これに対して、人道的な、情緒的な点からの反論は、同感するところですが、多くの方がおっしゃられるでしょう。
そこで、私からは単なる人道的、情緒的理由を超えて、現時点で「障害者」と定義されている人も、なぜ我々の仲間として必要なのか、について過去「『障害者』と言われている人を再定義する」投稿したことを引用して再度述べさせてください(詳しくは上記リンクをご参照ください)。
なお、以下に述べるのは、客観的な理屈で、以下に述べるような役割を障害者の方に押し付けようとかそういう意図はありません。また、乙武さんをチクっとしていますが、個人的には凄いな。と思っています。
①何が障害か?は時代や環境に左右される。
②例えば乙武さんのように手足がない人は、手足を作るリソースを他に回すことが可能(乙武さんはちょっと違ったところに回ってる感じもしないではないですが)
③環境の変化に人類が適応するためには、種全体としてDNAの多様性を保持しておく必要がある。
④環境が変われば、現在障害者と定義されている人の方が生存に有利で、現在健常者と定義されている人の方が障害者と定義されることだってある。
⑤障害者の方は、今は不利だけど、今後人類が多様性を保持して、生き残っていくためのDNAのプールとしての重要な役割を持っているし、人類の進化の可能性を示している。われわれの平凡な遺伝子とは異なる。
⑥障害者について、「我々もそうなる可能性があった」、「人類全体にとって必要な仲間」という意識を持つべきだ。
⑦よって、障がい者と呼ばれている方への支援は、ボランティア精神や憐みの気持ちから行うものではなく、積極的に行わなければいけないことなのです。
障がい者をお荷物扱いする発言をしてはいけないのは、それが人道に反するからではなく、事実として彼らがお荷物などではないからだ。
です。
もちろん介護現場の大変さとかいろいろあるでしょうが、人殺す理由にはなりませんよね。そんな考え方をする人は現在の日本で「健常な」考え方ではありません。植松氏の理屈に乗ったとしても、植松氏は自らも、自分が抹殺しようとした「障害者」だということを自らの行動によって証明したようなものです。