。発想が世界を変えるのは、その発想が私たちの行動を変えるときに限られる。
AIとバイオテクノロジーの台頭は世界を確実に変容させるだろうが、単一の決定論的な結果が待ち受けているというわけではない。本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい。
多くの筋書きと可能性があるときに、私たちは何に注意を払うべきなのか?世界はかってないほど急速に変化しており、とても手に負えない量のデータやアイデア、約束、脅威が、私たちに押し寄せている。
古代には、力があるというのはデータにアクセスできることを意味した。今日では、力があるというのは何を無視するかを知っていることを意味する。
では、私たちの混沌とした世界で起こっていることをすべて考えると、何に焦点を当てるべきだろうか?
何か月という単位で考えるのなら、中東の紛争やヨーロッパの難民危機や中国経済の減速といった、目の前の問題に焦点を当てるべきだろう。何十年の単位で考えるのなら、地球温暖化や不平等の拡大や求人市場の混乱が大きく立ちはだかる。ところが、生命という本当に壮大な視点で見ると、他のあらゆる問題や展開も、次の三つの相互に関連した動きの前に影が薄くなる。

1、科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。
2、知能は意識から分離しつつある。
3、意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。

この三つの動きは、次の三つの重要な問いを提起する。
1、生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
2、知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3、意識は持たないものの高度の知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?』

著者ユヴァル・ノア・ハラリは、読者に、本書を読み終えた後もずっと、この三つの重要な問いは頭に残し続けるようにと述べている。
たぶん、それは、未来へ歩き出す時に、この道で良いのだろうかと常に問い続ける必要があるチェックポイントなのだろう。


「ホモ・デウス」 著 ユヴァル・ノア・ハラリ

🚅

環境省.PNG
のんオフィシャルブログより



↑このページのトップへ