みなさまこんにちは。
頭の調子がいいので、昨日に続きブログを書いていきたいと思います。またかよと思わず、もしよろしければ読んでください。
突然で申し訳ありませんが、
僕は「当たり前」という言葉が、「ルール」になっているのではないかと今日思いました。だから今日書いています。
※今から書くことは今の僕の考えです。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。そして僕はその当たり前に沿って生きることも大切だと思いながらあえて書きます。
当たり前 = ルール
この等式には僕はよく出会うし、よく思うことがありました。
例えば 子どもの宿題。
僕には小学校2年生の娘がいるのですが、まぁ宿題が多いこと多いこと。娘は習い事もいくつかしていて、僕が夜遅くに帰ると眠い目をこすりながら、宿題をしている姿に何度か出くわしたことがあります。
僕は娘に尋ねます。
「なんでそんなに頑張るの?」
娘は答えます。
「宿題だから。明日提出しないと怒られちゃう。」
そして僕は続けて尋ねます。
「なんで明日提出しないと怒られちゃうの?」
娘は答えます。
「みんなやっているのに、ウチだけやらないと怒られちゃうでしょ」と。
このやりとりだけでも感じるものがありませんか?
宿題だから〜とか、
みんながやっているから〜とか、
なんか僕はしっくりきません。
これは子どもに限った話ではありません。
みんなが〜だから。とか。
これは大人になってもよく聞く話です。
僕はここに当たり前の本質があると思います。
みんながやっていることが当たり前になり、それがルールになっていく。そんな流れがあるような気がします。
でも当たり前ってルールではないはずです。
僕は宿題をすることが必要な人はやればいいと思うし、必要だと思わなければやらなければいいと思います。
しかし、みんながやっていることが当たり前になってルールとなっていくから、自然にやらなければいけないものに変わっていってしまう。
そんな当たり前が存在するから、
個性がなくなる。みんなおんなじになる。
そんな当たり前の中で生きていくから、
劣等感も生まれてしまう。そして格差が生まれる。入学時の制服とかランドセルだって安くないですし。
飛び出せばいいんだけど、当たり前から外れるのはとても怖い。みんなと同じじゃないと自分だけ不幸になってしまう気がしちゃうから。
でもそれはみんなが社会が「当たり前」というおんなじ物差しを持っていると思っているから。
当たり前は、ルールじゃない。
当たり前 = みんながやっていること
みんながやっていることは別に守らなくてもいいんです。ルールじゃないし。
でも 実際みんながやっていることがルールになっている気がしてなりません。
当たり前はみんながやっていること。
それはルールじゃなくて守らなくてもいいこと。
それをちゃんと理解しないと、可能性をいろいろ詰んでしまうのではないだろうかと僕は思います。
例えば学校に行きたくなければ行かなくたっていい。
みんなと一緒じゃなくたっていいじゃない。
子どもを出発点に考えれば、子どもが幸せになってくれることを願うのであれば、異なる道もあるはずです。
学校に行くことが幸せになるための条件ではないはずです。
そんな子どものために場所があるんだから。
最後は宣伝でした。それでは失礼いたします。最後までありがとうございました。