親族だけで母の小さいお葬式をしました。母の希望は、葬儀は最小限、後日、灰島かりとしてのお別れの会をやってほしいとのこと、お別れの会は8月に開く予定です。
こちらの連絡が遅れているのにも関わらず、新聞やネットで訃報を知り
大学の関係者さま、出版社さま、学者仲間の方たち、父の友人、私の友人、
多くの方からお悔やみの言葉・お花をいただき、本当にありがとうございます。
というかそもそも私
新聞記者出身なのに
新聞社・通信社へのご連絡もばらついて遅くなってしまいました。
母が最期に過ごした月島のマンションに取り急ぎつくったプチ祭壇は、
すぐに沢山の方が送ってくださったお花でお花畑になりました。
鎌倉の実家に送られたものも
ちゃんと月島や私のいる新宿に転送されてきています。
戒名は
清麗院かり日貴大姉
鈴木家がお世話になっているとても良心的な住職が
故人の実績を讃えたい、と
平仮名のペンネームを入れて下さりました。
清・麗という字も
なんかあってるというか
少なくとも母が自分を飾られるのに気に入りそうで、
とてもよい戒名だったと思います。
母は、父よりも先生よりも
激しく私のしていることを拒絶し、
諦めることなく、
最期まで話をしようとしていました。
モルヒネの影響であまり話せなくなる前は病室でも、
何故看護師さんはすごく親切なのかわかる?
テレビにうつってただ感じのいい人の役をやって満足?
入れ込んで書いたものと器用さで書いたものの違いはわかる?
と議論をふっかけてきました。
最期まで私の間違いを指摘し
最期まで私を世界で一番愛してると言っていました。
母の愛し方はそういうものでした。
遺体と対面しに訪れた母の友人たちは揃って
母について愛に溢れた人だったと言います。
父もそう言っていました。
私もそう思います。
包み込むような生やさしいものでなく、
散弾銃で打ち込むような愛情の持ち主でした。

父親がよく冗談半分本気半分で、
ロンドン住んでた頃の小さいみどりは可愛かったね
と言うと
母は真顔で
そう?今の方がずっと可愛いと言ってくれました。
私の過去の職業すべてに
私が好きなものすべてに
死ぬほど怒っている時でも
私にはあなたは今が一番可愛いと言っていました。
私には正直、
愛しながら嫌い、
嫌いながら愛すようなそのかたちが
未だに根本的にはわからない。
人は好きなものを愛するのだと思ってしまいます。
好き嫌いや是非を超えた愛があるとしたら
私の母の愛はまさしくそれでした。
私を傷つけるものは許さない、といい
だから自分を傷つける私を許しませんでした。
母が他界したことで
私の生活が急に変わることはないでしょう。
私は間違った男に抱かれた
間違った身体のまま
母の棺が火葬場に入っていくのを見送りました。
抗がん剤の治療で体力も衰えていた頃、
銀座でうきうきとカツラ選びをしていた母に最後に化粧してあげました。
彼女は最期まで、
人間の、女性の、
本質的な美しさについて考えていました。
ロングヘアが好きだった母は結局カツラはあまり気に入らず、
私がたまたま鎌倉でかぶっていた
もらいもののRadyの(笑)帽子を
気に入って横取りしてかぶっておりました。

そんな母の葬儀にダサい喪服もなんなので
FOXYのNYラインの真っ黒のワンピース
を着ました。
生前は私の服にしょっちゅう文句を言っていて、
改善のためによく一緒に買い物にいきました。
FOXYやナラカミーチェ、Theory Luxe。
そういえば祖父の葬儀も
2人で、喪服じゃない
BCBGのセットアップで出ました。
すっかりしょぼくれてる父と祭壇を作った後、
新宿の部屋に戻ると
そこは相変わらず私の好きな
間違ったくだらない光景が変わらず広がって、
私を必死に笑わせようとしてくれる人が
全身マッサージしてくれました。
うん、週末にでも一度鎌倉に帰って、
母のバッグでももらってきます。
締め切りとマメな連絡を大切にね❤︎すずみ
コメント一覧
コメント一覧
現在知り得る限りのあなたのプロフィールに、衝撃と嫉妬と下世話な好奇心を抱いてここにたどり着いたけれど、何度も何度も読み返しては、落涙。
どうぞお力を落とさぬよう。