月別アーカイブ / 2016年07月

SURVIVEはスタートしてすぐに、デモ、ライブを始めた。突然のバンド解散にじっとしていられなかったんだろう。
UNITEDの内野さんラストツアーに俺は帯同し
デモを配りながらローディーをやり、最後は打ち上げで内野さんのせいで丹下さんに絡むという失礼な事をしながらも(その節は失礼いたしました。内野さんのせいなんで。)結構な本数を配った。
頑張らなくちゃという反面不安だらけだった。
何せ歌った事もない俺がG&voとしてやるんだからね。丁度その頃PULLING TEETHで歌い出した鈴木さんに「俺も始めたし、NEMOも歌うだろそりゃ〜」と言われたのもあって何となく始めた。
いくら俺がmetallicaのjamesがアイドルだと言っても、中々上手く行かなかった。
最初は歌なんか歌いたくなかったしね。
で、初ライブは今やマイナーリーグで大成功を収めたK.S.Kが当時やっていたバンドの企画で演奏するチャンスを得た。
奴は必ず何か節目の時に世話してくれるね(今でも最高のダチだ)
そして、その20000Vのイベントでデビューライブ、結果は散々だった。
歌えねえし俺。すぐ声も出なくなりマジ悔しかったね。
でも始めたからには諦めない。
それは今でも俺の哲学として身体の中にある。
とにかく人がやる何倍もリハーサル、個人練、
歌の研究を始めた。
俺は歌の才能は正直ないし、努力するしかねえんだなと心に決めた。
歌えねえのに頑張ってるなNEMOみたいな目で見られたら、必ずてめえら見返してやるからな。とまさに悔しさと怒りをバネに頑張った。
1stアルバムが出るまではひたすらツアーをしたよ。
そして2年の歳月が経ち、1st アルバム
「AGAINST NEXT」を自主制作でリリース、
このアルバムは中々いいセールスだった。
金も沢山入ったし、ツアーのグッズもよく売れた。
しかし、俺の中ではなんか足りないんだよな。
作った曲達もまだまだ詰めが甘いと感じ、アレンジをしながらツアーも進めた。
DF流れのファンはその音の変化に離れていった。当時最前列でDF tシャツ着てる人達みると辛かったな。
音楽性の変化も今思えば、DFへのアンチテーゼだった訳。
その位当時は思い出したくないくらい憎かったね。
そんなこんなでツアー中、千葉LOOKでの公演があった。そこに一本の依頼が、UNITEDに湯浅が加入したから、そのウォームアップギグに
枠をくれないかと小屋から相談。
あいつ、やっぱり加入しやがったね。
それも俺たちのツアーでそんなお願いかよ。
UNITEDがそういう考えでお願いするのは分かるけど、顔よく知ってるしね。
ただ、このシチュエーションはあんまり俺的には穏やかではなかったな。
まあ、たまたま空いてるのもあったし、まあいいかって雰囲気を出して依頼は受けておいた、
ただ、未だ許せない何かがあったのは事実だったね。
当日、かなりピリピリしたよ。結局あいつとは目を合わせなかったし、口もきかずにその日は終わった。
まあいいや、またなって感じでさ。
そしてそのアルバムのツアーファイナルをサイクロンで無事に終え、アンチノックでの企画も沢山の人が来てくれてとても嬉しかった。
また再スタートできたと実感できるのに実に3年近くかかったんだな。
その頃、ハウリングブルの小杉さんやヒデもその企画に来ていて、またブルでやろうという話になった。2002年「CHAOS CONFUSION」リリース。
このツアーは楽しかったよ。
専属とも言える担当もついて、元SUCK DOWNの金田a.k.a金ヤンね、
ツアーブッキングから何からかなりお世話になった。
俺的には歳も近く感覚は合ってたし、とても頭のキレる奴だったからとても楽しい日々を過ごしたよ。
SURVIVEの歴史の中でかなり感謝してる人物の1人。
とにかくツアーを続けて、新宿ロフトでファイナルを迎えた。この時も沢山人がいたね。
素晴らしく楽しいライブだった。
小杉さんがステージで歌ったのも今となっては激レアなシーンだね。当時のEAT magazineに出てるからチェックしてみな。
そしてその勢いのままバンドは3rdアルバムのレコーディングへ。このレコーディングもとても楽しかった。メンバーもようやく安定し、楽しんでレコーディングしたね。
そして2003年「REBEL-LION」リリース
このツアーも凄まじくやったな。ファイナルは遂に渋谷クラブクアトロ。
最初のマネージャーだった加藤と、当時俺が衝撃を受けてそのバンドのもろ影響下にあったそのバンドの初来日した会場だ。
そのバンドとはSOULFLY、metallica以来に俺の中で最も影響を受けたmax率いる新バンドだ。
その初来日見た時にあまりにカッコよくて、「加藤、ここで俺必ずやるわ」と意気揚々に語ってたあの会場だ。(後にMAXとはロシアのフェスで会ったよ!同じ日に同じステージに立った。夢は叶うんだぞ皆!!!)
当日は色々あって大変だったが、ESP丹生さんやSMASH南部さんや小杉さんや沢山の人の力を借りPEACE MAKERも冠で付いてくれてそのイベントは成功した。とても良かった。苦労してここまでこれたよ!って感じだった。
照明からPAから演出まで、全てを計算してやった最初のライブ。これぞSHOWという空間を作り上げられて本当に満足だった!
この頃にはガキの頃からの知り合いだったSINJILOWも加入しまさにいい雰囲気でやり出せたころだったね。
そしてその後2年半くらいはライブ活動とツアーを続けた。そのツアーで段々新しい曲もでき始め、そのスタイルは今に繋がるターニングポイントとなったアルバムのレコーディングの準備に入る。2005年の頃だった。
その夏、プリプロにも飽きたからという理由でREBEL SUMMER TOURというのを開催。
それが始まる直前にドラムのKOUSKEが突然脱退。これは参ったね。何せツアー2週間前だったからな。
それでとりあえず柏でよく会ってたし、その頃はSURVIVEでパーカッションもやってた流れでHirokiにドラムを頼む。あいつは1週間で14曲覚えてかなり細かいところまで作ってきてたよ。
無事にツアーはスタート。
難なくこのツアーをこなしたHirokiは凄かったね!
そしてそのまま正式メンバーとしてプリプロも再開。
ニューアルバムのコンセプトは俺のルーツにあるメタル帰りをする事。
パーカッションが無くなった事により、より音をソリッドにしたい欲求も高まったからだ。
そして、トライバルビートよりもよりスラッシュメタルなビートをまた使いたいさと思ったのもありそのような変化を求めた。そして出来上がった曲たちでレコーディングに入った。

場所は高円寺20000V
今は亡き場所にあった老舗の小屋だ。
この日は何かを吹っ切ろうと演奏しまくった。
そして、演奏しながら何があっても音楽しかないんだ!!と確信した夜だった。
何があろうと演奏する楽しさは変わらなかった。最早取り憑かれた何かのような気分だ。
そして遂にバンドの1st アルバムHang My Selfがリリースされた。
UNITEDと東名阪ツアー。大阪、名古屋クアトロ、渋谷ON AIR WESTなどでそのツアーは続いた。
ヌンチャクとの北陸ツアーやGARLIC BOYSとのツアーも楽しかった。
楽しすぎてブログでは書けないな(笑)とても長くなりすぎるから。そのうち著書でね(笑)⬅︎出るのかよ??(笑)

バンドはセールスもヌンチャクが作ったKCの流れもあり良かったようだ。
地元でやってた時に比べると地方にも沢山のファンが付き、東京でのライブもその雰囲気が変わってきた。
若かったし、なんとなく有頂天になってやってた感あるよね。
時代はとても良かった、変なインディーズバンドでも出せば10000とか言われてた時だったからいいのか悪いのか、まあ、バブルだよね。
そんな時代を過ごして沢山のツアー、沢山のライブ大きな箱でもやったり、とても満足してた。
そしてその翌年にはまさかの僚友ヌンチャクの解散…
柏繋がりで沢山のチャンスをヌンチャクから貰ったし、ずっと続くと思ってたから、とてもショックだった。
その解散ライブは当時の赤坂BLITZ、悲しんだ人々で溢れかえってた。
あそこにDFも出演したけど、あの歓声や、あの熱気は今思い返してもそう感じることのできない異様な熱気だった。
そして、ヌンチャクは地元柏aliveにて最終公演を行った。
なんか、心に穴が開いたねこの時ばかりは。
そして、その翌年DFも解散する。98年だった。
DFは2ndアルバムの曲を準備していた。
俺は変わった音楽性にしたくて模索していた。
それと湯浅とのずれかな。
そんなこんなで続けてたら湯浅が辞めたいと。
俺は湯浅以外のヴォーカルはあり得ないと思ってたから、頭にキて「じゃあいいよ解散しようぜ」って。正直マジこいつなめてるなと思ったね。心底腹立った。
それ以前にもあいつは秘密裏にUNITEDの古井さんが抜けた後、加入を打診してた事も聞いてた。いい加減ワガママさにうんざりしたね。
解散発表はその年の8/14だったかな?
PULLING TEETH主催クラブチッタのライブ中に発表した。泣いてるファン、悲しすぎて泥酔、柵投げ、ダイブ〜骨折して伝説を作った大谷さんやらなんか何とも言えない、色んな人を裏切ってしまった気分だった。
沢山の人が関わってくれたのに、こんなのあるかよ!ってさ。バンドやメンバーっていい時期、悪い時期あるけど、それは当然だし、何のバンドやっても何年もしたら必ず出てくるからねそういうの。
それで、そのバンドは終わり。
今こうして書いてても当時の事は思い出すと嫌だね。今はそんな事思ってないけどな。当時は若かったな。
そんなこんなで、俺は悔しさと復讐心めいたもので新たなるバンドを結成した。
あいつらが死んだって俺は絶対生き残る。
そのような復讐心によりこのバンドを俺はSURVIVEと名付けた。

続く。

遂にバンドは2本目のデモレコーディングに入る。まだ高校生の坊ちゃんに深夜のレコーディングはなかなか辛かったなー。
その頃、やはりPANTERAのサウンド、特にリズム隊のサウンドを研究した人は多いはず、
やはりこのレコーディングでもどうやったらあんなにバチバチいうの?とかなんとか大谷さんや当時のエンジニア中尾さんに相談して
トライしてみたのが、アルミ缶を板にしてビーターが当たるとこに付けて録音するっていうのやってみた。
これは実際の所、効果があったのかどうかは謎だったけど(笑)
気分は高まるよね。このなんとも言えないレコスタの楽しさね。
数々のぶっ飛んだテイクを武田くんは仕上げていくんだけど、ベースのテイクが中々決まらなかったなー。ギターはまあサクッとやったけど。
ボーカルは凄く良いテイク録れて満足したのを覚えてる。
録音後、プレイバックしてる時に中尾さんほぼ寝てるからね。
あの人凄いのは、テープが終わってスルスルスルっていう音なると、何事もなかったかのように「はい、どおっすか?」だもん(笑)寝てたでしょーっていうと、「いいえ、寝てません」
かなり繰り返したねこのやり取り(笑)
まあとにかくここに完成したわけ、DEATH FILE DEMO2っていうのが、デスメタル、グラインド、スラッシュ、色んな要素をぶち込んだ
カテゴライズ不要なメタルだと思ったね👍
それを手に今度は派手に無料配布しちまおーぜ
って事で、プロモーションですよプロモーション!
で、先ずは、とにかくテープからテープへのダビング。
大谷さんから7台くらいスタジオのデッキ借りて、ループしてダビングしてたよ。
この作業中々楽しかったね。今だったら絶対嫌だけど(笑)
このダビング作業もアナログ時代のいい思い出だね。
そして、その頃UNITEDつながりでハウリング・ブルの社長やスタッフを紹介してもらって
その繋がりでEAT magazineにデモを紹介してもらったりして、かなり反応あったよな。
俺の高校からの友達であり当時はカセットレーベルのオーナー(笑)であった池田があっちこっちに送付してくれてさ。助かったよね。
アメリカからもair mailで来たりさ、凄く嬉しかった。手紙が入ってたりね。
あと、この時代はよくテープトレードやったりしてた。お互いのデモをトレードしてその地域地域で配ってもらうやつね。後のストリートチーム的な?
そんなこんなで沢山の人に手伝ってもらえてとてもありがたかったな。
気が付いたら1千、2千と伸びていくからね。
ライブでも当然やってたから、凄く本数いったよねこのデモは。
で、暫くはヌンチャクとやったり、LOOKでその広がりから色んなツアーバンドとやるようになってスキルを上げていった。
そんな中、初めての遠征話が来た。
今は無き伝説のfineという福島のスラッシュバンドのイベントにヌンチャクとDFが福島と仙台に行く事になった。まだ免許なくてさ俺たち誰も(笑)
ヌンチャクは免許持ってるメンバーいたから、達郎やクニさんと話してギターとかは持っていってくれるとの事なので、俺たちは夜行バスに乗り福島目指した。
凄い楽しい旅路だったねー。バスから電車に乗り継ぎして、大自然を味わい。福島でライブをやる喜び!
しかし、この地方遠征初回のライブが俺的にはあり得ない程最悪な出来だったんだよ。
ドラム、とにかく曲間違えまくる。
曲順から曲から間違えまくる。なんだこいつ?
と思い、淡々とやってるように見える他のメンバーの姿にもかなり腹立ってね。気が付いたら途中で俺はステージ止めてた。
馬鹿らしいって思ってさ。周りには良くない態度の奴に思われただろう。
だけど、俺はこんな演奏聴かせに来たわけじゃないし、こんな間抜けな事続くなら止めようって思った。無音の方がマシだったね。
その後は覚えてないけど、次の日の仙台は気を取り直してなんとか上手くやったのを覚えてる。
やっぱり当たり前に凄い演奏する為にはみんながそういう方向向いてないとな。
悔しさに打ちひしがれた初遠征だった。
2度目は俺が免許取得し(笑)姫路と大阪でUNITEDのツアーに参加させてもらった。
今は亡き横さんにもこの頃は本当可愛がられてたねー。初のツアーでの印象は、ドラムの内野氏のMAD MANぶりと地方のメタルファンの温かさかな。早くもファンと言われる人達もいたし。この二本は凄く決まったってのを覚えてる。95年とかそんなもんだったかな?
その年はかなり頑張ったけど年の後半に佐久間(アナルファイター詳しい内容は都市伝説を聞くか、EAT magazineのバックナンバーでも探してくれ)の脱退、それに伴ってギター探し。
確かアンチノックのライブかなんかで、呂律の回ってない一人の男に「メンバーになりたいんだけど、まだ募集してんの〜????」と話しかけられた。それがRYOSUKEだった。
いい雰囲気を持つRYOSUKEになんとなくこいつはスゲーんじゃねえか?って思い。
直ぐにテープかなんか渡すかしてとにかくスタジオ入ろうと話した。
そのスタジオ当日、俺は約束を1日間違え、柏で彼女だか友達だかと歩いてるとこRYOSUKEがギターケース持って待ってるわけ。
俺は「あれ?どおしたの?スタジオ明日だよね?」って言ったらRYOSUKEはいや、今日だよ。って言われた(笑)それが初スタジオね。
とりあえず個人練で2人でスタジオ入って翌日オーディション。
俺的にはもうこれだって感じだったけど。
1人スタジオに残されたRYOSUKEは待たされてるのにイライラしてたみたいだね。
そりゃそうだよ。皆んな数曲終わったら無言でスタジオから出て行くんだからね。
で、無事RYOSUKEに決定した。その頃Ritual recordsのJUMBOさんとかも繋がり。
新しいデモを録る。
RYOSUKE加入して最初の仕事はレコーディング!!!!!!!
そして当時は誰もがここでレコーディングしたであろうサウンド クルーでDEMO3は完成!!
後のアルバムにも入る曲が収録され、クオリティも1番良いものとなった。
これを持って最初のツアー、今でも俺がリスペクトしてるHELL CHILDとCORRUPTEDとDEATH FILEによる「極悪ツアー」が始まった。いやーこのメンツマジびびるから。
生きて帰れないと思ってたもん(笑)
でも始まって見ればとても楽しいツアーだった。ライブやって飲んで、起きて移動して、ツアーの中でのライフスタイルを学んだよねー。
タフなツアーだった。憧れのバンドと毎日旅できるって本当に素晴らしい経験だった。皆んなの背中を見て良いところはどんどん吸収してった。とても成長できたツアー。
ツアー中武田くんがおかしな行動多い以外はとても良いツアーだったよ。RYOSUKEもとても良い奴っていうのが、このツアーを通してよく分かった👍
その頃インディーズはなんだかやたらと持て囃される時代に突入し、客も沢山、ツアーもワイワイととても楽しい時代に入ってきたようだ。そんな中ヌンチャクが衝撃的なアルバムデビューを飾った!!
これは嬉しかったよね、同時に悔しかったけど。しかもみるみるうちに凄い人気になっていった、ここに当時のインディーズの強さが垣間見えるよね。
ヌンチャクはどんどん新しい世界を開いていった。でも彼らはちっとも変わらないスタンス、そこが良かったよね!あ、1人だけ変わったかなーって奴いたかもしれないけど、分かるよな?
あの頃千葉、柏共に凄い盛り上がってきてたね。UP HOLD.SWITCH STYLE.AZAGTOTH.HELL SCREANとか、色んなタイプのバンドがせめぎあってやってたよね。楽しかった。その頃現aggressive dogsにいるKei(bass)とも友達になり、たまに俺の家で遊んだりライブハウスで毎回顔合わせたりしてた。今でもとてもいい奴です彼は。全く変わらないからね👍
96年辺りには遂にDFもハウリング・ブル内のRitual recordsからデビュー決定した!!!
マジ嬉しかった。今より大変だったんだよ。アルバム出すっていうのが、重みも違ったし。
レコーディング楽しかったよ。皆んなで一生懸命作ってさ。そしてアルバム完成して、その出来上がったアルバム、黙って応援してくれてた親父に聴かせたっけな。今でも覚えてる。
お前ようやくプロになるんだなと。その数日後に親父は急死してしまった。くも膜下出血でね。呆気なかったよ。1時間程家を空けて俺が帰ったときには死んでたからな。
1時間前までは会話もしてたのに、呆気なく死んじまった。
この時はまだマスタリング作業してたりなんだりだったけど、それどこじゃなかった。
湯浅と残りのメンバーにそれを任せた。
湯浅だけはそんな中通夜も葬儀も顔だしてくれて、あいつは本当の友達だなってその時はとても感謝したよ。
その3日後、葬儀後のゴタゴタもある中ライブが決まってた。メンバーやまわりにはキャンセルしてもいいって言われたけど、キャンセルせずにやった。なんかキャンセルしたら自分に妥協が出そうだったからな。
そして重い気分のまま、悲しみを引きずったまま会場にむかった。

続く

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