【真・日本史「みすゞかる都信濃」①】山部王と安倍晴仁
『みすずかる』とは、いにしえの歌に詠まれた信濃國にかかる枕詞。
都が飛鳥から奈良に遷都してからおよそ7年。日本國はいまだ統一されず、出雲・大和(邪馬台)連合王朝と入れ替わった現在の朝廷(天皇=当時は大王)の勢力は、蝦夷(えみし)と呼ばれる民が暮らす東北日本には及ばなかった頃。その蝦夷地との境『信濃國』に一人の皇子が誕生した。
皇子の名前は『山部(やまべ)王』。第50代桓武帝である。794年平城京から平安京への遷都と征夷大将軍坂上田村麿呂を派遣し東北日本(蝦夷)を併合して歴史に名を残したというとわかる方が多い高名な天皇だ。父は天智帝(中大兄王)系の光仁帝(白壁王)。母は渡来人系で信濃國筑摩山辺郡に暮らす豪族高野(たかの)氏の媛、新笠(にいがさ)。山部王は、717年に当時の慣習で出産は母の実家で為すため、松本山辺郷で生まれ、元服までを松本・安曇野で暮らした。長男ではあったが正室の子でなく、しかも、父の白壁帝(光仁)も、当時天武(大天海王)帝系の皇子が皇位に就くという流れのなかでたまたま都に流行った疫病や豪族王族同士の争いで天武系の皇位継承者が枯渇したため、一代限りの約束で、しかも老境に入り践祚したいきさつがあり、山部王も皇位を継ぐ予定はなく、ゆえに悠々自適に信濃の自然の中で成人した。故に成人するまで山部王は平城京も父白壁王の姿も知らないで育った。
ところが、豪族王族争いあう平城京の混沌と流行した疫病により、天武系の皇位継承者が1人残らず絶えてしまうに及び、737年。山部王20歳の春、皇太子になるべく都に召還されることになったのだ。
ものがたりは、ここから始まる。
都から松本への迎え役に選ばれたのは、朝廷の中級官僚で、当時飛鳥文殊院ににて修行中だった24歳の若者で陰陽博士泰氏安倍姓の『安倍晴仁(あべのはると)』。
山部王(桓武帝)と安倍晴仁が造営をすすめるも幻に終わり平安京への遷都と同時に歴史から抹消された『信濃遷都』の真相を、1300年の封印を解き放ち、安倍晴仁から四十四代末裔の筆者が、未來に改めて語り継ぐために壮大な夢ものがたり『みすずかる都信濃』に書き起こす。エビデンスは、初代安倍晴仁が桓武帝山部王から信濃派遣の際に預かりし、当時の国書50万点。特に、その後中の皇室私的記録【先代旧事本記】【信濃国風土記】桓武帝御璽押印の【原典】。平安京遷都にあたり、中臣藤原加茂氏により痕跡も残さず歴史から抹消された【信濃遷都計画】。ベールに包まれた日本の黎明期の歴史の秘密をいま、開くものがたりを始める。
2023.3.28(火)
従二位左大臣泰氏安倍惣領四十四世中臣代晴逸(谷澤晴一)
(写真は松本市山辺の須須木水神社。山部王の宮居跡地にある諏訪社。)