月別アーカイブ / 2019年10月

太田弁護士が愛知は擁護しつつ赤十字の萌え絵起用は批判して炎上しつつあります。
セクハラ論争は置いといて、このことから気づかされるのは、自分が本当に表現の自由を守る立場を矛盾なく取れるかは、自分が最も唾棄する表現に対しても表現自体は許す。ただ批判はする。しかし表現する自由は守る。という態度を貫けるかどうかで試されると思います。
同じようなことをグッディで質問を受けた時にも思ったことがあります。
有罪濃厚な案件で、しかも酷い犯罪の裁判について「これ裁判やる意味あるんですか。遺族が傷つけられるだけじゃないですか」という質問を受けました。
たしかにその通りで、私も自分の心の中に問答無用で斬り捨てたい気持ちがあることは否定しません。しかし、私たちが魔女狩りをしない人間かは、魔女を目の前にしても手続きを守れるかによって試されている。と考え、そう回答をしました。
人間は好き嫌いから逃れられない。不合理な判断をすることもある。逆に意味があるのか疑問になる手続きも実際にある。しかし今までの叡知の結果、少なくとも現在は人間が神の能力を持たないことを前提に、実態よりも手続きを優先する。ただ、それが正義なのではなく致し方無くしている。という理解が必要なのではないでしょうか。
太田先生は非常に熱意のあるところ、臆せず発信する胆力が素晴らしいと思います。ただ、自分も含めてあるべき論に傾きすぎてはないかな?自分も、誰しも、ときには不合理と言われる好き嫌いを持っていることを認めて許してあげれば自分の意見が正しいと肩肘張らずにうまくやれるだろうになと感じました。

 東須磨小学校の教員同士のいじめ問題が話題になっています。もちろんいじめた人間の人間性が問題であるのは当然ですが、これを二度と起こさないためには、構造的な問題を理解する必要性がある気がします。
 というのも、行動経済学の本で読んだのですが(以下の本だったと記憶しています)
https://www.amazon.co.jp/その問題、経済学で解決できます%E3%80%82-ウリ-ニーズィー/dp/4492314490
 
 女性の社会進出が進み、優秀な女性がそれまでの「教員やその他」に押し込められなくなった結果、優秀な人材が教員に供給されなくなり、教育機関の教育能力が低下したという関係性が判明したそうです。
 これはある意味当然で、優秀な人間が自由に職業を選択できるようになれば、やりがいや経済的評価がより高い職業を選択することになるので、今後相対的に教員を選択する人間の中に、一部(もちろん優秀でやる気のある教員の方は多い)能力が低いが教員なら職があるという「でもしか教員」が入ってきて、その割合が増えてくることは当然です。
 教員の職場環境の悪化が歴然たる事実となっている現在、教育という国家の根幹を担う現場の職員に優秀な人間が自然とあつまるような職場環境の整備、教員になるのは優秀な人間が努力しなければなれないという構造にすることが必要なのではないでしょうか。
 それがなくなると、現在進行中のように、公的教育のレベルは下がり、教育レベルと経済レベルとが比例し、将来の希望の格差が大きい社会となり、社会が分断されるという流れが止まらなくなると思います。
 どのような環境にあっても、最低限一度は億万長者(俗な言い方しか思いつきませんが)になれる社会であることが、競争の結果を受け入れる正当化根拠です。今この正当化根拠があやしくなってきている気がしています。
 中流サラリーマンの子供として生まれ、教育によって弁護士にならせていただいた身からすると、今後そういう社会になるのは一抹の寂しさと危険を感じています。 

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