おはようございます

僕は基本毎日、車で最寄りの駅まで向かい、通勤しています

朝が弱いこともあり、ほとんどの場合 ギリギリです w

間に合うかどうか。そんな日もあります。
そんなとき、左側の方でとまっている車があります。"入れてくれーっっ"と待っています。

"どうぞーっっ!!"と言いたい

だって 1台を入れたとしても 時間はそんなに変わらないし

しかし 入れてあげないこともある
ごめんっ..と通り過ぎてしまうことがあります

一方でたまたま早く出発して自分の中でとても時間的に余裕を感じるときは、"どうぞーっっ!!"をやり過ぎて、2台も3台も入れてあげてしまい、自分が前に進むチャンスを逃したりする w

自分の後ろにも車があって急いでいるかもしれないのに。そこはいつも反省しています。

基本スタンスとしては、「入れてくれー」と言われたら、「どーぞー」が僕のスタンス

しかし 自分に余裕がないときには それができなくなる

これは何も車の話だけではないのかもしれません

人は自分に余裕、しかも安心できる余裕がないと、手をさしのべることが難しいのではないのかなぁと感じることがあります

それは1つの事実なのかもしれません

ただ 僕はそれだけではない人もたくさん知っています。それが正しいとか正しくないとかではなくて。

余裕がない人は自分のことをまず満たさなければならないと思いますが、その余裕の量が問題なのかなと思います

人によって安心できる余裕の量はきっと異なっていると思います 

もし仮に余裕の量を定量化し、50の人が2人いて、客観的に同量。しかし 安心できる量が1人は50で、もう1人は40だとしたら、1人の人は10だけ手をさしのべられる。

不安かもしれないけれど、その理由のほとんどは明確ではなくて、漠然としたものであるように思います

その漠然としたものは きっと社会が作り出しているものです

その 社会を変えることは大きな力が必要です
でも自分を変えることはできます
自分で考えることができれば、漠然とした不安はなくなるのではないでしょうか

人はこの先が明確になれば安心して行動するはずです 少なくともわからない状態よりはずっといい。

話のスケールが随分大きくなってしまって申し訳ありません...

まとめると、
人は余裕がないと人に手をさしのべられない。でも 余裕がないと思っているのは、漠然とした不安が原因であり、自分で考え未来を少しでも明確にしていくことができればステキかも!

という話でした。

ちゃんちゃん(終)

安心という言葉は、なんだか穏やかな気分にさせてくれる言葉です

安心できる言葉
安心できる場所
安心できる人

持っている人も、求めている人も多いかもしれませんね

僕は安心している状態とは基本的には”いい状態”であると考えています

安心しているということは、今の環境に満足できる状態であるからです

今に満足しているからこそ、できることってありますよね。満足したからこそ、視野が広がり、見えてくるものもあると思います

安心できていないときは、どうしても視野が狭くなるし、自分のことでいっぱいいっぱいになってしまうのかもしれません

ただ安心という状態を獲得することにより、悪い方向に行く場合もあります

例えば 安心した状態を獲得したことにより、その安心を守るため、独占してしまう場合もあります

また 安心したことにより、チャレンジをしなくなってしまう場合もあるでしょう


全速力で生きてきた人生が突然、
マラソンになってしまう。

もしかして
自分だけよければいいって思ってない?

実際 安心できる状態は憧れであり、なかなか獲得できないものです

しかし その安心できない今、その過程は本当はものすごくたのしい時間なのかもしれません

がんばろ?

ちゃんちゃん(終)









努力している。頑張っている。

自分が認めたのであれば、それはきっと、努力しているし、頑張っているのでしょう。

でも比較するものではないかもしれない
_var_mobile_Media_DCIM_106APPLE_IMG_6979.PNG
実際、努力の量は定量化することはできるはずです。例えば 勉強であれば、1時間勉強した、2時間勉強した、そんな風に。

定量化できるのであれば、比べることはできるはずです。でも 比較するものではないし、相手に努力が足りないとか、伝えるべきではありません

なぜなら 相手はあなたじゃないし、あなたは相手じゃないから

僕がなぜこんな風に考えているかお伝えさせてください。

••••

僕はNPO法人の代表を務めていて、子どもの教育格差の課題に取り組んでいます。

教育格差が生じる要因に、学校外の教育機会の有無があります。学習塾や家庭教師などのサービスを利用できるかどうかという話です。

この要因を話す際に、
「自分は学習塾には行っていなかったけれど、進学校(高校•大学)に進学した。だからその部分は大きな影響はない。本人のやる気次第ではないか」

むむ

実は僕もそう思っていました
勉強はやった人の頑張りだ!!って

たくさんの母子家庭に会うまでは。
今の活動を始めるまでは。

あなたは学習塾に行かなくとも自分で学ぶことができた。それはきっと、

家庭環境が整備されていたのではないだろうか

学習に集中できる環境があったのではないだろうか

生きていくことに不安を感じなかったからではないだろうか

ストレスに溢れた家庭ではなかったからではないだろうか

今はそんな風に想像できます

家庭が充実していれば、学校外教育なんて必要ないかもしれません

しかし今現実としてあるのは、充実した家庭ほど学校外教育を享受できている事実です

そして本来 学校外教育機会が必要な家庭であればあるほど享受できない事実です

その結果 格差の固定化が生まれています
••••

僕はこのような状況を知り、子どもを社会で支援していく必要があると考え活動を始めました

そして 知りました。
努力できる、頑張れるといったことも家庭環境に左右されるということを。
だからこそ思います、
努力は比較するものではないってことを。

あなたが努力していることは素晴らしいし、誇っていい。しかし それを相手と比べたり、伝えたりすることは違うかもしれない。

もしかしたら あなたが頑張れたこと、頑張れることも与えられたものかもしれないから


ちゃんちゃん(終)
















↑このページのトップへ