月別アーカイブ / 2017年01月

みなさまこんにちは。

頭の調子がいいので、昨日に続きブログを書いていきたいと思います。またかよと思わず、もしよろしければ読んでください。

突然で申し訳ありませんが、
僕は「当たり前」という言葉が、「ルール」になっているのではないかと今日思いました。だから今日書いています。

※今から書くことは今の僕の考えです。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。そして僕はその当たり前に沿って生きることも大切だと思いながらあえて書きます。
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当たり前 ルール
この等式には僕はよく出会うし、よく思うことがありました。

例えば 子どもの宿題。
僕には小学校2年生の娘がいるのですが、まぁ宿題が多いこと多いこと。娘は習い事もいくつかしていて、僕が夜遅くに帰ると眠い目をこすりながら、宿題をしている姿に何度か出くわしたことがあります。

僕は娘に尋ねます。
「なんでそんなに頑張るの?」

娘は答えます。
「宿題だから。明日提出しないと怒られちゃう。」

そして僕は続けて尋ねます。
「なんで明日提出しないと怒られちゃうの?」

娘は答えます。
「みんなやっているのに、ウチだけやらないと怒られちゃうでしょ」と。

このやりとりだけでも感じるものがありませんか?

宿題だから〜とか、
みんながやっているから〜とか、
なんか僕はしっくりきません。

これは子どもに限った話ではありません。
みんなが〜だから。とか。
これは大人になってもよく聞く話です。
 
僕はここに当たり前の本質があると思います。

みんながやっていることが当たり前になり、それがルールになっていく。そんな流れがあるような気がします。

でも当たり前ってルールではないはずです。

僕は宿題をすることが必要な人はやればいいと思うし、必要だと思わなければやらなければいいと思います。

しかし、みんながやっていることが当たり前になってルールとなっていくから、自然にやらなければいけないものに変わっていってしまう。

そんな当たり前が存在するから、
個性がなくなる。みんなおんなじになる。

そんな当たり前の中で生きていくから、
劣等感も生まれてしまう。そして格差が生まれる。入学時の制服とかランドセルだって安くないですし。

飛び出せばいいんだけど、当たり前から外れるのはとても怖い。みんなと同じじゃないと自分だけ不幸になってしまう気がしちゃうから。

でもそれはみんなが社会が「当たり前」というおんなじ物差しを持っていると思っているから。

当たり前は、ルールじゃない。

当たり前 みんながやっていること

みんながやっていることは別に守らなくてもいいんです。ルールじゃないし。

でも 実際みんながやっていることがルールになっている気がしてなりません。

当たり前はみんながやっていること。
それはルールじゃなくて守らなくてもいいこと。

それをちゃんと理解しないと、可能性をいろいろ詰んでしまうのではないだろうかと僕は思います。


例えば学校に行きたくなければ行かなくたっていい。

みんなと一緒じゃなくたっていいじゃない。

子どもを出発点に考えれば、子どもが幸せになってくれることを願うのであれば、異なる道もあるはずです。

学校に行くことが幸せになるための条件ではないはずです。

そんな子どものために場所があるんだから。


最後は宣伝でした。それでは失礼いたします。最後までありがとうございました。








みなさまこんにちは。
今日は久しぶりに暖かい気候で過ごしやすい日でした。

そんな日に僕は自分に違和感を感じました。
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その違和感は僕の思いと僕の行動の違和感です。実はときどきこうなります。

僕の頭の中、もしくは心の中で整理がつかないときになることが多いです。

僕は子どもに機会を提供する活動をしています。主に3つの活動です。
  • 子どもがお金がなくて学べないのであれば、インターネットを利用して学習動画を無料で配信すればいい。
  • 児童養護施設の子どもが大人への不信感を持ち、大人を信頼することを恐れているのであれば、僕たちがまずそれになればいい。
  • 不登校やひきこもりの子どもたちが学校に行けないのであれば、学校外で学べる居場所を作ればいい。
僕は上記のような考えで、1年半活動してきています。これが僕の行動です。詳しくは下記ホームページをご覧ください。

しかし今日の僕の考えは、
もっともっと広く大きな考え。
根本的な考え。

子どもを出発点として、どう教育していくか。

そんな考えに至っています。

今すでに存在する課題に向き合うのではなく、社会の中で新たな慣習、ここでは子どもの教育の方法について、どう生み出していくのか。

今ある社会をひっくり返して、よくしてしまおうという考え方です。最初から作り直しです。

何にも答えは見つかっていませんし、頭の中はグチャグチャです。本当グチャグチャ。
混乱しています。悪い意味ではないのですが。


でもそんな頭でも1つだけわかります。
それは子どもを幸せにすること。
それだけは真実であってほしい、そう思います。まとまりのない文章失礼しました。


追記 (今日の学び)
  • 学校の宿題多いよね。
  • 子どもに社会を知らせることもいいね。
  • 経済以外の物差しも必要だよね。
  • 自分1人では生きていけないよね。
  • 人を認め、尊重することは大切だよね。

あ。わかった。これは全体の子どものお話なんだ。そもそものお話。みんなに必要なお話。
こういった全体を良くすることで、マイノリティな子どもたちが生まれづらくなるかもしれない!
ブログを書いた後、わかった気になることができました。ありがとうございます。笑


現在小田原市の職員の上着(ジャンパー)問題がニュースとなっています。
皆様はどう感じられたでしょうか。

過激すぎる表現だと感じる反面、小田原市の職員を擁護する意見も耳にします。

彼らは生活保護の不正受給を防ぐために、いわゆる正義の心で働いていた。

市の職員として任務を全うするため、組織の士気を高めることが目的であったようです。

もしそれが事実であれば、僕は彼らのプロ意識には敬服しますし、間違っていません。

上記のような考え方のプロセスを踏むと、どうやらこのニュースは生活保護バッシングにつながっていきます。
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確かに生活保護の不正受給は許されないことです。必死に働いている国民から集めた税金で
生活し、ひどいケースではそのお金を私利私欲のために使ってしまう。みなさんが納得しないことも十分にわかります。

そしてみなさんが生活保護は本当に必要な人が受給しているのであれば問題ないと考えていることもわかります。

しかし、僕は感じるのです。
仮に小田原市のジャンパーの言葉を借りれば本来は、

生活保護の不正受給 = クズ

のはずが、みなさんの頭の中では

生活保護 = クズ

となっている方はいないでしょうか。

僕は生活保護バッシングが出るたびにそれを危惧しています。

この印象がつくとどうなるのか?
本来必要な方が生活保護を受給することをためらってしまいます。だってそうでしょう、クズだって思われたくないですから。

また生活保護家庭で育つ子どもはどうでしょう?前向きに生きることができるでしょうか。自分たちがクズというレッテルを貼られて。

もちろんみなさん全員が、
生活保護 = クズ
と思うとは思っていません。

しかしこういったバッシングが出るたびにそう感じてしまう方は増えていく気がします。

僕はその影響が今回発生することを危惧しているため、今回の件についてはやはりやり過ぎであると考えています。


だからもし可能であれば、子どもや社会に希望を与えるために、生活保護世帯の方々が頑張っている、サクセスストーリーをもっと取り上げてもらいたいなと思います。

もしそういったサクセスストーリーが日本にないのであれば、機会提供が不足しているはずなので、そこに問題意識を持つことも重要だと思います。


全員にチャンスがある社会。
子どもにとっても、大人にとっても、社会にとっても、あなたにとっても有用だと僕は考えます。


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