月別アーカイブ / 2017年07月

死ぬな。逃げろ。
とにかく死ぬな。とにかく逃げろ。
絶対死ぬな。絶対逃げろ。

今は本当に辛いんだろう。
みんなと同じにできないことが。
人と比べてできないことが。

周りがキラキラ見えるんだろう。
なんで自分はできないんだ。
なんでこんなに人生は辛いんだ。

学校に行けない、お金がない、頼れる人がいない、仕事がきつい、学校がきつい、いじめがきつい、生きるのがきつい。

お金を失った、大切な人を失った、仕事を失った、家族を失った。

それでも死ぬな。

死にたくなるとのは、比べるからだ。
みんなと同じになれないからだ。
絶対やんなきゃって思うからだ。
逃げることはよくないと思っているからだ。

でも、比べる必要なんてない。
みんなと同じになる必要なんてない。
絶対やんなきゃいけないことなんてない。
逃げていい。

あなたはあなた。最高だ。
そう思えないかもしれない。

でも僕は言う。あなたは最高だ。

声をあげてくれ。
声をあげてくれ。

僕に届くくらい。
死んでほしくない。

とにかく死ぬな。頼むから。



「今日は〜しなきゃいけない」
この言葉をよく耳にします。 
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仕事もそう、家事もそう、子育てもそう。
子どもであれば学校から出された宿題もそうですよね。夏休みに入りましたし。
世の中にはしなきゃいけないことで溢れているようです。

その「しなきゃいけない」によって、会社なり、家庭なり、社会が動いていると考えると必要なことであるということは、想像がつきますし、実感として僕も持っています。

でもよくよく考えてみると、「しなきゃいけない」は誰が何のためにしなきゃいけないのでしょうか。
そして何故「しなきゃいけない」と思うのでしょうか。

大概の「しなきゃいけない」には相手がいます。相手からお願いされたこと、相手のためを思ってのこと。義務感や使命感と言い換えることができるかもしれません。

例えば仕事であれば、生活していくためだったり、顧客にきちんとした商品を提供することだったり、上司に言われたことだったり。

その相手はそれぞれ、家族、顧客、会社です。

でもそれって本当にしなきゃいけないのかというのが今回のテーマです。

「しなきゃいけない」には原則相手がいます。
そしてきっと「相手のために」している人が多いのでしょう。

でもそれって本当にそう思ってやっているケースって少ないと思います。
もちろん「しなきゃいけない」によって結果としハッピーになっている人はたくさんいると思います。お父さんが家に帰って、ご飯作ってあげたりすれば奥さんは喜ぶと思いますし。

何が言いたいかというと、「しなきゃいけない」の正体って流行からの社会のパターン化だと思うんですよ。

相手のためって建前上は存在するのだけれど、実際はみんながやっているからとか、社会がそうなっているからとか、そういうことだと思うんです。

もちろん「しなきゃいけない」ができることって、社会で生きていく上では本当に重要だし、必要ではあると思います。

でも、「しなきゃいけない」ってことを考えることも大切だと思うんです。本当にそれはしなきゃいけないのか?という風に。

それを考えて自分の中で答えを出せれば、「しなきゃいけない」は、「自分で決めたこと」に昇華するはずです。

そうすると本当の意味で「相手にとって」を考えだすはずです。思いやりってやつですね。

要は社会の当たり前に振り回されて、「しなきゃいけない」を処理していってほしくないなということです。なんかさみしいじゃないですか。質もきっと下がるでしょうし。

多分「しなきゃいけない」ことなんて、ないんですよ。することは自分で決めるだけ。誰が何と言おうとあなたを動かせるのはあなただけ。

ちゃんちゃん(終)


【追記】
でもでも子どもはそうはいきませんよね。
子どもは楽しいことしかやりたがりません。
宿題もだから進んでやらない。

特に夏休みの宿題の最難関は、「読書感想文」ではないでしょうか。もともと本も読まないのに、本を読んでさらに感想文まで?!でも「しなきゃいけない」から、とりあえず苦しみながら読んで書く。その結果、あらすじをたどるだけの読書感想文は多いのではないでしょうか。

だからまずは本を読みたくなる状態を作ることが大切です。楽しくさせることが重要です。

楽しくなるためには、みんなでワイワイすること。

僕はこれに尽きるのかなと思っています。

僕たちの法人が主催するイベントはそんなイベントです。

読書感想文で読書が嫌いになるのではなく、読書感想文を利用して是非読書を好きにさせませんか。










突然ですが、
みなさんは最近共感していますか?
もしくは共感してもらっていますか?

「わかるわぁー」とか「そうそう、そうなんだよ!」そんな言葉を口に出していますか?

僕の印象で申し訳ないのですが、思いのほか共感するもしくは共感される機会ってあんまりないような気がしています。もしかしたら僕の共感力が低いだけかもしれませんが・・・・

共感する・共感されることってまとめると「自然に分かり合える」ということだと僕は思っていて、自分の話す言葉がそのまま相手に自然に伝わって、居心地の良いコミュニケーションが生まれている瞬間だと思います。

この魔法のような瞬間があると、とっても気持ちが楽になったり、とっても嬉しくなります。

でもなかなかそんな相手を見つけることは難しい。理由は人が思考していることはわからないから。だから誰となら自然に分かり合えるかなんて、わからない。

でも、分かり合える可能性がある人を絞り込むことはできます。それは、
「自分と同じ状況である人と関わること。」
特に普段周りに「同じ状況」の人がいない場合にはかなり期待できます。

例えば僕は阪神ファンなのですが、関東在住もあってかやっぱり巨人ファンが多いです。そんな中にいると自分が阪神ファンだ!なんてなかなか言いづらかったりします。しかし、そんな中希少な阪神ファンにたまたま巡り合ったとしたらやっぱり嬉しいし、今まで我慢していた分話は弾むし、共感することも多いし、とってもいい気持ちになります。そして素晴らしいのが何故か強い仲間意識を持つことが多いんですよね。分かり合えるから一緒にいて居心地がいいというのももちろんあると思いますが、貴重なつながりだからお互いに大切にしようという考えに自然になるのかもしれません。

でもその阪神ファンを見つけることがまあ難しい。

もちろん大きな声で、
「自分は阪神ファンだ!!」と言える方もいますが、日本社会の「みんな一緒じゃなきゃダメでしょ。」という空気感の中では、なかなか言いづらい。だから誰が阪神ファンかわからない。だから見つからないし、つながらない。
その結果少数派のマイノリティたちは特に「分かり合える」という経験に飢えている。常に自分の気持ちをロックして我慢しているから。

これは多くのマイノリティに共通していることではないでしょうか。

私の活動領域である、貧困状態である子どもたち、児童養護施設に住む子どもたち、不登校の子どもたちもそうです。

でも、もしつながる機会があったらどうでしょう。自分と同じ状況の人だけが集まるコミュニティがあったらどうでしょう。

知らない人に会うことは緊張するかもしれない。億劫かもしれない。

でもその場所にはあなたと分かり合える可能性がある人たちしかいません。
なぜならみんな「同じ状況」だから。

※僕も先日 不登校とマイノリティというイベントに参加しましたが、支援者としてまた当事者として非常に共感しました。そして参加者の多くは僕と同じ支援者や当事者でした。

だから遠慮せず自分の話をしてください。
きっと自然に分かり合える、だからスカッとする。そしてきっと新しい仲間に出会えるはずだから。
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この日を境にあなたはもう一人じゃない。



そしたら一緒に声をあげよう!

「俺は阪神ファンだ!!」

ちゃんちゃん(終)

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