2009年は、前年かなり仕込んだ10周年企画の後
ネタも無くなってきた。
とりあえずやろうってなったのは過去のアルバムのリ・レコーディングをしてそれをシングルとしてリリースという話がきた。
これが決まるまでは、紆余曲折あったんだよね。
やりたいっていうレーベルと乗り気じゃないメンバーとって感じだった。
なんとなくこの頃、俺も含めて皆んなが燃え尽きてる感じだった。
俺に関しては今思えば、SURVIVEで10年色々な事ある中一度も休まずに走ってきたから当然かもしれないね。
仲間のバンドの解散やら、仲間のバンドメンバーの死やら、シーンの環境が変わってきたのもある。ライバルだと思ってた人達がどんどん消えていく時期でもあったし、なんとなく孤独感とモチベーションの低下になっていったんだな。
とはいえ、相変わらずステージで演奏するのは楽しいし、その辺がまた混乱させるんだよ。
この年は幾つかのアジア公演や(NAPALM DEATHやHATEBREEDはかなり刺激だった)
2マン企画(rebel-nationがスタートした)で復活間もないSHELL SHOCKやCONCERTO MOON等呼んでやってみたりした。流石素晴らしい演奏を奏でてたね。
そしてこの年はこんな状況で進んでいった。
途中ryosukeがBAT CAVEが復活する為に平行してバンドをやると言い出した。
俺の経験上、これは悪い傾向だと判断した。
SURVIVEだけでも忙しいのに、そんな余裕どこにあるんだ?と、当時は全く理解できなかった。
そしてなんとなく生活も荒れ出した。
sinjilowにも八つ当たりに等しい言動が増え
完全に人との距離を置いてしまったね。
この頃からそろそろ海外での活動も増やしたいと考えていた頃だったし、当時のメンバーとのモチベーションの違いを感じた事もあり、完全に孤立してたね。良くない状況に自分で陥ったと思う。
そんなこんなで2010年の終わりにはryosuke脱退。hirokiも脱退。SURVIVEとしては最悪な年だった。
しかし、新しいメンバーを探して再建をする。
以前からツアーで青森行くと対バンしてたGROUNDのギタリスト GOとやはりツアーで地元バンドで出ていたつくばのCROSS OUTでドラムをやってるSINTAROUを入れて、いきなり韓国公演と東日本大震災のベネフィットライブをクラブチッタ川崎に出演した。
まだまだ荒削りだったし、その良さを発揮しないままライブをしてたけど、やはり現場で叩き上げるという方法を俺は選んだ。
これは持論だけど、スタジオや家で練習しまくるのは当然で、やはりその凄みやらオーラすら磨ける場所はやはりステージ。
いいステージ、ダメなステージを経験して強くなっていくんだという意味を新しいメンバーには叩き込んでいった。
そして、海外への夢を叶えたい。ただ行くという訳ではなく、コンスタントに海外ツアーするという目標でその思いは加速していった。
しかし、海外にコネは無いし、その頃どうしたらいいのかも分からなかった。歳もそろそろ35になるし焦るよね。そんなこんなで過ごしていたらメールでMETAL BATLLE JAPANという団体から"オファー"が。
最初は胡散臭いなーこの話と思ったけど、なんとなくやってみる?みたいな話になって。
やってみない事にはわからないでしょ?って事で出演する事に、皮肉にもこの結果が俺たちの火事場のくそ力を出させる結果になったね。
まあ、内容としてはとても悔しい、
悔しすぎる負け方をした訳ですよ。
納得できる負け方なら良かったけど、やはりそこは大人の事情?も絡んでるよねあれは。
まあ過去の事だからもういいんだけど、当時の気持ちとしてはね。
審査員の皆んなにしたり顔で彼らは自力で行ってもらいたい!みたいに言われたけど、自力で行けたら行ってるっつーの(笑)行けないから
そのチャンスを掴みに来たのにな。
その頃ガチでエールを送ってくれたのはライターの増田さんただ1人だった。
今でも増田さんには感謝してるし、あの時声かけてくれたのがとても励みになった。
そして惨敗し、人知れず泣いていたSINTAROUの姿を見た時、リーダーとしての責任も感じた。
必ず海外に出るぞと、俺は覚悟を決めた。
そんな時まさに捨てる神あれば拾う神ありで、
イタリアの今も契約しているエージェントから突然連絡がきた。
是非海外のツアーをやらせたいとの事。
突然のメールだったから、そりゃ最初は疑うよ。しかし、向こうからのコールはかなりの期間マメにくれた。
1か月くらいして、ようやく英語達者な友達とイタリアのエージェントでSkype。
話は決まった。最初のツアーは2012年9月。
場所はロシア全土を周る。
しかもその相手はポーランドのカリスマ"behemoth"これはヤバイね!新たな希望を胸に全員で出国準備を進めた。