月別アーカイブ / 2013年05月

映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明(2013年4月15日~9月1日)を再録


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 高畑監督の「かぐや姫」の企画書を読んだときにまず抱いた感想が、「銀河鉄道の夜」の印象と似ていたと述べた。その理由の詳細について書いていこう。
 「竹取物語」の作中で具体的には明かされていない、かぐや姫の犯した罪の内容。その謎を綿密な推理と豊かな想像力によって解き明かしていく行為は、この上もなくスリリングで、有意義であろうことは容易に想像がついた。既存のテキストに対してひとつも嘘をつくことなく、しかし同時に、確かにこうであり得たかも知れない、という新機軸の解釈を打ち出せたとしたら、世紀に残る大傑作になるだろう。日本人なら誰もが知っている作品でありながら、誰もが見落とし、誰もが手をつけてこなかった宝の山がいま目の前にある。想像するだけでワクワクした。
 しかし一方で、謎として残されていたはずの聖域に踏み入り、一義的に解釈を固定してしまうことで、作品が本来持っていたはずであろうミステリアスな魅力は減じてしまうのではないか、という懸念もあった。謎は謎のまま放置されているからこそ面白いという側面もあるかも知れない。全てを明るみに出すことが最良とは限らない。ちょうど、すべての謎を詳細に解説してしまうブルカニロ博士の扱いに、他ならぬ賢治自身が辟易としたように。
 「かぐや姫」も同様に、丹念に積み上げたものを、どんどん解体していくことでしかその魅力を表現することのできない作品なのではないか。すなわち本作は、「決して完成させることのできない作品」である事実を証明するための企画なのではないか。そういう直観を僕は抱いたのである。


生意気にも僕は、こうした感想を率直に高畑監督に伝えた。監督は怒りもせずじっと耳を傾けていたが、話を聞き終わるとタバコに火をつけしばらく黙していた。それからおもむろに口を開いた。「あなたの銀河鉄道の話は興味深かったです。特にいくつかの点については、ほぼあなたに同意できます。でも、この企画に同じ分析が当てはまるとは思えません」
 僕はあっさり自説を引っ込めた。違うというなら違うのだろう。しかし今考えてみるに、実はこのときの発言によって、監督は僕と話す時間を設けることを善しとしてくれた気もする。「この作品はきっと完成しないと思います。」そういう天邪鬼な言葉にこそ、高畑監督は注意深く耳を傾けるタイプの人間であることは、後になってだんだんと分かってきた。
 こうして僕は次の日から、高畑邸に連日通いつめることになった。監督の壮大な構想を、細部からひとつひとつ構築していくために。監督の口から飛び出す話は、作品に直接的に関係することから、直接的には関係しないこと、そして全く関係しないことに至るまで、すべてがずば抜けて面白かった。物事をこれほどの深度と強度で考えている人間がいるのか!僕は唖然とし、感嘆し、圧倒され、心酔した。監督の口から出てくる言葉を余すところなくことごとく書き止めようと、一心不乱にノートを取り続けた。
 そして半年後―。
 ひたすら書き溜めた膨大なメモを元に、高畑監督の意図に可能な限り忠実に再現した(つもりの)脚本の初稿が完成した。その脚本を監督にコテンパンに駄目出しされた瞬間、僕は自分の実力不足を棚に上げて、なぜかある達成感を覚えていた。負け惜しみのように聞こえるかも知れないが、その当時は既に、悔しいとか悲しいといった月並みな感情を抱く精神状態を通り越していた。僕は自分の役目を終えたと思った。バトンを次のランナーに渡すときが来たのだ。同時に、こうも思っていた。やっぱり僕が最初に抱いた直観は正しかったのではないかと。
 しかし、本作は今まさに完成を迎えようとしているという。僕は自分の直観が結局のところ外れていて、どれほど嬉しいか分からない。この歓びの源は、高畑監督のもとに通い詰めたあの日々があったからだと思える。だからこそ、本作が公開される日が、今からただただ待ち遠しいのである。

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映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
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「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明(2013年4月15日~9月1日)を再録


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 高畑監督を前にして、「かぐや姫」の企画書を読んだ感想をおそるおそる切り出したときのことは今でもよく覚えている。僕はその時、自分の受けた印象を説明する上で、「銀河鉄道の夜」を引き合いに出したのである。
「銀河鉄道の夜」。日本人であれば、その名を知らぬ人はいないであろう宮沢賢治の未完の傑作である。実はこの作品には、四つの異なるバージョンが存在することをご存じだろうか。現在、世間で最もよく読まれているのは、最終的な第四次稿である。誤解を恐れずに言うならば、改定されるたびに作品はどんどん非論理的に、そして抽象的になっている、というのが僕個人の印象である。
 当初、ブルカニロ博士なる人物が明確な意図を持って実施した催眠実験としての銀河旅行は、まるで主人公ジョバンニの夢であるかのような体裁に変化していった。そのブルカニロ博士も改稿につれて姿を現さない声だけの存在となり、ついにはその声までもが消されてしまう。博士が、銀河の旅から得るべき教訓を主人公のジョバンニに延々と語って聞かせるラストシーン、ある意味で説教くさい作品テーマの部分も、第四次稿では見る影もなく、ごっそりと削ぎ落とされている。
 本作において、ひとつの星座は、ひとつの理念(パラダイム)を表象していると考えられる。科学を信奉する者は白鳥座で下車し、キリスト教を信奉する者は南十字星(サザンクロス)で下車する。死んだ人間がそれぞれに思い描くさまざまな「天国」。そうした全ての「天国」を貫いて走るのが、究極の真理としての銀河鉄道である。仮に違う宗教を信じていても、死んでから「天国」に行くまでのわずかな時間は、同じ空間を共有していたっていいではないか。いくつもの星座(パラダイム)を巡りながら銀河の中心に向かってひた走る銀河鉄道には、賢治のそうした祈りにも似た思いが見える気がする。そして初期バージョンの原稿では、ブルカニロ博士は割合と分かりやすく、そうした作品テーマを解説してくれていたのだ。
 しかし、個々の宗教を超越していこうという言い草は、それこそ極めて宗教じみている、と賢治自身も感じたはずだろう。個別の宗教に囚われることを否定したいと思いながら、結局のところ、“ブルカニロ教”という別の宗教をこしらえているに過ぎないのではないか。その矛盾に悩んだ結果、賢治は一度書いたものをどんどん削っていくという改定作業に没頭したのだろうと僕は推測する。賢治がもう少し長生きしていれば、「銀河鉄道の夜」は完成したのではないかとみなす識者もいるが、果たしてそうだろうか。さらなる改稿により、どんどん作品は削られていき、ついには何も残らなくなってしまった可能性すらある。というのは、「銀河鉄道」という超越論的な存在を想定している発想そのものが、既にどこか宗教的だからである。
 それゆえ、「銀河鉄道の夜」という作品は単体のテキストとして読まれるべきではない、というのが僕の持論である。第一次稿から第四次稿に至るまで、一度書かれた文章がどんどん消去されていく瞬間に放っている光こそが、この作品の持つ魅力の本質なのだと僕は考える。「銀河鉄道の夜」は、未完たるべくして未完なのだ。言うなれば「決して完成させることのできない作品」だったのである。
 なぜ、長々とこんな話をしているのか。それは「かぐや姫」の企画書を読んだときに抱いた感想が、「銀河鉄道の夜」について僕が持っていた印象ととても似ていたからである。その詳細については、次回、書くことにしたい。

 

映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明(2013年4月15日~9月1日)を再録


 脚本が完成する、と、思っていた。櫻井氏が3/5を書き上げて、それぞれのパートに関しての高畑さんの反応も上々のはずだった。考えが甘かった。

 あれは2009年2月21日。起床すると携帯電話に留守電が入っていた。着信の時間は午前3時ぐらい。高畑さんの自宅からだった。ぼくは留守番電話を聞いた。


「明日、加藤周一さんのお別れの会があるんですが、その後、時間をください。荻窪の新しいほうの喫茶店で待ってます。」


 声が苛立っていた。ぼくは、あわててPCを開き、メールをチェックした。すると、櫻井氏から脚本の初稿が送られてきている。ダメだったか……。

 その日の午後、ぼくは荻窪の“新しいほうの喫茶店”である宵待屋珈琲店で高畑さんを待った。「子守唄の誕生(仮)」のとき、荻窪の西郊ロッヂングという民宿で4泊5日の企画合宿をしたのだが、その際に色々な喫茶店へ行った。どの喫茶店も、良い思い出がない。最悪な思い出は、蕎麦喫茶「グロッケンシュピール」での高畑さんのK氏への激怒。ぼくは「喫茶“魔笛”事件」と呼んでいる。今日また、この荻窪の地で、新たな事件が生まれるのか。

 高畑さんは店に入ってくるなりブレンドコーヒーを注文した。そして、眉間に皺を寄せ、煙草を燻らせながら切り出した。


「一緒にどうあるべきかを考えながら進む予定だったはずですが、 やはり、結果としては私が考えているのとは違いすぎて、 フォローしてもらった、という感じがしません。このまま一緒にやるのは難しい。」


 沈黙。ぼくも煙草に火をつけた。脚本は、高畑さんの考えを全て詰め込んだもののはずだった。高畑さんも納得しながら進んでいたはずだ。何がいけなかったのか。ニュアンスか?台詞回しか?分からない。ぼくは高畑さんに質問した。

 高畑さんは個別具体的に脚本の問題を指摘した。30分ほどかけて説明してくれた。ぼくはトイレに立った。用を足しながら考えた。すると、頭の中に何かが引っかかった。手を洗い、手を拭いて、席に戻った。


「高畑さんが指摘している問題は、共通して、描写に関してです。ただ、彼は脚本家で、文字で語りうる範囲のことしかできません。場面を細かく描写していく作業は、彼の仕事ではない。仮に彼が脚本上でそれをやったとしても、高畑さんと共通のイメージを彼に要求するのは酷です。櫻井氏の脚本の問題点を僕なりに整理すると、仰るとおり、彼には降りてもらったほうがいい。ただ、であれば、誰が書くかは明らかじゃないでしょうか。」


 高畑さんは黙って聞いていた。数分後、「僕が書くしかないようですね。」 高畑さんは、そう言って煙草に火をつけた。

 よし、うまく切り抜けた。ぼくはそのとき、そう思っていた。その考えもまた、甘かったことに後で気付く。

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