月別アーカイブ / 2017年06月

世の中にはサービスがあふれています。サービスを提供してくれる多くは「人」です。
そしてその中には、とても感じかいい対応をしてくれる人と、してくれない人がいます。

なぜかな?とふと考えたときに、「こなすこと」の危険性を知っているかどうかが1つの理由かもしれないなと思い、今回ブログを書くことにしました。

「こなす」
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意味としては、与えられた仕事などをうまく処理するというもの。

漢字にすると「熟す」と書き、熟練を連想させます。

今年の4月から新社会人として働き始めた方々もだんだん仕事を「こなすこと」ができ始めているかもしれません。

仕事をする上で「こなせること」は最初のステップとして非常に大切なことであると思います。始めはマニュアル等を確認しながら、仕事を処理していくわけですが、だんだんワーキングメモリ(作業記憶)に蓄積されていき、パターン化することで、スムーズに処理ができるようになっていきます。

本人にとっても「仕事ができるようになってきた」という達成感もあるでしょうし、企業にとっても「1人の戦力」として数えられるようになることはとても心強いことであると思います。

以上のように「こなすこと」は基本的に良いことなのですが、1つの危険が潜んでいます。

それが「慣れ」です。
特に同じような作業を繰り返すことが仕事の場合は要注意です。
こなすことができるようになると、特に考えなくても手は動くし、口が動くようになります。しかしその結果「繰り返し」になってしまう場合があり、質が上がるどころか、ミスが増えるなどして、質が低下してしまいます。

◯ いつも作っているものだから、大丈夫だろうと確認を怠ること。

◯ お客様がお見えになったときに、目の前の人がどんな人か想像せず、いつもと同じように対応すること。

自分にとっては、何回も繰り返しやってきたことでも、相手にとってはその瞬間が初めてであり、その対応によりあなたのイメージだけではなく、そのサービスや提供する会社のイメージが出来上がってしまいます。

大事なことは、常に「日に新た」であり、毎日をきちんと「積み重ねること」です。

毎日実践することはもしかしたら難しいことかもしれませんが、こなす自分に酔わぬよう、こなすことのリスクを知っておいてもらいたいなと思います。

私も頑張ります!

ちゃんちゃん(終)

今日は父の日。
お父さんに感謝する日。

僕には2人の子どもがいるのですが、なかなか一緒の時間を過ごすことができません。

僕はNPO法人の代表を務めています。
平日の日中はサラリーマン(公務員)の僕にとって、土曜日や日曜日はNPOの活動をしていることが多いからです。

妻は理解してくれていますが、やはり負担は大きいはずです。

そこで僕は「父の日」を「父になる日」と勝手に定義し、妻に「母休み」を提供することにしました。

内容はいたってシンプル。
子どもが起きてから寝るまで僕が過ごすだけ。

ご飯を食べ、買い物に行き、公園に行き、ご飯を食べ、ダンスを踊り、お風呂に入れ、歯磨きをさせ、髪を乾かし、明日の準備を一緒にしました。
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そして先ほどようやく終了し、このブログを書いております。

感想としては、楽しかったけれど、とても疲れました。子どもはとても楽しそうでした。

もしかしたら僕がしたことは、世のお父さんからしたら当たり前なのかもしれません。

子どもと一緒にいれることは幸せだけど、なんだかんだやっぱり大変。

だからかな、先ほど妻が帰ってきましたけれど、僕はありがとうを言われませんでした。笑

まぁ 少しは妻も「母休み」ができたことを信じて僕の「父の日」を終わりにしたいと思います。

ちゃんちゃん(終)





不登校
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それは学校に行けない•行かない状態のことをさします。
学校に行くことは、子どもにとって「当たり前」とされており、一種の強制力を持っているため、不登校は社会課題の1つとされています。学校に行かないことで、学習が遅れたり、社会との接点が途切れるなど、将来に対して「果たして自立できるのだろうか」という不安。あるいは社会からの見られ方「落ちこぼれと見られるのではないだろうか」という不安。こんな2つの不安を本人も家族も抱えているケースが多いようです。

確かに不登校になった場合、そのままひきこもりとなってしまうケースもあります。そしてひきこもりになった場合、そのまま長期化してしまう場合もあります。

自身の子どもがそうなると思うと家族は本当に不安を抱えるでしょうし、社会参加が難しくなれば、もしかしたら仕事をすることができず、収入が途絶えた場合には生活保護制度等の福祉制度を利用することになり、日本という国全体として考えたとき、本来支える側になるはずであった子どもが支えられる側になってしまうことは大きな損失です。
つまり自身が不登校だったり、または自分の家族に不登校の子どもがいる人だけの問題ではなく、広く考えればみんなに影響が及ぶ問題です。

ですから行政機関(教育委員会等)は、不登校という課題に対して適応指導教室を設置•運営したり、スクールカウンセラーを学校に配置するなどして、対策をしているのかもしれません。

しかし、この対策はあくまで「学校に行く(戻る)」ためのものです。

学校に行く、みんなが当たり前にしていることをできるようにする。
学校に行くことにより家庭が抱える不安
「自立できるだろうか」
「落ちこぼれと思われないだろうか」
という不安はなくなるかもしれません。

でも、学校に戻れない場合どうすればいいのでしょうか。学校に行かなければ、このままひきこもりになってしまうのでしょうか。

学校に行くことがひきこもりを防ぐことにつながることは確かです。
しかし、必要条件ではありません。

つまり学校に戻るということだけが、解決策ではないということです。
子どもを出発点として考えることができれば、さまざまな解決方法が存在するはずです。

そんなこと言ってもやっぱり、学校に戻したい。きっと親も学校も思うでしょう。
それは「みんなと違う」ことがとても不安だからです。
社会からの見られ方を気にする理由もここにあります。
でも本当に大切なことは、子どもが自立すること、幸せになることです。
「学校」が世界のすべてではありません。本当に限られた狭いエリアであり、広い社会の一部です。誰にでも自分が合う場所はこの社会に絶対あります。ないわけがありません。

本当に大切なことは視点を変えること、そして視野を広げることだと思います。

視点を学校外に向けて社会を見渡せば、さまざまな不登校支援機関があることに気づくはずです。

その1つが学校ではない、学校外の居場所であり学び場である、フリースクールです。

フリースクールとは、来ることも自由、過ごし方も自由、学び方も自由。なんにも強制されない場所。自由に過ごすことを認めてもらえる場所。そして、そこにいる大人は本当に目の前の子どもをわかろうとしてくれる人、一人一人の違いを受け止めてくれる人、うんうんとゆっくり話を聞いてくれる人。

一見なんにもない場所に見られることもありますが、なんにもないからこそ、子どもはゆっくり過ごすことができる。ゆっくり考えることができる。
自分のことをわかろうとしてくれる人がいるから、子どもはゆっくり心を開いていく。ここにいていいんだって思える。

自分の居場所を見つけて、日々を積み重ねていくと、空っぽだった心のパワーがみるみる充電されていく。回復した子どもたちは、自分自身を見つめなおす。自分を客観的に見ることができるようになる。そして自ら動き出す。

学校に行きたい。
歌を歌いたい。
絵を描きたい。
英語の勉強をしたい。

学校に行きたければいけばいい。
歌や絵、そして英語。何でも好きなこと、やりたいことをスタートすればいい。

多様な選択肢の中から自分で決めればいい。子ども自身が自分の生き方を選択すればいい。だからこそ頑張れたり、意欲的になれたりする。続けることができたりする。それが自信を作っていく。胆力と意欲そして自信を兼ね備えたらもう大丈夫。強く生きていけるはず。

以上が僕が考える不登校支援のあり方です。

そして最後に僕の想いを少しだけ。

不登校という貴重な経験をうまく生かして、強い根を張り、人とは違う花を咲かせてくれたらいいな。同じ花が咲いていることも綺麗だけれど、一際目立つ花も素敵だから。

そして僕は不登校も選択肢の1つであると思っています。今はまだなかなかそう思えない雰囲気だけれど、そんな風に当事者や家族、そして社会が思えるような雰囲気になればいいな。

まずは雰囲気を作っていきたいなと思っています。そのためにより多くの人に関心を持ってもらうことが本当に大切です。
ここまで読んでくれたあなたは、ほんの少し関心を持ってくれたでしょうか。持っていただいたのであればとても嬉しく思います。

長文になりましたが最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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