月別アーカイブ / 2017年05月

こんばんは。

前回のブログ、「誰かのために」というモチベーションそしてボランティアの限界についてたくさんの方々から共感をいただきました。


素直に共感は嬉しいのですが、
「なぜこんなにも多くの人が共感するのだろう?」そんな疑問が湧いてきました。

そして なぜこの人が共感するのだろう?
そんな違和感も本日体験しました。

自分でブログを読み返し、2つの捉え方があることに気づくことができました。

1つの捉え方を持ってくれたのは、僕がブログをとおして、伝えたかった人たちです。
それは、

◯「誰かのために」と頑張っている人
◯「誰かのために」が最高にステキだと思っている人

誰かのために熱い思いで実際に活動されている人へ届けたい思いでした。応援の意味も込めていました。

しかしですね、共感した人の中には、上記にあげていない人もいらっしゃいました。それが2つめの捉え方であり、こんな人たちです。

◯「したい人」だけがやればいいと思っている人
◯ボランティアすることが嫌いな人
◯「誰かのために」ということ自体がキレイゴトであると考えている人

まとめると、つまりこういう人です。

「そうそう、したい人がやればいいんだよ。したくない人にわざわざやらせる必要は全くない。そもそも自分には関係ないし、そして見返り(お金)もなくボランティアするなんて馬鹿らしいよ」

自分は特にしたいことはないけれど、損したくないとか、普通に生きたいとか、そうおっしゃっている人に多い印象です。

僕はそういうことを言いたかったわけではありません。僕が言いたかったことは、
誰かのためにと気合をいれて、頑張ったとしても、それはその誰かのためになるかはわからない。だから、自分がしたいこと、してあげたいことをする、そういう意味で自分のためにするということを伝えたかったのです。

自分のしたいことだけ、自分のために生きることは悪いことではないと思いますが、そういった姿勢の方が多数を占める限り、青少年育成推進委員しかり、PTAしかり。
こういった活動への「強制」はなくなっていかないのかもしれませんね。

だってそうでしょう?
誰もやらなくなったら、
じゃあどーすんの!!
となるわけですから。

とっても難しいテーマですね。泣


ちゃんちゃん。(終)









こんばんは。

僕は今年度より児童育成推進委員という、地域の子どもたちを見守る役割を担うことになり、新任の方向けの講習会に参加しました。

その中で登壇する方々がある2つの言葉を連呼されており、その言葉に大きな違和感を感じました。その言葉とは、

「ボランティア」

「子どもたちのために」

言いたいことはわかります。
確かに児童育成推進委員は、無報酬ですし、また子どもたちのために活動する、むしろ表現としては間違っていません。

しかし 大きな違和感を僕は抱きました。

一昨年より、僕はNPO法人を運営しており、確かにボランティア活動の部分もあるし、子どもたちのために活動しています。

しかし、こちらの活動には全く違和感を感じていません。

なぜだろうと考えたら答えが出ました。

それはズバリ!

僕がしたいからしている

ということです。

僕の活動の発起の大きな理由は、母子家庭の子どもたちのチャンスが、貧困や家庭環境により制約されているという怒りからでした。

この問題を解決したい、そう思いました。

そのために何が必要か考えたときに始めたことが、学習動画サイトの運営です。
これは誰かに頼まれたものではなく、
僕がしたいと思ったのです。

インターネットが普及した昨今。
「動画」を用いれば、貧困などで教育の機会が不十分である子どもたちに学びを届けることができると思ったからです。

つまり、僕がしたいことが、結果的に子どもたちのためになるかもしれないだけで、子どもたちのためにというところがスタートではないのです。

利己主義利他主義につながるだけなんです。

ボランティアだってそうです。
例えばある大学生がいいました。
「私は不登校の経験がある。当時の私のように苦しんでいる子どもたちの話を聞きたい」
これは子どもたちのためではなく、自分のしたいことです。この大学生が目の前にいる不登校の子どもたちの話を聞くことで、その子どものためになるかもしれない、そんな可能性があるということです。

多分なんだってそうなんです。

多くの親は、子どもたちや家族のために働いていると言います。しかしそれは、家族を守りたいという自己の欲求のはずです。だから、頑張れるはずなんです。

「誰かのために」という言葉は、その誰かのためにならなくなった途端、やる気はなくなります。心の炎を燃やし続けるためにはまずは「自分のために」という思いが大切かもしれないなと思います。

自分のためにと思うことができれば、実現や解決に向けて、努力ができる。
本質に近づけるのかなと思っています。

利他だけではモチベーションも、ボランティアもきっと続きません。

以上です!

※この内容は今日の僕が思ったことであり、正しいとか正しくないとかではありません。

先日 10数年ぶりに高校の同級生と食事をしました。きっかけはSNSでの再会。

10年ぶりに会っても、あの頃と変わらない私たちがそこにはいて、とても楽しい時間でした。

僕と彼は群馬県内の進学校に通っていたものの、理由は異なりますが、いわゆる「落ちこぼれ」の状態でした。

しかし お互いに10数年間、さまざまな経験をしながらも、また元気な状態で再会できたことは、とても嬉しいことでした。

そんな中昔話に花が咲き、彼と話をしていて話題にあがったのが、「授業レベル」の話でした。

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中学生の頃は特に問題なく、授業についていけたし、理解もできたのですが、高校の授業は全くついていけませんでした。

なぜだろう?

そう考えたときに、1つの答えが。

僕たちは学力はあったけど、学力がなかった。

この文章だと意味がわかりませんよね。
送り仮名をいれると、

僕たちは学(んだ)力はあったけど、学(ぶ)力がなかった。

高校の授業は予習前提の授業であり、自学自習の中で発生する疑問を解決する場所でした。

言い換えると、授業の中で料理を作るわけではなく、料理を事前に作り、それを持ってきて、おいしいかおいしくないかを先生に食べてもらう場所でした。

できる子をどんどん伸ばす場所であり、ついてこれない子は知らないよという場所でした。

でも 僕は思うのです。
学ぶ力をつけるためには、学び方を知らなくてはいけないのではないかと。
そして 学校という場所では、学び方を教えてもらえていないのではないかと。

大半の小中学校では、宿題や課題を出されています。今の小中学校は僕たちの頃よりもさらに大量の宿題が与えられています。

確かにこなすことにより、学(んだ)力はつくと思います。しかし、学(ぶ)力はつかないのではないでしょうか。

僕は目先の知識を増やすことではなく、学び方について時間をかけて学校で学ぶことで、本当の学力がつくのではないかと思います。

定着した知識を評価するのではなく、自発的に学ぶ力を評価する方向性が結果的に大きく成長するのではないかと思います。

学ぶ力を養うことができれば、家庭環境などに左右される割合が減少し、所得格差からの教育格差が発生しづらくなりそうな、そんな気がします。

誰でも学べる教育機関である学校こそが、学ぶ力を養う場所になることが重要かなと思います。







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