アトピーがここ1年半で随分ひどくなってしまって、首から下、上半身が特に酷くて、メンバーと銭湯に入って肌を見せるのも避けるようになった。
顔にまだあんまり出ないだけマシかと思ってたけど、家以外の場所(ホテルとか)で洗顔をすると顔が真っ赤になる。
家で使ってる洗顔料とかを持っていって使っても翌日ヒリヒリするからなんか多分違う環境に対するストレスに敏感なのだと思う。

アトピーは腸から来る、って話を聞いたことがあって、消化にエネルギーを使うものや、食べ物自体に色んなものが入ってたりすると腸から吸収した身体に合わないものが身体に出るらしい。
実際、掻いたりしてないのに皮膚の弱いところがガサガサになったりすることがある牛丼屋さんの牛丼を食べたら俺の場合はなる。(俺の場合というだけなので牛丼屋さん自体がどうってことじゃないぞ)
あるコンビニチェーンのお弁当でもなる。本当に、なる。

去年の始めぐらいからあんまりにも酷くなる一方だったのが休み始めたらスクスク良くなっていった。活動そのもので見えない負担自体もかかっていってたのだと思う。

「無理しないで」と言うけど、そもそも無理しない、ということ自体矛盾している言葉だと思っていて、サラリーマンが仕事に行くだけでもある意味「無理してる」になるし、クラス替えしたばかりのクラスで自己紹介をするときだってある意味「無理してる」。

「無理しないようにしよう」としてること自体いつもの自分からは「無理してる」し、もうわけわかんなくなってきた。

無理をすることが美学、とも全く思わないし、無理をする覚悟もなくひょうひょうと生活できるとも全く思わない。生きること自体に「無理してる」瞬間はたくさんあるわけで。

無理することが当たり前になり過ぎてる、なににおいても。そして少し高い目標に向かうときには無理しないと届かないものもある。ずっと、一生無理しないといけないわけじゃない。無理しなくてもいられる時間が5分でも10分でもあればいい。

剣道少年の頃、大晦日は初日の出を見るために地元近くの300メートル標高の山を登るのが恒例だった。先輩たちはぐんぐん進む。下級生だった俺は一番後ろにいる先生たちから「もっと早く登れー!」声を投げられる。でも先生たちはいつも笑顔だった。稽古中によく見る怒った顔ではなく。無理しているはずなのにその中に楽しい、と思えることがあったから毎年、なんだかんだ初日の出を見に山登りをした。


「無理をすること」に慣れすぎると、いつのまにか楽しい気持ちが一番遠いところにいってしまう。

1人で考え込むというのは時に毒で、時に大事なことで、無理してるその瞬間を楽しいという気持ちで上回れる要素はたくさんある。

無理することが偉いわけじゃない、
無理しないことが偉いわけじゃない。

最近の俺を取り巻く環境も相変わらず無理をしている。でも、あの時後ろから道場の先生たちが声をかけて楽しくしてくれたように、無理をすること以上に希望や楽しさを感じさせてくれる人たちがいる。


幸せはいつだって自分のためだけに優先していい。でもその幸せを共有できる人がいるだけで随分、「無理している」は意味を変えてくる。


どうせ無理してるんだから、無理している自分を愛してあげれるようにしていきたい。

「無理しないでください」より、「どうせ無理するならこんな風に無理してやろうぜ」と言ってほしいし、そう言いたい。

この仕事が終わったらちょっとリッチにハーゲンダッツでも買っちゃおう、映画の主人公になった気持ちで仕事をしてみよう、どうせ無理するなら変なことしてやろう。


自分の視界は自分だけのもの。